159 蓮祖の御入滅 

/ 大難を超え 燦たる太陽の如く

 「数知れぬ、悪意の波、また中傷の波があれども、断じて屈するな!」とは、戸田先生の強い指導であった。「広宣流布」は、順風満帆、思いのままにいくと考えたら、間違いである。あらゆる大偉業もまた、同じ方程式である。

 戸田先生は、「偉大なる正義の人びとは、けちくさい、そして陰鬱な高慢ちきの中傷など、あざ笑え! 狡賢いだけの愚か者どもには、糞でもひっかけてやれ!」と、笑いながら、指導しておられた。現実というものは、正と邪の闘争であり、正義の人びとの心の中に、ありとあらゆる魔物が侵略しようとする力学である。

 しかし、熱烈たる「信念」と「正義」と「忍耐」のある人の行動は、いかなる恐怖があろうと、嵐の戦慄さえも、みな、大勝利への大風と変える。魔軍の彼らは、悲痛な夢を見ながら、滅亡の坂を転げ落ちていく。我らには、喜びの季節が巡り、自分自身がつかんだ幸福の秘宝を逃すことなく、堂々たる人生の勝利の花、勝利の美が、わが遊歩道に飾られていく。これが、生命と歴史の峻厳なる道理といってよい。

 彼らは、醜い姿で敗北しながら、必ず遁走する。我らはやがて、喜色満面の、殉教の不滅の栄誉に包まれ、三世十方の仏菩薩が守り讃え、おそらく涙を流しながら、「偉大なる天使よ!」と絶賛していくにちがいない。我らを苦しめる魔性の輩は、自分の身を自ら裂きちぎり、不運な哀れな屍となるだろう。

 日蓮大聖人は、三十二歳の立宗から、五十三歳で身延に入山されるまでの二十一年間、「山に山を重ね波に波をたたむ」ように、連続する大迫害を乗り越えてこられた。これは、「開目抄」の一節である。確かに、肉体的にも、精神的にも、耐え難い圧迫の連続であった。特に、「国主も讒言を収て流罪し頚にも及ばんずらん」(御書356㌻)「讒言して流罪し死罪に行はる」(同1437㌻)等と仰せのように、悪人の「讒言」、つまり嘘の悪口によって流刑された佐渡の地では、命にも及ぶ、過酷な生活環境を強いられたのである。

 そのためであろうか、身延入山の当初から、大聖人の御体調は、必ずしも万全ではなく、一貫して「やせやまい」「衰病」「老病」に、悩まされ続けたと言われている。なかでも、建治三年(1277年)の十二月三十日には、「下痢(くだりはら)」「はらのけ」の病が起こった。五十六歳の御時である。翌年の建治四年(1278年)の六月のはじめには、その症状がさらに激しく悪化した。その時は、四条金吾の治療が功を奏した。

 大聖人は、「教主釈尊の入りかわり・まいらせて日蓮をたすけ給うか」(同1197㌻)と、弟子の金吾に、最大に感謝なされている。しかし、三年後の弘安四年(1281年)、六十歳の正月に再発し、その年の十一月末からは、食事がほとんど摂れないほどに悪化した。御入滅の年である、弘安五年(1282年)の正月は、少し持ち直されたようであるが、二月は、短いお手紙も、弟子に代筆させるような病状であられた。

 そのようななかで、熱原の法難を戦い抜いた、青年・南条時光が重病にかかった。二月二十八日には、この若き愛弟子に襲いかかった病魔、死魔をうち払うべく、大聖人は渾身の書「法華証明抄」を認められ、日興上人を介して与えた。「鬼神めらめ此の人をなやますは剣をさかさまに・のむか又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか」(同1587㌻)と、烈々たる気迫で悪鬼を叱りつけておられる。

 実に、大慈悲の賜物というしかない。この年は、九月の身延出山まで、大聖人は、一進一退の病床が続いたようであられる。門下に与えられた御自筆の御手紙で今に残っているものは、この「法華証明抄」と、短い数編しかない。大聖人のお体は、前年よりも、かなり衰弱されていたと、拝察されるのである。

 御入滅は、十月十三日の“辰の刻”、すなわち午前八時頃であった。参集者たちが御本物の仏界の世界を味わいながら迎えた、最期の瞬間であった。しかし、それは最期であるとともに、永遠の生命そのものに飛翔する“新しい時”でもあった。その「滅不滅」の時を刻むかのように、その一室には、一日の始まりを象徴する辰の時、午前八時の太陽の光が、燦々と注ぎ込んでいたことであろう。

 旧暦の十月十三日は、現行の太陽暦では、十一月二十一日頃に当たり、二十四節気でいえば、ほぼ「小春」のことである。つまり、冬の始まりであるとともに、「小春」と呼ばれるように、春を思わせるような陽光に恵まれる季節でもある。伝記によっては、御入滅と同時に、庭の桜がいっせいに開花したと伝えるものもある。これは、日興上人の『御遷化記録』にはない話なので、事実ではないかもしれない。

 しかし、私は、この伝承の一節が胸に迫り、広宣流布の信徒として、せめても大聖人に桜の花を奉じたいと深く思い、蓮祖、そして二祖・日興上人のお喜びを、深く念じつつ、「十万本の桜」の植樹を決意したのである。いずれにせよ、このような言い伝えがあるのは、この日が、「小春日和」だったからかもしれない。

 大法に反逆した輩は、暗黒の死刑台へ運ばれていくにちがいない。日蓮直結の門下として、広布に走る人生は、豪華な王冠が、生命に輝くにちがいない。

 人生の終わりに、不平と苦痛と空白な、愚かな目を閉じるか。無限に新しい、確かなる永遠の太陽が昇るか。御聖訓には、「上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて」(同574㌻)と仰せである。己の栄光の大勝利と大満足の最期の瞬間は、尊い次の生への旅立ちであり、妙なる音楽に合わせながら、飛び立つ鳥に囲まれるがごとく、自由の空に遊戯しゆくのである。そして再び、その人は、天の使命、天の役目をもち、美しさと誉れをもって、還り来るにちがいない。