142 臆病と戦え 慢心を破れ!



  私たちの「五月三日」がやって来た。

 世界中の同志が胸を張り、歓喜に沸騰して迎えるこの日は、皆のいっさいの夢が成就し、千万の小さな太陽が勝ち誇ったように輝き渡る日である。

 私たちは知っている。

 仏法とは、永遠に「仏」と「魔」の闘争であることを!

 広宣流布の歴史は、退転・反逆の徒との壮絶なる闘争であったことを!

 私たち門下は、峻厳に、これを受け止め、永遠に忘れることがあってはならない。

 卑怯者の畜生の弟子たちよ!

 仏法の厳しき因果を知れ!

 それは日蓮大聖人の御在世のことである。

 親しく教えを受けながら、最後は裏切り、退転していった多くの門下たちがいた。

 少輔房、能登房、三位房、太田親昌、長崎時綱等々である。今でいえば、大幹部たちだといってよい。

 しかし、これらの、いわゆる卑劣な「獅子身中の虫たち」も、初めから退転・反逆するつもりで信心していたわけではない。

 それでは、なぜ退転したのか。彼らは、なにゆえに師敵対をし、恩を仇で返したのか。

 ここで、私は、真実を映す、後世への「鏡」として、少々、述べ、残しておきたい。

 たとえば、日蓮門下の最優秀の一人であった三位房のことである。彼は、才知に富み、雄弁で、仏法の理解も優れた俊秀であった。今日の有名な大学出というところだろう。

 しかし、彼は、比叡山遊学中、貴族に招かれて説法したことを喜び、自慢げに大聖人に報告するなど、世間の名聞名利の風に吹かれ、流されゆく根性があった。つまり、見栄っ張りであった。

 大聖人は、その虚栄の心を、厳格に叱責されている。

 ――この仏法は、世界最高峰の法門ではないか。何も恐れるものはないはずである。それなのに、貴族に説法したぐらいで得意になるとは、日蓮を卑しんでいるのか、お前は――。

 それは、弟子への大きな期待のゆえでもあった。

 「竜の口の法難」の際には、彼は、危険を覚悟で、刑場まで大聖人のお供をし、師が佐渡に流されてからは、鎌倉の弟子の中心の一人として活躍もしたようだ。しかし、その本質は、自分を”いい子”に見せるためであった。

 結局のところ、彼は最後は退転する。それは、農民信徒の殉教に至った、あの最も大事な「熱原の法難」の渦中のことであった。

 彼、三位房は、熱原などの一帯で目覚ましい弘教を進められていた日興上人を助けるべく、大聖人から現地に派遣を命じられるが、そこで、彼は愚かにも、敵陣営の甘言にたぶらかされ、退転の坂を転げ落ちてしまったといわれている。

 現在の幾人かの大幹部の退転の構図も、全く同じである。

 この転落劇は、自分はインテリだとうぬぼれた彼が、目下に見ていた日興上人を補佐することに不満を抱き、嫉妬の火炎を燃やしたところに、悪魔に付け入られたのである。

 碩学日亨上人も、そう洞察されている。

 結局、尊き信心を狂わせていくのは、常に「慢心」と「虚栄心」、そして「嫉妬」という醜い心である。さらに、その裏側には、必ず「臆病」という弱さが隠れている。

 有名な「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」との厳誡は、誰あろう、この三位房に与えられたものであった。

 大聖人は、三位房らの退転者の心根のはかなさを嘆かれ、

 「をくびやう(臆病)物をぼへず・よく(欲)ふか(深)く・うたがい多き者どもは・ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけ そら(空)をき(切)りたるやうに候ぞ」と、痛烈に破折されている。

 「物おぼえず」とは、いくら指導されても、あるいは、さも仏法をわかっているかのように人に教えていても、自らは真の意味を理解せず、「まことの時」には全く信心を忘れてしまうという、恐るべき慢心と表裏一体の愚鈍さを指しての御聖訓であられた。

 「臆病」ゆえに、そして「愚か」ゆえに、「欲深き」ゆえに、また「疑い深き」ゆえに、正道から転落していくのである。

 「月月・日日につよ(強)り給へ・すこしもたゆ(撓)む心あらば魔たよりをうべし」と、大聖人は厳しく仰せになられた。自己の「精神闘争」のない弱き者は、堕落し、屈折し、逆巻く地獄の怒濤に消え失せていくのである。

 日々の広宣流布の闘争という学会の活動が、いかに尊き行動であるか、わかるはずだ。

 さらに、大聖人は、別の御書で、次のように峻烈に弾劾されておられる。退転者、反逆者というものは、「返って本より謗ずる人人よりも強盛にそしる人人 又あまたあり」と。

 端的にいえば、自己を正当化させていくために、今まで自分たちに迫害を加えてきた人間よりも、さらに激しい攻撃を開始するのである。

 現在も、かくのごとき卑劣な輩がいる。狂気じみて、私どもを攻撃している浅ましき姿は、ご存じの通りであり、この仏法の方程式を見れば、深く納得できるのではあるまいか。

 大聖人の御入滅後も、同様の構図で、五老僧が反逆している。すなわち、日昭、日朗、日向、日頂、日持の五人である。

 「五人所破抄」等に明らかなごとく、彼らは、日蓮大聖人の弟子でありながら、「天台沙門」つまり「天台の弟子」を名乗った。

 世間体を繕い、迫害を恐れたのである。そこには、「大難なくば法華経の行者にはあらじ」と言われた日蓮門下の誇りは何もない。

 しかも、五老僧は、一致団結すべき門弟の間では、自分たちは大聖人の直弟子であるといい、二祖・日興上人には決して信順しなかったのである。

 ここにも、保身と慢心と嫉妬に食い破られた、畜生の心に支配された、反逆者の惨めな実像(すがた)があった。

 ゆえに、賢明なるわれらは、鋭く瞳孔を開いて、現実の裏切り者の輩に対しては、峻厳なる態度をもって、すべてを見抜いていかなければならない。そして永久に、日蓮仏法の正義のうえから、その邪悪を追及していかねばならない。

 創価学会の歴史にあっても、戦時中の弾圧で、初代・牧口会長が投獄されると、手のひらを返したように、口汚く先生を罵り始めた者たちがいた。

 いわく、「牧口の野郎」「牧口のせいだ」「牧口に、だまされた」等々。なかには、先生のお宅まで行って、残された家族に悪口する者もいた。

 牢獄を出た偉大なる戸田先生は、裏切り者の弟子たちと真っ向から戦った。

 彼らの浅ましい忘恩と狼狽の姿を、論文「創価学会の歴史と確信」のなかで、明確に書き残されている。

 「創価学会のすがたはあとかたなく、目にうつる人々は御本尊を疑い、牧口先生を恨み、私を憎んでいるのである」

 そのなかには、一九四三年(昭和十八年)の秋に、理事長就任が内定していた、野島某という人物もいた。折からの吹き荒れた学会弾圧で投獄され、退転していったのみならず、牧口先生、戸田先生に卑劣なる中傷を加えたのである。

 今更ながらに、戸田先生の、師弟不二なる仏法の烈火の指導が胸に迫ってくる。

 ――周囲の人びとに信心強盛に仏道修行に励んでいるかのように印象づけながら、要領よく組織のなかを泳いでいる人間は、必ず退転する、と先生は遺言された。

 ともあれ、心卑しき人間、自己の利害を中心に生きる人間、また、自身の虚栄のための信心は、初めはこの大仏法に励むように見えても、弛みなき精進を忘れれば、必ず、やがては背信の行動となり、反逆に陥っていくものだ。

 いわゆる「二乗根性」の者たちが、自分は誰よりも学識があると思い込み、いわゆる増上慢となって退転していく、哀れな連中の姿は、皆様がよくご存じの通りである。

 また、学会のおかげで偉くなりながら、傲慢になり、忘恩の泥沼に転落していった輩も、これまでにも多くいた。

 その卑しき姿は、仏法の法剣によって、厳正に裁かれるであろう。

 有名な「佐渡御書」には、こう仰せである。

 「日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がか(斯)くなれば疑ををこして法華経をすつるのみならず かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし」

 反逆者の末路は、必ず地獄である。惨めである。

 いかに巧みな言を弄し、マスコミ等を使って自己正当化しても、同志を裏切り、師匠を裏切った人生の敗北が、厳しく残るだけである。

 千万の  非難の嵐を  乗り越えて

       創価の城は  いやまし栄えむ

 いかなる陰険な迫害があろうと、また、いかなる卑劣な策謀があろうと、われわれ同志の広宣流布の前進は不滅である。

 それが強き信仰で結ばれた、師弟直結の美しき創価の心であり、誉れである。また、最極の誇りなのだ。