72 広宣の光・信越
夜は明けた!
今、信越の空にも、赫々と、感激の太陽が昇る。黄金の使命の門を通り抜けて、彼自身の軌道を正確に進む。
私も、わが人生の道を、今日も歩む。先頭に立って歩む!
偉大な目標に向かって、壮大な使命の方向へ! そこには、少しの悔恨もない!
君たちが今日も戦いゆくその道、わが使命の道は、新潟であり、長野である。
その新潟と長野とは、兄弟であり、姉妹なのである。
◇
それは、二十一年前(昭和五十三年)のことであった。
二月十九日の、午後一時ごろである。
若き、わが広布の同志が、寒風のなかを、飛ぶようにやって来た。
彼らは、夜明け前から、暗い雪道を踏み越えて、私のいる、立川文化会館にたどり着いたのである。
ここで、第一回の歴史に残るであろう、凛々しき信越男子部幹部会が開催されたのである。
今や、邪教になりさがった宗門が、狂気のごとく、私を脅し、狙って、無数の謀略と迫害に荒れ狂い始めていた時代であった。
私は、正義の学会を守るために、決然と、一人、絶対に負けぬと決意していた。
◇
この日、私は、青年たちの労苦をねぎらい、彼らにホイットマンの詩の一節を贈った。
「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて!/決められた決勝点は取り消すことができないのだ」 (富田砕花訳)
皆の顔(かんばせ)が一段と輝いた。
広宣流布の道は険しい。
御聖訓に照らし、「三類の強敵」が猛然と襲いかかることは必然であると、皆も思っていたにちがいない。
しかし、ひとたび、戦いを起こしたからには、断じて勝たねばならない。それが、創価の使命であり、獅子の誇りだ!
私は、その大闘争の誓いを、粘り強き、信越の友に託したい思いであった。
◇
半年後の八月、今度は私が、長野の松本に伺った。
私が青年部の室長の時(昭和三十三年)に、この松本を初めて訪問してから、二十年の節目のことであった。
かつて、「信濃の広宣流布は松本から!」と期待した通り、偉大な発展が頼もしかった。
――二十年前のその時に、私たちは、諏訪から霧ケ峰高原まで足を延ばした。
そこには、緑と花と風の草原があった。彼方には、北アルプスの峰々が映えていた。
空はどこまでも青く、高く、無辺の夢の世界へ、果てしなく広がっている。
わが師である戸田先生の逝去から、四カ月余が過ぎていた。
”先生が、この雄大な高原をご覧になり、ここで青年の訓練にあたられたら、どんなに喜ばれただろう……”
後に、男女青年部の人材グループの水滸会、華陽会の研修を行ったのも、こうした思いからであった。
今、霧ケ峰に、青年研修道場が誕生し、新世紀の若き指導者たちが、青空と涼風に包まれ、生き生きと広布の未来を語り合う姿は、嬉しき限りである。
◇
いうまでもなく、わが信越は、日蓮大聖人が人間王者の大獅子吼をなされた、深遠な仏法有縁の天地である。
しかも、牧口先生が、新潟の荒浜(今の柏崎市内)に生誕されたのは、大聖人の佐渡御流罪(文永八年)から、ちょうど六百年後であった。
その先生は、六十歳を過ぎて、幾度か、信越に黄金の足跡を残された。
故郷・荒浜に戸田先生を伴われて行かれ、知人を折伏されてもいる(昭和八年)。
さらに厳冬の二月に、長野に来られたこともある。
諏訪・伊那・松本・長野・上田で座談会等を開き、十七人が入信したと記録に残っている(昭和十一年)。
牧口先生の手になる、最初の地方折伏は、実に、わが信越であったといってよい。
◇
以前、この随筆でも綴ったように、戸田先生は亡くなる前年の夏、軽井沢に静養に来られ、私もお側に呼んでいただいた。
あの日、あの時、恩師の伝記小説の執筆を、わが使命として心定めたのである。
私が名誉会長になって最初の夏も、この忘れ得ぬ師弟の舞台であった軽井沢を訪ねた。
前年にオープンした長野研修道場を拠点として、新しき広宣流布の戦いを、新しき人材山脈の建設を始めたのである。
徹して、「一人」を育てることだ! 「一人」を大事にすることだ! その「一人」を獅子にすることだ!
◇
あの夏から、ほとんど毎年のように、私は、この長野研修道場を訪れ、広布の指揮をとり、正義の波動を起こしてきた。
いついつも、この美しき花と緑の園を荘厳し、広宣の法城を守ってくださる皆様に、心より感謝申し上げたい。
かつて軽井沢には、インドの詩聖タゴールも訪れたが、今や我らの道場には、キルギスの作家のアイトマートフ氏や、インドのガンジー記念館館長のラダクリシュナン博士をはじめ、数多くの海外のお客様が訪問してくださっている。
ともあれ、信越は、偉大なる「人材の王国」であり、友情とロマンの花咲く、人間性の輝く楽園であり、そして、大いなる広布の”光源”である。
信越が燃えれば、勇気の脈動が全国に流れ、希望の光が世界に走る! これが広布の前進のリズムとなってきた。
◇
ビクトル・ユゴーの詩に、こうあった。
「おおワーテルローよ、私は
涙ぐみ、足をとめる、ああ。
最後の戦闘の最後の兵士たちは
偉大だったからだ。全土を勝ち進み、
二十の国王を放逐し、アルプスとラインを越えた。
彼らの魂は、青銅のラッパとともに歌っていた」
(松下和則訳)
イギリスの詩人ブレイクも、また謳っていた。
「わたしの骨のまわりに氷りつく
この重い鎖を破れ!
自己本位の鎖を! 見えばりの鎖を!
永久の害毒の鎖を!」
(寿岳文章訳)
◇
ともあれ、私たちには、
信心の武装がある。
哲学という鎧がある。
故に、不幸な敵は
近寄ることができない。
残忍な涙もなき輩は、
遂には、必ず
その欺瞞の身を滅ぼし、
やがては誰人からも、
腐りきった一個の物体として、捨て去られてゆくだろう!
春は来た!
身勝手な自己本位の輩を、
残酷で、嫉妬に狂った輩を、
まばゆい陽光で溶かし、
薫風に吹き飛ばしながら!
悪に勝った喜びとともに、
春は、やって来た!
信越の友よ! さあ、出発しよう! さっそうと白馬に乗る勇者のごとく!
創価の誇りの旗を握り、山を越え、谷を越え、波濤を越えて、痛快に進め!
いよいよ、民衆の栄光の朝が来た! 我らは勝った!
勝利の太陽は、白雪の山上に昇り、我らを照らし始めた!