信心練磨の教学

我らには「変毒為薬」の妙法が

御書を心肝に染めて人生に勝利!
今こそ学べ! 叫べ! 「立正安国」の大哲理

 御聖訓
  ひたすら信じて
   励みゆけ
  大悪 起これば
   大善 来たると

 このたびの台風12号は、日本列島に激しい暴雨の爪痕を残しました。
 とくに紀伊半島和歌山県奈良県三重県、また中国の岡山県鳥取県、四国の香川県徳島県など、甚大な被害を受けた地域の皆様方に、心より御見舞いを申し上げます。
 これまでも幾たびとなく拝してきた御聖訓ですが、日蓮大聖人は「大悪は大善の来るべき瑞相なり」(御書1467?)と御断言であります。
 いかなる災難があっても、永遠の幸福を勝ち開くための試練と転ずるのが、「変毒為薬」の妙法です。
 どうか、ますます「異体同心」の同志と励まし合い、支え合いながら、断固と乗り越えていってください。
 私も妻も、強盛に題目を送り続けてまいります。
 また悪天候の日も、聖教新聞を配達してくださる無冠の友の皆様方に、あらためて感謝申し上げるとともに、決して無理をせず、絶対に無事故第一でありますよう、重ねてお願いします。
        ◇
 我らには
  不滅の哲理
    持つ故に
  三世の財宝
   胸にかがやく

 「思想はなんという宝であろうか!」
 英国の著名な作家ブロンテ姉妹の一人、シャーロットの感慨である。
 宝石や邸宅も、美貌や肩書も、大切な宝であろう。しかし、それらは無常の移ろいを免れないものだ。
 思想という心の宝は揺るがない。朽ちない。
 なかんずく、「法華経は三世不壊の経」(同149?)である。この大法と共に生き抜く人生も、「三世不壊の生命」とならないわけがない。
 『英雄伝』の著者として名高い、古代ギリシャプルタークは綴っている。
 「哲学を通じて、哲学と共にあってこそ、何が美であり何が醜いことであるか、何が正義であり何が不正であるか、要するに何を選ぶべきか何を避けるべきかを知る」
 人は苦難に直面した時、その人の底力、さらには、その人が信ずる精神の柱の真価が明らかになる。
 それを、現実の大地にあって証明し抜いている、真の哲人たちは誰か。
 あの阪神・淡路大震災東日本大震災、また今回の記録的豪雨、さらに世界各地の幾多の災害にも勇敢に立ち向かう、創価の誉れの友である。
 「人がこの世に生まれてきた大きな目的は、人のために尽くすことにある。
 自己の名声や利益のためだけではないのであって、生まれてから死に至るまで、自分の周囲の人が少しでもよくなれば、それで生まれてきた甲斐があったというものである」
 岩手県盛岡市出身の偉人・新渡戸稲造博士の信条は、そのまま、わが同志の人生哲学である。
 日蓮大聖人は、「立正安国論」の中で、こう認《したた》められている。
 「世 皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災《さい》起り難起る」(御書17?)
 大聖人が戦われた「悪」の本質とは、何か。
 それは、人間の生命を蔑視して、現実から逃避させる諦めの思想であり、民衆を隷属させ、人間を分断する権力の魔性であったといっても過言ではあるまい。
 人びとを不幸に陥れる邪義を打ち破るために、大聖人はただ御一人《おひとり》、万人が「善」の生命に目覚め、引き出す方途を示してくださった。そして、民衆が強く賢くなって、「善」の団結を広げゆく道を開いてくださったのである。
 大聖人が「立正安国論」を認められた契機は、鎌倉を襲った正嘉の大地震であった。
 時移り、今なお社会は、確たる哲学を痛切に欲している。大聖人に直結する、我ら創価学会が共生の仏法哲理を、いやまして勇気凛々と叫ぶ時なのだ。
 人間の孤立化という風潮を打ち破り、地域に密接なつながりを築き、利他の精神を漲らせゆく時なのだ。

「まことの時」は今
 東日本大震災で、座談会の会場であったご自宅も、家財道具も、一切合切、奪われてしまった多宝会のご婦人がおられる。
 信心50年、常に拝してきた御書も流されてしまった。しかし、「御書の234ページ」とページ数まで諳《そら》んじ、「開目抄」の一節を朗々と暗誦される。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然《じねん》に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん つたな(拙)き者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」
 かつて、私が全同志へ、「共々に心肝に染めよう」と呼びかけた御金言である。その通り、ご婦人は目をつぶってでも書けるほど覚えてこられた。そして「まことの時」の今、この御文を毎日毎日、わが命に刻みながら、「縁の下の力持ち」となって、地域の方々に尽くしておられるのだ。
 こういう尊き母たちこそが、大聖人から、まさしく「自然に仏界にいたるべし」と讃嘆される方々であると、私は声を大にして叫びたい。
 これが、創価の民衆による、生きた教学運動の奥深さである。
 9月12日は、「開目抄」に記された通り、竜の口の法難に遭われた大聖人が「発迹顕本」された日であり、民衆仏法の太陽が昇った日だ。
 この日は、わが学会の「教学部の日」である。

民衆救済は学会が
 東北の深き魂が燃ゆる詩人・宮澤賢治は訴えた。
 「われらは世界のまことの幸福を索《たず》ねよう
 求道すでに道である」
 民衆の幸福を築く智慧の宝典こそ、大聖人が残してくださった御書である。
 恩師・戸田城聖先生は、広宣流布のために、会長就任直後の6月、真っ先に『御書全集』の刊行を発願された。私も、御書の発刊に向け、懸命に師の大偉業を支えた。
 先生は烈々と叫ばれた。
 「学会精神というものは、日本の国、世界の国を救わんがためにやっているのです」「民衆救済の大責務は、創価学会の肩にかかっている」
 この大宣言のまま、私たちは御書を根本に、世界192カ国・地域へ大法を弘通してきた。明年で御書発刊から60周年となる。

翻訳されて世界へ
 思えば、大聖人が民衆のために、わかりやすく「かな文字」で書き留められた御手紙を、見栄っ張りな五老僧らは軽視していた。
 しかし、その御書が、いつの日か、必ず翻訳され、世界で拝読されていくことを展望しておられたのが、日興上人であられる。
 その通りに、御書は今、英語、中国語、韓国語、スペイン語など、多くの言語で翻訳されている。
 大聖人も、日興上人も、いかばかりお喜びくださることか。
 黙々と陰徳を積むが如く、真剣に奮闘してくださっている、現代の羅什三蔵というべき尊き最優秀の翻訳陣・通訳陣の方々に、私は心から御礼を申し上げたい。
 さらに教学試験も、本年は、日本の「青年部教学試験1級」、また、世界41カ国・地域でも15万人が受験して実施される予定である。

教学で人材を育成
 教学研鑽の波は、各大陸で活発であり、この夏、欧州では9度目となる教学研修会がイタリアのミラノで開催された。
 29カ国から集った同志のうち、実に6割が青年部であったそうだ。
 教学を通し、人材を育てる。学会の伝統は、世界にあっても変わらない。
 研修会では、四条金吾に与えられた22編の御消息文とともに、「諸法実相抄」が学ばれた。
 「諸法実相抄」といえば、ちょうど30年前、私が欧州を訪れた折、メンバーと共に学び合ったことも懐かしい。
 その際、「ヨーロッパをどう発展させていくべきでしょうか」と、一人の女性リーダーが質問された。
 私は、即座に、「信・行・学が根本です」と申し上げた。
 強盛なる信心、すなわち御本尊への絶対の「信」。
 自行化他の唱題、折伏を実践しゆく「行」。
 大聖人の民衆救済と忍難弘通の大精神が脈打つ御書を、心肝に染め抜く「学」。
 この「信・行・学」のたゆみなき精進こそ、広宣流布を伸展させゆく根本の機軸である。

「信心」を深めよ!
 ともあれ、信心は一生であり、その信心を深めるために教学がある。
 大事なことは、教学を学ぶなかで、「この信心はすごい」という喜びと確信が深まることである。
 朝晩、勤行・唱題に臨む姿勢が変わることである。
 悩みや苦難にぶつかった時、御聖訓を思い起こして、負けない「師子王の心」を奮い起こすことである。
 そして、広宣流布の同志と「異体同心」で歩む尊き使命を知り、誇り高く胸を張っていくことである。
 わが青年部よ、「信・行・学」という生命の最極の向上のリズムに則って、黄金の青春を走り抜け! と、私は祈ってやまない。

 大聖人
  君等を見つめて
    讃えなむ
  広宣流布
   魂光ると

 C・ブロンテの言葉は『シャーロット・ブロンテ書簡全集/註解』中岡洋・芦澤久江編訳(彩流社)。プルタークは『モラリア1』瀬口昌久訳(京都大学学術出版会)。新渡戸稲造は『〔新訳〕一日一言』岬龍一郎訳(PHP研究所)。宮澤賢治は『宮澤賢治全集12』所収「農民芸術概論綱要」(筑摩書房)。

さあ今日も御書を開こう!
法華経の兵法」の実践者たれ

「行学の二道をはげみ候べし」
世界に「希望の柱」を打ち立てよ


 今日もまた
  強く明るく
   生き抜かむ
  大聖人と
    共に共にと

 今日も、御書を開き、御書を拝し、御書を学ぶ。
 それは、御本仏であられる日蓮大聖人と常に御一緒に、この人生を歩み、戦えるということである。
 大聖人は、若くして夫に先立たれ、幼子たちを育て上げてきた南条時光の母に語りかけておられる。
 「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外《ほか》には候はず・ただ我等がむね(胸)の間にあり、これをさと(悟)るを仏といふ・これにまよ(迷)ふを凡夫と云う、これをさと(悟)るは法華経なり、も(若)ししからば法華経をたも(持)ちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ」(御書1504?)
 最も深遠な生命哲理が、最も簡明に説かれている。ありがたい仏法である。
 たとえ、いかなる地獄の苦しみの淵にあろうと、わが胸に仏の命を厳然と顕現していける。今いる現実のこの場所で、妙法を唱え抜き、断じて寂光の都を築いていくのだ。絶対に誰人たりとも、自他共に永遠に崩れざる幸福の境涯を開いていけるのだ。
 そのための信心である。
 そのための教学である。
        ◇
 大聖人が、繰り返し、戒めておられたことがある。それは「用心」という一点である。
 「かまへて・かまへて御用心候べし」(同1133?)
 「心にふかき・えうじん(用心)あるべし」(同1176?)
 「よる(夜)は用心きびしく」(同1164?)
 「さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし」(同1169?)
 大聖人は、人生の試練と戦う門下を、断じて勝たせるために、絶対に油断しないよう、何度も何度も厳しく注意してくださっていると拝されてならない。
 人間とは、残念ながら、どうしても油断してしまう生き物である。だからこそ師匠は弟子を甘やかさない。あえて、厳愛の指導を重ねて、勝利への正道を歩ませてくださるのだ。
 「法華経の兵法」といっても特別のことではない。
 それは「前前の用心」(同1192?)を怠らず、油断を排し、たゆまず題目を真剣に唱え抜き、行動していくことが、一切の根本であることを忘れまい。
 「賢善の人は希に愚悪の者は多し」(同493?)
 この「賢善の人」として、賢く正義の人生を全うしていくための道が、御書には完璧に示されている。
        ◇
 科学技術によって発展してきた現代文明も脆く崩れやすいことを、今、皆が痛感している。文明の在り方、人びとの生き方を足元から見直し、社会全体で、もう一歩、万全の備えを心していく時であろう。
 蓮祖は仰せになられた。
 「賢人は安きに居て危きを歎き佞人《ねいじん》(=邪《よこしま》な愚者)は危きに居て安きを歎く」(同969?)
 重大な御聖訓である。
 指導者は、人びとの尊厳なる生命を断じて守り抜くため、「安きに居て危きを歎く」という透徹した責任感に立たねばならない。
 創価学会が、ここまでの大発展を成し遂げたのも、御書の仰せに寸分違わず、3代の師弟が「一念に億劫の辛労」(同790?)を尽くし抜いてきたからである。それを甘く考えて、慢心を起こせば、崩されてしまう。
 ゆえに後を継ぐリーダーは、広宣流布のため、創価学会のため、もっともっと苦労してもらいたい。そして、もっともっと力をつけ、成長してもらいたい。

増上慢になるな!
 「すりはむどく(須梨槃特)は三箇年に十四字を暗《そら》にせざりしかども仏に成りぬ提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ」(同1472?)と、御書には峻厳に警告されている。愚鈍といわれた須梨槃特は弟子の道を貫いて成仏し、膨大な経を知っていた提婆達多は仏に背き、無間地獄に堕ちた。
 要するに、教学ができるから偉いのではない。よく知っているというだけなら、世間の知識とどこが違うのか。
 教学ができることと、信心があることとは、そのままイコールではない。これまでも教学を得意にふりかざしながら、退転したり、反逆した愚かな増上慢が出たではないか。
 我らの人生の根本目的は、一生成仏であり、広宣流布である。それは「法華経の兵法」をもって、信心一筋で怒濤の中を戦い抜いていくしかないのだ。
 偉大な信心の行者、信行の勇者に成長するための教学である。ここをはき違えては、絶対にならない。
 戸田先生は、「学問的な研究の教学」と「信心で掘り下げていく教学」があると言われたことがある。
 不二の師弟として、戸田先生も私も、「信心で掘り下げていく教学」で戦ってきた。だから学会は勝った。実践のなかで教学を学んだ学会員が堂々と勝ってきたのだ。

95歳の多宝の母が
 先日も、95歳の多宝のお母様が、慈愛と大確信で仏法を語り、84歳の後輩の方を折伏されたという報告を伺った。このお母様は、幼い頃から奉公働きの毎日で、十分に学校に通う機会もなかった。
 しかし、学会という民衆大学で、実践の教学を身につけてこられた。
 だから強い。お子さんやお孫さん方も皆、世界広布、地域広布の立派なリーダーに育っておられる。
 「諸法実相抄」は、有名な御文で締め括られている。
 「行学の二道をはげみ候べし、行学た(絶)へなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらは一文一句なりともかた(談)らせ給うべし」(御書1361?)
 この精神に徹しゆくなかにこそ、学会の未来永劫にわたる勝利はあるのだ。

御書根本に大阪で
 御書には無限の希望があり、勇気が湧き、未来がある。人生勝利の智慧が湧き、確信が深まり、戦う心が燃えてくる。
 ただ御書を身で拝してこそ、いかなる不可能をも可能にしゆく利剣を持《たも》つことができるのだ。
 あの「“まさか”が実現」の大阪の戦い──。
 私たちは最初に拝した。
 「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(同1132?)
 この御金言を皆が深く命に刻みつけ、揺れ動く時代に、大確信の祈り、強盛なる信心から出発した。
 仕事をはじめ、経済苦に悩む友とは「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」(同1253?)を拝した。
 今は冬のごとき生活であっても、まじめに信心を貫けば、必ず春のような悠々たる未来が開けると励ました。そのように、個人個人の状況や行動に当てはまる御書を拝読し、実践の教学の重要性を伝えていった。燃え上がる求道の心。そして戦う師弟の教学が、勝利を開いたのだ。
 この昭和31年に行った教学試験も、試験のための試験などではない。幸福勝利のための試験であった。一騎当千の闘士を鍛えるための試験であった。
 大聖人は、法華経の文字について「肉眼《にくげん》の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり」(同1025?)と教えられている。
 同じ御文であっても、拝する境涯や一念の作用によって深さが変わる。
 御書根本に戦おう!
 そう決めて、学び抜く人には、無限の力が涌現するのだ。
        ◇
 戸田先生は、昭和25年の暮れ、御書を学ぶ姿勢を教えてくださった。
 「太平洋のような境涯で、この御書を拝していくことだ。そうでなければ、御本仏の御心に近づくことはできない」
 当時、戸田先生の事業は破たんし、学会の理事長も辞任。多大な負債を抱えて苦闘の渦中であった。
 しかし、明日をも知れぬ苦境の中でも、恩師は、悠々たる大境涯であられた。
 私たちも、御書を開くたびに、この師の指導の如く、大聖人の御精神を、「仰せの通り」「御文の通り」と、深き信心で拝していくことである。

開目抄を命に刻み
 今、青年部は10月に行われる「青年部教学試験1級」を目指し、向学の汗を流している。そして、学んだ歓喜を友に語り、友情を大きく広げている。

 大鵬《おおとり》の
  空をぞかける
   姿して
  千代の命を
   くらしてぞあれ

 この和歌は、「開目抄」の講義録が発刊された折、戸田先生が、その第1号に揮毫して、私にくださったものである。
 今回の1級試験の範囲にもなっている「開目抄」は、私も青年時代から生命に染め抜く思いで拝してきた。
 入信して数年後、青年部の友人宅に泊まり、月の光が差し込む中で、夜半まで学び合ったことも、金の思い出である。
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(同232?)
 今こそ一国の罪障を消滅させ、人類の無明を断ち切るのだとの、御本仏の不惜身命の大精神が胸に迫る。
 私も第3代会長に就任した日に、この御文を命の奥底に刻印し、広宣流布のために身を捧げてきた。そして、牧口先生、戸田先生の遺言の一切を実現した。
 牧口先生は軍国主義に立ち向かい、過酷な取り調べと劣悪な獄中生活を強いられた。しかし、入獄3カ月後の昭和18年10月、クマ夫人と嫁である貞子さんに宛てた書簡で、こう綴られている。
 「一個人から見れば、災難でありますが、国家から見れば、必ず『毒薬変じて薬となる』という経文どおりと信じて、信仰一心にしています」
 「開目抄」には、「今《い》ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来《きた》るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし」(同233?)等とある。
 この御文のままに、先師は、国土に充満する謗法と命を賭して戦う覚悟であられた。そこに自身の宿命転換があり、その先に、平和な社会を展望されていたのだ。
 「開目抄」は、大聖人が御命にも及ぶ流罪佐渡で認められた重書中の重書である。
 3代の会長は死身弘法の精神で、色読してきた。
 戸田先生は言われた。
 「妙法のゆえに、牢獄に入り、難を受け切ってきたからこそ、大聖人の仏法を本当に会得できた。ここに学会教学の原点がある。
 この魂を伝えていかねばならない。わが青年部は、時間を惜しんで、真実の師弟の教学を身につけよ!」
        ◇
 今回、1級試験を受験する若き友も、講義を担当してくださる先輩幹部の皆様も、本当に大変であろう。
 しかし、教学の研鑽は、皆が仏になりゆくための仏道修行である。合否を超えたものだ。この甚深の意義に思いを馳せながら、青年らしく、学会っ子らしく、勇敢に、聡明に、忍耐強く、勝負強く、挑戦していただきたい。
 大仏法を学び、行ずる尊い努力に、功徳は無量無辺であり、子孫末代まで流れ通うことは、絶対に間違いない。
 ともあれ、2013年、そして、創立100周年の勝利を開く重要なこの秋──。
 勇んで御書を幡き、人生勝利の劇を綴りゆこう!
 学んだ歓喜を心広々と語りながら、日本社会に、そして世界に、勇気と希望の哲学の柱を打ち立てていこうではないか!

 我が人生
  大聖人に
   包まれて
  朗らか王者と
   勝利の長者と