148 青年よ広布の革命児たれ 下 山本 伸一
威風堂々 民衆の底力で勝て!
創価の師弟の大陣列に 栄光は燦たり
「情熱は情熱を生む」と、文豪ゲーテは言った。
そして、この情熱の拡大ありてこそ、偉大な勝利も生まれるのだ。
私が対談したトインビー博士は、人類史を通観なされており、日本の歴史や文学にも精通しておられた。
『万葉集』や『源氏物語』も読まれていた。
「因幡の素兎(しろうさぎ)」(古事記)や「かぐや姫」(竹取物語)のこともご存じで、しばし、おとぎの世界へ語らいが広がったこともある。
みずみずしい探究心で学び続ける人生は、かくも心が躍動し充実しているものかと、私は感嘆した。
博士は、江戸時代から明治維新へと至る変革の原動力は、どこにあったかについても、鋭く洞察されている。
そのエネルギーは、支配階層から排除され、抑えつけられていた民衆の間に、実は蓄えられていた。これが、博士の分析であった。
「人間の活動は決して凍結することはなく、いつも徐々に沸騰してくるものである。そしてそれに蓋をすれば、きっと噴きこぼれる」と、博士は達見しておられたのだ。
まさに、この噴きこぼれんとする民衆の力を結集して、時代を動かしたのが、晋作の「奇兵隊」であった。
◇
これ以前より、日本の各地で、民衆勢力の台頭はあった。しかし、「夜明け前」に侘びしく消え去っていった事例が少なくない。
その中で、なぜ、晋作は、かくも鮮烈に歴史に輝く民衆の陣列を生み出すことができたのか。これも、「戸田大学」の論題の一つであった。
当然、さまざまな次元から光を当てることができるが、戸田先生と私が論じ合ったポイントがある。
それは第一に、根幹に「師弟の志」があったからである。
奇兵隊の結成時、核となったのは、松下村塾の同窓生、すなわち師・松陰が身分の隔てなく同志として遇し、育てた弟子たちであった。
そこに階層を超えて、優秀な逸材が勇み集ったのだ。
第二に、全員が「志願兵」であった。それが、他の地で行われていた強制的な兵役と、根本的な違いを生み出したとも言われている。
奇兵隊に入る基準──それは、何よりも「志」にあった。
長州をはじめ各地から集った精鋭が、そのまま晋作たち松陰門下の「志」に触れて、決起していったのである。
第三に、晋作が皆に誇りと責任を与えた。
藩から身分制度の徹底がなされるなか、晋作は苦心を重ねながら、隊に集った全員が武士としての待遇を受けるよう、主張している。
それと同時に、晋作は、隊に組織をつくり、厳格な規律も決めた。"奇兵隊員は人民の手本となれ"という指針も、明確に示した。
戸田先生は、「奇兵隊には、食えなくて来た者もいたかもしれない。しかし、そうした人間も、晋作によって、憂国の士へと変わっていったのである」と洞察されていた。
この晋作は、世界にも友情を結んでいる。
上海の地で、筆談を通して語り合った陳汝欽(ちんじょきん)という友が目を患ったと聞くと、「誠心(誠実な心)は天をも貫くものだ。病など、懼(おそ)るるに足らない。祖国のために、命を大切にしてくれ給え」と、心から励ましたのである。
誰に対しても、どのような状況にあっても励まし、力を引き出していくのが、真の指導者である。
そして第四に、習作は電光石火のスピードで動いた。
文久三年(一八六三年)の六月、晋作は、外国との戦いで疲弊した長州藩から、新しい軍隊の編成を託される。
晋作は、その足で戦地を視察し、武士たちが弱体化しているのを見てとると、すぐさま「奇兵隊」の結成を進言。これが受け入れられるや、「動けば雷電の如く」と評された通り、あっという間に民衆を糾合していった。
構想の発表よりわずか三日間で数十人の勢力となり、以後、入隊希望者は後を絶たなかったという。
さらに、この「奇兵隊」の成功は、次々と新たな"民衆部隊"を生み出し、「諸隊」と呼ばれる五千人もの勢力となったのである。
スピードが勝負だ。私が指揮した「山口開拓闘争」も、電光石火の拡大戦であった。
◇
ともあれ、いかに時代が移り変わろうとも、戦いにあって肝心なのは、身分や立場でも肩書でもない。本当に戦う闘魂があるか、燃え立つ志気があるかどうかである。
安逸に慣れ、保身に汲々とした人間など、一旦緩急の時に、なんの用があろうか。
真の革命児とは、裸一貫、捨て身で戦う人間だ。
御聖訓にも、こういう譬喩が説かれている。
「裸の猛者が勇敢に突き進んで大陣を破るのと、甲冑を身に着けた猛者が引き退いて一陣をも破らないのとでは、どちらが勝れているであろうか」(御書一二三ページ、通解)
創価の広宣流布の戦いは、いわば、現代における「草莽崛起(そうもうくっき)」(民衆の決起)だ。
苦悩に打ちひしがれ、権力から圧迫されてきた民衆が、「地涌の菩薩」の大使命に燃えて、威風も堂々と立ち上がった戦いだ。
なかんずく、新しき青年の勇敢なる前進こそが、最大の勝利の源泉であることはいうまでもない。
◇
「今の山口県に、吉田松陰という偉い先生がいた。
松陰には二人の弟子がいた。一人を久坂玄瑞、もう一人を高杉晋作という」──
昭和三十二年の四月三日。
東京の学会本部で行われた杉並支部の「少年少女の集い」で、戸田先生は、"松陰門下の双壁"と讃えられた二人の弟子について語られた。
そして、先生は、この玄瑞も、晋作も、二十代で逝去した悲劇を嘆かれた。
「生きていれば国家のために大活躍をしたことだろう。長生きをしないといけない。そうして、国家民衆のために戦わなければならない」
戸田先生は遠くを見つめるように、語られたのである。
その日、私は大阪にいた。
急きょ決まった、参議院の大阪補選の支援の指揮を執っていたのである。当時、私は二十九歳。晋作が肺病で命を落とした年齢に達していた。
戸田先生は、死を覚悟して戦う愛弟子を、晋作のように死なせてはならぬと、いつも祈り抜いておられたのだ。
◇
晋作が波瀾万丈の人生の幕を下関で閉じたのは、慶応三年(一八六七年)四月十四日の未明であった。明治の新時代の前年である。
休みなく奔走するなか、急速に病気が進行した。
指揮した幕府との一戦で、勝利をほぼ決した頃、喀血して倒れ、約八カ月後の死であった。"死んでも外敵と戦う"との晋作の思いから、遺骸は近くの奇兵隊の陣営跡に葬られた。
この話をされる時、戸田先生はいつも、病弱な私の体を思い、「大作は三十歳までしか生きられない」と滂沱(ぼうだ)の涙を流された。
そして、「大作、断じて生き抜け! 俺の命をやる。俺の分まで生き抜くのだ!」と語ってくださったのである。
私は戸田先生から命を受け継ぎ、不二の弟子として生き、戦い抜いてきた。
あの「三・一六」の後継の儀式から、明年で五十年──。創価の師弟は、世界に燦然と勝利の歴史を残したのだ。
そして私は、一生涯、この創価の「弟子の大道」を、誠実に、また誠実に走り抜いていく決心である。
青年よ、私に続け!
広布の革命児たれ!
わが弟子よ!
君も、晋作の如くに!
(随時、掲載いたします)