全国最高協議会(6)

昭和54年5月5日、快晴。神奈川文化会館で揮毫
我一人正義の旗持つ也
戸田先生の遺言 『第3代は一生涯、会長として指揮を執れ』



一、こまやかな気配り、温かな心遣いで、人々を包容していく。それがリーダーの務めである。
 「ここまでしてくれるのか!」と思われるほど、会員のことを考え、会員に尽くしてあげられる指導者になっていただきたい。
 とくに婦人部、女子部に対しては、本人には当然のこととして、ご家族に対しても、丁寧にお礼を申し上げていくのだ。
 皆、さまざまな家庭状況の中で、一生懸命、広布のために戦ってくださっている。そのことを絶対に忘れてはいけない。
 一人一人の苦労を、深く深く、わかってあげてほしい。冷酷な、無慈悲な幹部になってはいけない。
 うわべだけの言葉や、お世辞などではなく、まじめに、心を込めて、感謝を伝えていくのだ。

 人生の最高学位
 一、仏法も、人間の生き方も、誠実が根本である。
 学歴や地位が何だというのか。そうしたものは、人間の偉さには、まったく関係ない。ましてや、仏法の世界は、平等な同志の世界である。
 広宣流布のために、どう働いたか。広布の団体である創価学会のために、どう尽くしたか。同志のため、民衆のために、どれだけ汗を流したか。
 それこそ、生命の学位であり、仏法の学位である。人生の最高学位である。
 「私は最高の人間学を修めている」との誇りを持って、勇んで広布に進んでいただきたい(大拍手)。

 研修で心を磨く
 一、ここで、「研修」の意義について少々、触れておきたい。
 「研修」には、元来、「学問や技や芸などを、みがき、おさめる」との意味がある。
 「研」の字には、「みがく」「とぐ」「きわめる」、さらに「すべて精密にものを仕上げる」「研ぎ澄まして見る。汚れを磨きとって、本質を見きわめる」といった意味がある。
 「修」には「おさめる」「なおす 「ならう」「きよめる」、さらに「でこぼこを取り去り、整える」「欠けている点を補う」等の意味が含まれる。
 学会の研修会は、牧口先生、戸田先生以来の伝統である。
 正しき師匠に薫陶を受けてこそ、自分自身の心をまっすぐに正していける。
 師のもとで、わが生命を磨き、清め、正し、深め、広げ、強めていくことは、最極の研修である。
 戸田先生は、あるとき幹部にこう言われた。
 「君が同志だから、私は厳しく言うのだ。人間は、厳しく言われなくなったら、おしまいではないか!」

 「最も尊敬する人物」の一人に
 一、きょうは責任ある最高幹部の集いである。
28年前、私が第3代会長を辞任した当時の話をしたい。
 昭和54年(1979年)の4月24日、火曜日。私は、第3代会長の辞任を新宿文化会館で発表した。
 全国から集った代表幹部からは、「どうして先生が辞めなければいけないんですか!」「先生が辞められることは、納得できません!」との声があがった。
 その後、私は聖教新聞社のロビーで記者会見を行った。
 歩いて自宅へ戻ると、妻が、いつもと変わらず、微笑みながら、「ご苦労さまでした」と迎えてくれた。
 5月3日、創価大学で、会長辞任の本部総会を終えた後、私は、そのまま神奈川文化会館へ向かった。
 学会本部には、私の指揮を執るべき席はなかったからである。
 時として、小さな管理者室で執務することもあった。それほど冷たい執行部だった。
 この5月3日付の「読売新聞」の朝刊に、日米の国民の意識調査の結果が掲載された。
 そこには、日本人が「過去、項在を問わず最も尊敬する」日本人の名前が、上位20人まで挙げられており、第6位として私の名前が出ていると、ある幹部が教えてくれた。
 吉田茂野口英世二宮尊徳福沢諭吉、そして昭和天皇と続き、その次が私であった。
 会長を辞任して迎えた5月3日の記事に、私は不思議な感慨を覚えた。
 無名の庶民の代表として、私の名前が出たことを、同志がどれほど喜んでくれたか。
 一方、その意義を感じられず、嫉妬の眼で見つめる愚劣な連中の心は、本当に浅ましかった。

 世界広布へ!
 一、5月3日から6日までの4日間、私は、神奈川文化会館で指揮を執った。
 この折、神奈川文化会館の前の山下公園通りでは、横浜港の開港120周年を祝う「みなと祭」のパレードが盛大に繰り広げられていた。
 妻は「素晴らしい行事です。まるで、あなたを歓迎してくれたようですね」と言った。
 この間、幾千、幾万の学会員が、私を求めて、連日、神奈川文化会館へ来られた。
 私のいる窓に向かって、山下公園から手を振る同志に、私も、妻と共に手を振って応えた。
 広々と海が見える神奈川文化会館で、私は全世界の広宣流布の構想を練り、人知れず、手を打っていった。
 この時の戦いが因となって、当時、90カ国ほどであったSGI(創価学会インタナショナル)は今日、190カ国・地域への拡大という大発展を遂げたのである。
 5月5日、快晴。この日、私は「正義」の揮毫をしたためた。脇書には、「われ一人正義の旗持つ也」と記した。

 陰で戦った人を決して忘れない
 一、当時、神奈川文化会館で、陰で戦ってくれた方々のことは、絶対に忘れない。
 代表の方々の名を挙げれば、婦人部では、大曽根洋江さん、岡本雅子さん、大場由美子さん、川井三枝子さん、さらに平塚貞子さんをはじめとする皆さんである。
 運転手の小早川欣也君も、変わらず、そしてひたむきに、奮闘してくれた。彼は平凡な人間だが、根性は立派だった。
 私の運転をしている間、ただの一度も、病気をしなかった。
 役員も、大石秀司君を中心に、本当に真剣に護ってくれた。

 学会の常勝の道
 一、初代・牧口常三郎先生は、一生涯、会長であられた。
 第2代・戸田城聖先生も、一生涯、会長であられた。
 戸田先生は、遺言された。
 「第3代は、一生涯、会長として指揮を執れ!
 第3代が、一生涯、会長として指揮を執ることこそが、創価学会の常勝の道である」
 第3代会長を、皆で一生涯、護れば、必ず広宣流布できる──これは、執行部が、皆、戸田先生から厳命された遺誡であった。
 しかし、名聞名利に溺れ、嫉妬に狂い、権力の魔性に屈した人間たちが、第3代の私を追い落とし、迫害し、学会を乗っ取ろうとした。
 その陰には、提婆達多のように卑劣な謀略の輩に誑かされた最高首脳がいたことは、よくご存じの通りだ。
 一、昭和54年の5月6日、私はいったん信濃町へ戻った。
 そして5月11日からは、大東京の開拓の新天地・第2総東京の立川文化会館へ向かった。

婦人部・女子部のご家庭に深く感謝
慈愛のリーダーたれ
「ここまでしてくれるのか!」と気配りを

 この日、私は一詩を詠んだ。

西に 満々たる夕日
東に 満月 煌々たり
天空は 薄暮 爽やか
この一瞬の静寂
元初の生命の一幅の絵画
我が境涯も又
自在無礙に相似たり

 私は、いかなる嵐の中にあっても、御聖訓を拝し、日天・月天と対話するような心で、悠然と未来の勝ち戦の種を蒔いていった。

 世界からの賞讃
 一、昭和54年の当時、私が受けていた名誉博士号は、「モスクワ大学名誉博士」の一つであった。
 以来、28年の歳月を経て、私は、皆様の代表として、世界の大学から多くの名誉博士号をお受けした。〈世界の大学・学術機関から名誉会長に贈られた名誉学術称号は、「218」を数える〉
 現在、我らの平和・文化・教育の運動と、人間革命の希望の哲学に、世界中から賞讃が寄せられている。
 透徹した仏法の眼から見れば、三類の強敵、三障四魔と戦い抜いた、創価の三代の正義を讃嘆する、厳然たる「普賢菩薩」の守護の象徴であり、「多宝如来」の赫々たる証明である(大拍手)。

 学会厳護の矢面に立つ
 「昭和30年(1955年)3月、身延派との「小樽問答」で私は司会を務めた。
 私は第一声から、身延派の信者が続々と学会に入会している事実を挙げ、身延派の誤りを鋭く指摘し、突破口を開いた。学会側の圧倒的大勝利は、この第一声で決した。
 昭和32年(1957年)の6月、北海道・夕張の炭鉱労働組合が学会員を弾圧した「炭労事件」では、戸田先生が、「行ってこい」と私を派遣された。
 そして、私が指揮を執り、完全に勝った。
 炭労事件を解決すると同時に、私は、大阪へ飛び、まったく無実の罪で逮捕された。露骨な宗教弾圧の陰謀であった。
 体の衰弱されていた戸田先生を、断じてお護りし抜くために、私は一身に難を受けきった。
 関西の同志は、私とともに、本当によく戦ってくれた。
 関西は、常に勝っている。師弟の精神で、真剣に尽くしている。
 西口総関西長、藤原関西長、中尾関西婦人部長はじめ、関西のリーダーは、私が先の先を見すえながら、手づくりで、全魂を注いで育て上げた一人一人である。
 今も、その活躍と成長と、人生の勝利を真剣に祈り、じつと見守り続けている。
 守ってあげよう。偉くしてあげよう。これが本当の指導者の心だ。
 私は戸田先生から師弟の血脈を受けた、真の弟子である。広布の指導者の魂を厳然と受け継いでいる。

 宗教の弾圧は「人権の弾圧」
 一、ともあれ政治権力は、つねに宗教を弾圧しようと狙っている。とくに、日本の風土においては、そうである。
 宗教の弾圧は、人権の弾圧であり、民衆の弾圧である。
 宗教を躁欄する人権破壊の勢力とは、断じて戦わなければならないし、戦わざるを得ない。
 とともに、宗教を理解し、その宗教の価値観を大事にする人々とは協力し、日本のため、世界のために、行動していくべきである。
 ともあれ、「信教の自由」は基本的人権の根本であり、それを死守することは、民主主義の根幹である。
 この基本に立ち、それに反する勢力とは、殉難の決心で、勇ましく、楽しく、戦い抜くことだ。
 事実、私は、そうして戦ってきた。後を継ぐのは、青年部である。
 (2007・8・9)