95 「7・17」の誓い



  ギリシャの哲人プラトンの、有名な『ソクラテスの弁明』のなかに、師・ソクラテスの言葉が記されている。

 「もしわたしが、罪を着せられるとすれば、(中略)多くの人たちの中傷と嫉妬が、そうするのです。まさにそれこそが、他にも多くのすぐれた善き人たちを罪に陥(おと)したものなのでして、これからもまた罪を負わせることになるでしょう」(田中美知太郎訳)

 いうまでもなく、ソクラテスは、当時の権力者たちによって、罪なき身でありながら、罪人にされ、独房に入れられ、死刑になった。

 よく戸田先生も、「歴史上、嫉妬・中傷する人間が、いかに多くの『正義の人』を苦しめてきたことか。これが現実だ」と厳しく指摘しておられた。

 大聖人も、御自身の流罪・死罪の大難は、悪人の「讒言」によるものであると仰せである。

 〈「讒言を企てて余が口を塞がんとはげみしなり」(御書348p)、「国主も讒言を収(いれ)て流罪し頸(くび)にも及ばんずらん」(同356p)等〉

 つまり、大聖人をただ陥れるために、嫉妬によってデッチ上げられた罪であり、あまりにもむごい刑であった。

 皆様方もご存じの通り、私が大阪府警に出頭し、選挙違反の容疑で逮捕されたのは、一九五七年(昭和三十二年)の「七月三日」であり、出獄したのが「七月十七日」である。

 特に、十七日のその日は、大阪拘置所の独房にいた私の耳にも、朝から、わが同志である音楽隊の勇壮なる学会歌の調べが聞こえた。

 正午過ぎ、私は釈放された。

 拘置所の鉄の扉の前には、数百人もの同志が、私を待っていてくれた。

 私が外に出ると、拍手がわき起こった。照りつける夏の太陽がまぶしかった。

 「ありがとう! ご心配をおかけしました。私は、このように元気です!」

 すると、誰からともなく、「万歳!」の声があがり、やがて皆の喜びの唱和となった。

 私の投獄を、わがことのように心配し、悲しみ、憤った、関西の同志たち。私は、その真心への感謝を、絶対に一生涯忘れることはないだろう。

 この日の夕刻には、堂島川を挟んで、大阪地検のある建物の対岸に建つ、中之島の中央公会堂で、大阪大会が行われることになっていた。

 大阪府警、並びに大阪地検への抗議集会である。

 私は、東京から来られる戸田先生を、お迎えするため、直ちに空港に向かった。

 七月三日以来、二週間ぶりにお会いした先生は、さらに憔悴(しょうすい)しておられ、胸を突かれた。

 しかし、先生は、にっこりとして言われた。

 「戦いはこれからだよ。御本尊様は、すべてわかっていらっしゃる。勝負は裁判だ。裁判長はかならずわかるはずだ」

 未来を予見されたかのような、確信に満ち満ちた言葉であった。

 一方、この日の夕刊は、小さな記事で、大阪地検が私を「処分未定のまま釈放した」とし、「同地検では起訴はまぬがれないとみている」と伝えていた。

 赤煉瓦と青銅屋根の、堂々たる中之島の公会堂では、大阪大会が始まろうとしていた。

 「罪もない池田室長を、牢獄につないだ権力が憎い!」

 「絶対に許さない!」

 会場は、義憤に燃えた同志で埋まり、場外にも一万数千人があふれた。

 皆、私とともに立ち、ともに泣き、ともに笑い、生涯、私とともに戦い抜こうと決意された真実の同志である。

 午後六時開会。しばらくすると、晴れていた空が一転、黒雲に覆われ、豪雨となった。稲妻が走り、雷鳴が轟いた。

 横暴なる権力への、諸天の怒りだ!――と、誰もが自然のうちに感じとっていた。

 会場周辺にいた警察官は、いちはやく退避し、雨をしのいでいたが、同志は、ずぶ濡れになりながら、スピーカーから流れる声に耳を傾けていた。

 場内は熱気に包まれていた。

 壇上にあって私は、お痩せになられた先生の背中を見つめつつ、早くまたお元気になっていただきたいと、ただただ心で祈った。

 登壇した私は、短く訴えた。

 「最後は、信心しきったものが、大御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念で戦いましょう!」

 実は、出所したばかりでもあり、戸田先生が「挨拶は、簡単に一言だけにした方がいい」と囁いてくださったのだ。

 「戦いは、負けてはならない。絶対に、負けてはならない!」

 この日から、それが関西の合言葉となり、今日まで伝統となってきたことは、知る人ぞ知るである。

 そして、この「七月十七日」を”不敗の原点”の日として、関西は、誉れ高き「常勝関西」へと、断固として生まれ変わった。

 大阪事件の裁判は、四年半の長きにわたった。公判は八十四回を数えることになる。

 弁護士たちは、私に言った。

 「無実であっても、検察の主張を覆すことはできない。有罪は覚悟してほしい」

 孤軍奮闘の法廷闘争である。

 その間に、わが父であり、師である戸田先生は逝去。

 そして、私は第三代会長に就任していた。もし、私が有罪になれば、宗教法人法の規定によって、代表役員である会長職を辞任しなくてはならない。ともあれ、学会員の動揺は大きくなるばかりであろう。

 私は、戸田先生の、「裁判長はかならずわかる」とのお言葉を信じきって、法廷での戦いを行ってきた。

 そして、逮捕から約千六百七十日後の、一九六二年(昭和三十七年)一月二十五日、裁判所は判決を下した。

 「池田大作、無罪!」

 遂に、冤罪は晴れた。

 正義の太陽は、闇を破って、大空に赫々と昇った。

 ともあれ、いかなる時代になっても、わが創価学会に対する迫害の構図は変わらない。

 しかし、仏法の鏡に照らせば、難こそ誉れである。

 邪悪と戦う大闘争心に「創価の魂」は、「師弟の精神」は、脈打ち続けるのだ。

 文豪ユゴーは叫んだ。

 「流人よ! 額を上げよ、而して此の光明に輝かせ!

 我々の額を上げよう、若しも国民が、『此等の人々の額を照すものは何ぞ?』と問う時、『来らんとする革命の光明なり』と答え得るために」(神津道一訳)

 その日、勝利の太陽に包まれ、不屈の人権闘争の炎は燃え上がった。

 忘れまじ、全同志の真心を!

 忘れまじ、七月十七日!