信心根本で社会に飛翔

 本日は三大学会の総会、心より祝福し申し上げる。とともに、遠距離のなか、たいへんに寒いなかを、若き秀才がこのように参集してくださったことに対し、深く感謝し申し上げたい。本日は全大学会の将来のためを考え、いくつかの観点から話を進めたいのでご了解願いたい。
 日蓮大聖人の仏法は、よく排他的といわれる。事実、御本尊、教義、信心の面においては、絶対に妥協はない。しかしこれが宗教の真髄なのである。自宗の法門の正しさと卓越性を訴えきれない宗派では、そこには、清き血脈も、強き信念も、正義の信条もないといえる。つまり、それは、宗派としての堕落を意味しているのである。
 したがって教義、信仰面では妥協はないが、人々の幸福のために社会に融合し、強調し、連帯していけるのが大聖人の仏法である。一見、矛盾するようであるけれども、これは形而上と形而下の次元を混同してはならないということである。
 したがって、文化、平和、教育、社会、国際関係等々、あらゆる分野庭割って、信心即仏法、仏法即社会を基調としての貢献を展開をしていくのが大聖人の仏法であり、ここに円教たる所以がある。

 諸君のなかには、これから結婚する人もいるだろう。その諸君たちがいま、如何勉学に励み、努力したとしても全世界の哲学をひもとくわけにはいかない。そこにおのずから限界というものがある。
 また、われわれは、悩み多き凡夫である。いかに夫婦の間に愛情があったとしても、厳しい運命、宿命には勝てない場合もある。いくら二人が信頼しあっていても、いつかは馴れ合いをうみ、いわゆる人間としての進歩がなくなっている場合がある。
 そこで、無常宝聚・不求自得の仏法究極の当体たる御本尊を受持したということが重大な意義を持ってくる。この絶対に対して最高唯一のご本尊に向かって、ともどもに南無しながら、現実の人生のなかに励まし愛があったときに、はじめて運命の打開もなされ、愛情も、理解も生かされ、進歩も成長もあるということを強く銘記されたい。



以下後日記載



【昭和53年1月29日 東京外語大・東京教育大・筑波大合同大学会総会 立川文化会館】