全国代表者会議 上


永遠の勝利の人生を築け 青年よ自身を鍛え抜け

創価の初陣=27歳でつかんだ2つの大金星
飛び込め!民衆の中へ リーダーは先頭を切って動き語れ


一、全国代表者会議の開催、まことに、ご苦労さまです(大拍手)。
 どうか、リラックスして、楽な気持ちで聞いていただきたい。
 幹部だからといって偉ぶったり、上から見おろすような姿勢では、仏法のリーダーではない。
 また、本陣のリーダーは、「信心即生活」でなければならない。
 仕事は絶対に中途半端ではいけない。この根本を履き違えて、使命の職場を疎かにするならば、仏法に傷を付け、同志を冒涜することになる。


一、創価学会は、自由な世界であり、一番信頼できる関係である。
 永遠の生命の次元から見れば、麗しき兄弟姉妹の集いである。心を開いて語り合い、励まし合っていきたい。
 私たちの人生には、天気の日もあれば、曇りの日もある。雨の日もある。家族が病気で苦しんでいる人もいるだろう。
 しかし、負けてはいけない。
 長い目で見れば、必ずや勝利の人生の大道を歩んでいける仏法である。
 皆さんが功徳に満ちあふれ、健康になり、幸福になられるように、私は、毎日、真剣に祈っている(大拍手)。



 「ついて来るならば来い」
 一、私は、19歳で戸田先生にお会いし、21歳から戸田先生のもとで働き始めた。
 東京・西神田にある小さな会社で、朝から晩まで、それはそれは厳しい薫陶を受けた。
 天才中の天才の先生である。何事にも正確で、間違った報告などをすると、瞬時に見抜かれて、落雷のごとく叱られた。
 「私から逃げるならば、逃げろ! ついて来るならば、ついて来い!」と激しかった。
 だれに何と言われようが、「私は牧口先生の一番の弟子である」との揺るぎなき誇りが、戸田先生の全身には、みなぎっておられた。



 大宇宙と共に!  
一、大聖人の仰せのままに、南無妙法蓮華経広宣流布している団体は、創価学会しかない。
 南無妙法蓮華経と唱え、それを広宣流布していこうという心は、創価学会にしかないのだ。
 この大法則に則って進む学会が、どれほど偉大か。
 広宣流布しようという私たちの心が、どれほど尊いか。
 いわば、南無妙法蓮華経は、大宇宙を貫くリズムであり、私たちの住む太陽系も、南無妙法蓮華経の音律で大驀進しているのである。
 こうした深遠なる妙法を分からずに、学会の存在を軽く考えたり、使命深き学会員を見下すような者がいたならば、その末路は、あまりに厳しい。私も長い間、多くの人を見てきて、明確にそう言い切ることができる。



 心で決まる!
 一、信心は「心」で決まる。
 功徳も心一つ。
 仏罰も心一つ。
 「心こそ大切なれ」(御書1192ペ頁)である。
 戸田先生が事業に失敗され、体調を崩され、一番大変だったときに、若き私は、ずっとそばでお仕えし、お護りした。
 望んでいた学校も断念した私に、戸田先生は「君だけには、教えておきたいんだ」と個人教授をしてくださった。
 難解な「当体義抄」などの諸御抄も講義してくださった。
 修了の証書をいただいた際、私が「宝にします」と申し上げると、戸田先生は、ニコッとされ、「そのうちに、大作は、世界から表彰されるような男になるよ」とおっしゃった。
 今、先生が言われた通りになった。すべては、広宣流布の師匠にわが身を捧げた福徳であると深く感謝している。



 「学会員さんに会えますね」
 一、また私の家庭のことになって恐縮だが、私が第3代会長になった日、私の妻は、きっぱりと、「きょうは池田家のお葬式です」と語った。
 わが家のことは顧みず、ただ、仏法のため、学会員のための人生を、との心であった。
 そして、その言葉通り、命がけで務めてきた第3代会長を辞任した日、私の妻は、変わらぬ明るい笑顔で言ってくれた。
 「これからは、今までお会いできなかった大勢の学会員さんのお宅へ行けますね。海外の皆さんともお会いできますね」と。
 このような心で、私を支えてくれたのである(大拍手)。



 トップ当選!
 一、このほど、学生部の有志が貴重な資料を届けてくれた。
 それは、学会の支援活動の初陣となった、昭和30年(1955年)4月の統一地方選の記録である。
 当時、27歳だった私は、東京・大田区(都議選)と横浜・鶴見区(市議選)の支援責任者に任命された。どちらもトップ当選である(大拍手)。
 時代は異なるが、若くとも、これだけの戦いができるということの参考として、青年部に伝えておきたい。
 ここには、27歳の人はいますか?〈「はい」と数人の手があがる〉
 昔の学会をよく知る人が、「今の学会は、なんだか年をとってしまいましたね」と言うのだ(笑い)。
 私たちの時代は、歩くのでも、若々しく、若鮎のようだった。
 「おはようございます!」「こんにちは!」「こんばんは!」と、皆がはつらつとして、花が咲き、音楽が鳴り響くような学会だった。
 青年部の皆さん、頼むよ!(「はい」と力強い返事が)
 〈資料を作製した学生部の友は、「若き日の名誉会長のこの二つの大金星は、本末究竟して、永遠の民衆の勝利の道を開いてくださった」との感激を込めて、その歴史を詳細に記し残している〉



創立77周年 三代の師弟の大闘争で 世界広布の土台は完成
「建設は死闘、破壊は一瞬」を忘れるな



 率先の行動者に
 一、戦いの要諦は、リーダーの「率先の行動」である。
 難しいこと、面倒なことは人にやらせて、自分はやっている格好、やっている振り、ではいけない。
 リーダーは、人々の中へ、最前線へ、飛び込んでいくのだ。
 人にやらせようという、ずるい考えではなく、自分が先頭を切って、動き語るしかない。
 真っ先に行動する。そして、堂々たる結果を出す。そのように、私はやってきた。
 昭和26年(1951年)、戸田先生は、第2代会長に就任され、75万世帯の達成を掲げられた。しかし、周りの幹部は夢物語としかとらえられず、最初は遅々として進まなかった。
 毎月の折伏成果は、力のある支部でも、100世帯前後が限界であった。「これでは、広宣流布は5万年かかってしまうな」と嘆かれる戸田先生。
 「大作、なんとか折伏できないか」と言われて、私は立ち上がった。
 そして、蒲田の支部幹事として指揮を執り、1カ月で201世帯の折伏を推進した。そこから学会の怒涛の大行進が始まったのである。
 昭和31年(1956年)には、大阪の戦いの責任者を務めた。
 戸田先生の命を受けて、最も大変なところへ行った私を、「できるものならやってみろ」という意地悪な気持ちで見ていた先輩の幹部もいた。
 そのなかで、私は、愛する同志と心を一つにして、勝てるはずのない大阪で、断固と勝った。
 一方、勝てるはずの東京は負けた。
 戸田先生は、大阪の勝利を、それはそれは喜んでくださった。
 戸田先生は幸せであった。強き信心で戦い勝つ、「本物の弟子」がいたからである。
 一、「創価学会の勝利」が「広宣流布の前進である。
 学会が勝たなければ、広宣流布は進まない。皆もついてこない。
 また、広宣流布の戦いであるがゆえに、戦った人は、絶対に功徳が出る。
 広宣流布に生き抜く私たちは、社会に民衆勝利の偉大な足跡を残しているのである。



 「口−マは一日にして成らず」
 一、創価学会は、間もなく77周年の創立記念日を迎える。
 初代会長・牧口先生の峻厳な殉教。
 2代会長・戸田先生の烈々たる闘争。
 そして3代会長である私の時代における、壮大なる世界への展開によって、人類の平和と幸福を建設しゆく「一閻浮提広宣流布」の礎は、盤石に築かれた。土台はでき上がったのである。
 「ローマは一日にして成らず」。
 これは、あまりにも有名な格言である。
 伝承によれば、古代ローマの建国は紀元前8世紀にさかのぽる。
 紀元前509年には王制から共和制となった。
 初めは、イタリア半島の小さな都市国家であった。
 それがヨーロッパ、中近東、北アフリカを含む広大な地中海世界を治める大帝国へ発展するまでには、じつに粘り強く、幾百年もの歳月が積み重ねられてきたのだ。
 人類史を彩ったローマ帝国の発展と衰亡の歴史は、私たちに多くのことを教えてくれる。
 なぜ、古代ローマが大発展を遂げたのか。
 さまざまに論じられるが、その理由の一つは、ローマが最大の逆境を乗り越えて、最強の軍団をつくり上げたからである。
 ローマは宿敵カルタゴとの「第2次ポエニ戦争」の最中、敵将ハンニバルの活躍によって、一度は滅亡の危機にまで追い込まれた。紀元前216年ごろのことである。
 しかしローマは、この敗北に屈しなかった。
 国家の総力を結集し、軍団への厳しい訓練を重ねるなどして、断固と反撃に打って出たのである。



 一、平和の指導者を育てる上でも、訓練が大事である。
 例えば、きょうのように会合に集い、皆で呼吸を合わせていく。心を合わせていく。これも一つの「訓練」だ。
 学会の幹部は、どんなに役職が上になっても、決して威張るようなことがあってはならない。
 さまざまな機会を通して、常に自分自身を訓練していく。また、後輩を訓練していく──そういう姿勢が大切だ。
 これは、どんな団体においても同じであろう。



新しい陣列を 
 一、ローマの反撃が成功した背景には、若き大指導者スキピオ(大アフリカヌス)の存在があった。
 彼は、カルタゴとの戦いで父と叔父を失っていた。その仇討ちの勝利ともいってよい。
 トインビー博士は鋭く洞察されていた。
 ──ローマ人は断じて絶望することなく、窮地の中から立ち上がり、猛然と戦った。そして、強敵を打ち破った、この勝利こそがローマの成長につながったのだ、と(『歴史の研究 第3巻』「歴史の研究」刊行会)。
 敗北した時こそ、次に勝ち、永続的な勝利の道を開くチャンスなのである。
 思えば、かつて戸田先生も事業の破綻という"敗北"を経験された。しかし、そこから厳然と立ち上がって広宣流布の道を切り開かれた。
 あのころは、本当に大変だった。
 多くの債権者が戸田先生のもとへ押し寄せた。「戸田の馬鹿野郎!」などと、先生のことを口汚く罵る人間もいた。騒ぎを聞きつけて、新聞記者も取材に来た。
 多くの人が先生のもとを去っていくなかで、私はただ一人、最後まで戸田先生を守り抜いたのである。
 「ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスは、帝国の軍団を自然環境の厳しい辺地や、防衛の第一線に送り、鍛錬を持続した。そうすることで、兵士たちが安逸にふけり、弱体化するのを防ごうとしたのである。
 このことによって、「ローマ帝国の寿命はおよそ四百年延びたのである」(同)とトインビー博士は述べておられた。
 常に若い人材を鍛え、新しい陣列を強化していくところが、勝ち栄えていける。
 大事なのは、未来のために、青年を伸ばしていくことだ。
 戸田先生は、何よりも青年を大切にされた。徹底して鍛え、訓練してくださった。
 そして若かった私を抜擢し、後継者と定めた。私は、戸田先生が亡くなられた後も、すべて先生が言われた通りにやってきた。
 だからこそ、学会はここまで発展することができたのである。


逆境を越えてこそ大発展
古代ローマは「人材」で勝ち栄えた
経済学者サロー博士
 指導者は「変化」の時代に対応せよ



 "下から上を変えていけ" 
 一、トインビー博士とは、ロンドンで40時間にわたって語り合った。忘れ得ぬ思い出である。
 この対談は、博士から"会って語り合いたい"との要望があり、実現したものであった。
 当時、博士はすでに一流の歴史学者として世界に名を知られていた。それに対して私は、いわば無名の存在であった。
 その私が、ロンドンの自宅を訪れた時、博士は本当に喜んでくださった。その時の様子は、私の妻が一番よく知っている。
 博士のお宅では、二人で朝から何時間も語り合った。ティータイムになると、ベロニカ夫人が紅茶を入れてくださった。
 対談の内容が難しくて通訳がうまくいかず、困ったこともあった。何人かの人に通訳をお願いし、工夫を重ねながら対談を進めたことが懐かしい。


 一、繁栄を極めたローマ帝国が、なぜ衰亡したのか。
 さまざまな要因が挙げられるが、その一側面として「財政の破綻」があった。
 軍団への多大な出費。贅沢に慣れた特権階層は、ひとたび味わった享楽や利益を手放さず、内部の改革が進まなかった。
 "上"が堕落し、享楽にふける──そうなったら危ない。
 これまで学会の大幹部の中にも、学会を利用して金儲けをたくらんだり、堕落した生活を送って退転し、ついには反逆していった人間がいた。そうした人間を出してはならないし、許してもならない。
 大事なのは、一人一人が強くなることである。
 牧口先生は"下から上を変えていけ"と言われた。上に対しては、どんどん意見をいう。おかしいと思うことがあれば、正していくことだ。
 もちろん、単なる感情や、自己中心的な考えによるものであってはいけない。
 互いに建設的な意見を言い合えるところは伸びていく。一度で聞かなかったら、二度、三度と言っていくのだ。
 それは「ケンカ」ではないし、ただ「逆らっている」のとも違う。
 学会のため、広宣流布のため──その真剣な思いがあれば、必ず通じていくものだ。


 慢心、油断と戦え 
 一、英国の歴史家ギボンは指摘している。
 「ローマの敵は常にその懐中に──暴帝と軍人とに──あった」(村山勇三訳『ローマ帝国衰亡史(1)』岩波文庫
 帝国内の指導者層や軍団の腐敗・横暴・対立は、内部の混乱を招き、外部の敵への抵抗力が弱くなった。
 そこに、敵から攻撃される隙が生まれ、帝国内に侵入される結果となったのである。
 この点、トインビー博士は、"文明が挫折する根本の原因は、内部の不和と分裂である"と喝破しておられた(『歴史の研究 第9巻』「歴史の研究」刊行会)。
 敵は内部──これは、あらゆる団体に通じる教訓であると思う。学会もそうだ。
 今、学会は日本一の民衆の団体となった。施設などの面でも、昔から比べれば格段に充実し、豊かになった。
 だからこそ、常に慢心や油断、堕落といった“内部の敵”と戦わねばならない。
 まず最高幹部が毎日、生き生きと、新鮮な気持ちで戦っていくことだ。少しも気をゆるめてはいけない。
 「建設は死闘、破壊は一瞬」である。このことを決して忘れてはならない。



 自分から変われ 
 一、私が対談した、世界的に有名な経済学者のレスター・C・サロー博士も、ローマの滅亡について、こう洞察しておられる。
 「自国に対する自信を失い、変化する状況に対応できなくなった時に滅びたのだ」(三上義一訳『知識資本主義』ダイヤモンド社
 全くその通りだ。
 自らを創り変えていく力を持つところが勝つ。そのためには、まず指導者が、自分自身を変えるしかない──博士との語らいでも、深く一致した結論であった。
 リーダー自身が成長することだ。人間革命に挑戦していくことだ。それがひいては、同志のためにもなる。
 ともあれ「油断は大敵」である。ちょっとした油断の中に、後々の敗北の因がつくられる。
 戸田先生は遺言なされた。
 「少しでも油断をすれば、濁流に流されてしまう」
 「人生は、永遠に挑戦であり、永遠に闘争である。ゆえに、永遠に勝利せよ! 永遠に勝利しゆくことが仏法である」
 「永遠の勝利の道を確実に築きゆく、その最大の力は何か。
 青年である。ゆえに、青年を育てよ!」
 学会は「進まざるは退転」の心で、常に時代の変化を先取りしてきた。迅速に新しい道を開き、勝ち抜いてきた。
 これからも、断じてそうあらねばならない。



 庶民の味方たれ 
 一、私は1961年(昭和36年)の10月20日、古代ローマの遺跡(フォロ・ロマーノ)の前に立ち、一首を詠んだ。

 ローマの
  廃墟に立ちて
    吾思う
   妙法の国
    とわにくずれじ



大目的へ心一つに!
歴史家ギボン
ローマの敵は内部にいた
 


 人類の真実の幸福のために、世界の恒久平和のために、私たちが築くべきものは「永遠の人材の城」である。「永遠の勝利の都」である。
 「学会は、いかなる時代になろうとも、どこまでも庶民の味方になり、庶民を立派に育て、守っていくのだ。そうすれば、学会は永遠に栄えていける」
 「学会は、永遠に師弟を根幹にして、異体同心の団結で勝っていくのだ」
 この恩師の教えのままに、どこまでも進んでまいりたい(大拍手)。
 一、日蓮大聖人は、苦楽を共にした弟子のことを「いつの世にか思い忘るべき」(御書1193頁)と仰せである。
 永遠に忘れることはないと。
 私の生命からは、広宣流布のために、真剣に、誠実に、責任をもって戦ってくれた同志のことは、絶対に離れない。
 この30年以上、私の世界への旅に随行して、真実の歴史をカメラに撮り続けてくれたのが、聖教新聞社の牛田恭敬君と斎藤亨君や、シナノ企画の宮崎悟君、高橋英彦君たちである。一瞬一瞬、真剣勝負で映像を残してくれた。
 記者では松岡資君、佐々木捷祐君、松島淑君、白井昭君、外松登君らがいる。広宣流布のために働いた執筆は、見事であった。
 トインビー博士やコスイギン首相など、歴史的な会見の重要な証言者でもある。
 ここで、人知れぬ功績を讃え、広宣流布の歴史に残させていただきたい(大拍手)。
    (下に続く)