(198) 熱原法難の歴史(下)




 「師弟相違せばなに事も成べからず」(御書九〇〇?) 熱原法難のさなか、日興上人は、逐一、身延におられる日蓮大聖人に報告され、具体的な御指示や御指導をいただいた。

 この大難に、大聖人と、「師弟一体」で立ち向かわれたのである。

 弘安元年(一二七八年)、滝泉寺の院主代・行智らは、法華経を信仰することを禁ずるという御教書(幕府の命令書)を偽造し、正法の拡大を阻止しようと画策した。

 大聖人は、それらが虚偽の謀略文書であることは、見る前からわかりきっているではないかと、喝破しておられる。

 事実、御教書が偽であることは、簡単に露見した。

 だが、邪智の策動は執拗であった。同志を怨嫉する人間を誑かして退転・反逆させ、門下の団結を切り崩そうと謀ってきたのである。

 もともと、大田親昌、長崎時網は、富士方面の中心的信徒であった高橋六郎兵衛に対する悪感情を抱いていたとされる。

 また、三位房は、日興上人に対する嫉妬があった。

 日興上人よりも先輩格であり、比叡山にも留学した学僧であったため、増上慢の心が強く、わずかな学識を鼻にかける一方、民衆の中に飛び込んで戦う姿勢が希薄であった。

 大聖人の命により富士に派遣されたものの、後輩の日興上人のもとで活動することに反発していたのである。

 所詮、信仰者のあり方としては、仏法を中心とするか、自分を中心とするか、二つに一つしかない。

 いつの時代も、退転者は、「法」よりも、自分の「感情」や「利害」を優先させるものだ。

その心の隙に魔が食い入る。 大聖人は、その卑しい本性を、「臆病」「物をぼへず」「欲深く」そして「疑い多き者ども」と、見破っておられた。

 忘恩の裏切り者は、間もなく、落馬などが原因で、次々に変死を遂げた。

 御書には、その現証を「法華経の罰のあらわるるか」「現罰なり別ばちなり」(同一一九〇?)と断じられている。

 仏意仏勅の大恩ある学会に弓をひいた輩も、一人として例外なく、無残な末路を遂げていることは、ご存じの通りである。

 弘安二年(一二七九年)の九月二十一日。かねてから信徒が集まる機会をとらえ一網打尽にしようと狙っていた行智らは、この日、日秀の田の稲刈りの手伝いに人びとが集合することを知るった。

 そこで、下方庄政所の役人など多数を集め、稲刈りの最中を急襲すると、二十人の農民信徒を不当に逮捕し、政所に連行したのである。

 しかも、行智らは、日秀が武装した農民を指揮して院主の住坊に乱入し、滝泉寺の田の稲を盗みとったという事実無根の罪状をでっち上げて、幕府に訴え出た。

 この訴訟は、「自科を塞ぎ遮らんが為に不実の濫訴を致す」(同八五○?)ものであった。

 つまり、自分たちの罪科を隠すために、虚偽を申し立てて、無実の人を訴え、みだりに裁判を起こす。

現代的にいえば、「訴権の濫用」であった。

 近年の学会への邪悪な策謀と、全く同じ方程式である。

行智側の訴状の内容が明らかになると、日興上人は早速、申状(幕府への上申書)の原案を執筆し、師のもとにお届けした。

 この文案は、事件の真実の経緯を明らかにし、行智側の悪行を糾明するものであった。

大聖人は、その前半部分に、「立正安国論」の予言が的中した事実等を加筆され、行智らの邪義を破折されたのである。

前半を大聖人が、後半を日興上人が執筆された形になった、この「滝泉寺申状」は、まさに師弟共戦の証であった。

 二十人の熱原の農民たちは、直ちに鎌倉に連行され、刑事事件を担当する侍所の所司(次官)でもある、平左衛門尉の尋問を受けることになった。

 非道な取り調べにも、個喝にも、脅迫にも、拷問にも、一人として屈しなかった。

 そして遂に、神四郎をはじめ三烈士は、殉教を遂げたのである。

世界の人権闘争の歴史においても、不滅の意義を刻みゆく瞬間となった。

 まことに壮絶な死であった。

 しかし、「如説修行抄」に仰せの通り、頸をひき切られようとも、その生命は、釈迦・多宝・十方の諸仏に瞬時に包まれる。

そして、無数の諸天善神に守護され、讃歎され、喝采されながら、たしかに永遠の寂光の宝土へと送り届けられるのである(同五〇五?、趣旨)。

 かつて私は、熱原の三烈士の死について、戸田先生に質問したことがあった。

 先生の回答は明快であった。

 「たとえ殺されたとしても、妙法のための死であるならば、それは、たとえば眠ったとき、はじめ、ちょっと何か夢をみたが、あとはぐっすり休めるようなものであるから、成仏は間違いない」と。

 広宣流布に生き抜く人には、いかなる姿であれ、不幸な死、悲嘆の死など、ありえない。

 また、捕らえられた熱原の一人の女性の門下が、「女人だからといって、後回しにする必要なし。

直ちに処刑せよ」と言い放ったという伝承も、残されている。

 大聖人は、三烈士の殉教の知らせを受けられると、間髪を入れずに「聖人等御返事」を認められた。

 そこには、「各にはおづる事なかれ、つよりもてゆかば定めて子細いできぬとおぽふるなり」(同一四五五?)と。

 断じて、恐れてはならない。いよいよ強く進んでいくならば、必ず現証が現れるとの、師子吼であられた。

 その通りに、勇敢に矢面に立って戦い抜いたのが、二十代の青年地頭、南条時光であった。

 時光は、熱原の同志をかくまい、庇ったがゆえに、さまざまな圧迫を加えられた。

 その試練の逆境にあっても、大聖人を厳然とお護りしながら、正義の反転攻勢へ先陣を切った。

 熱原の法難を勝ち越えたのも、師弟の道に徹し抜く青年の師子奮迅の力であった。

 「過去現在の末法法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(同一一九〇?)とは、熱原法難の折の御金言である。

 それから、十四年後の永仁元年(一一九三年)の四月、平左衛門尉の屋敷は、幕府の軍勢に囲まれ、火を放たれた。

 自分の長男・宗綱によって、 「幕府に反逆する陰謀」を密告されたのである。

 かつて、熱原の三烈士を拷問し、処刑したのと同じ屋敷で、平左衛門尉は、熱原の農民に矢を放って苦しめた二男・資宗もろともに、阿鼻叫喚の責苦のなかに自害して果てた。

 栄華を誇っていた一家一族も、火中に息絶えた。父を密告した長男も、佐渡流罪になった。

子孫は、跡形もなく、滅んだのである。

 この滅亡を、日寛上人の「撰時抄文段」では、「遠くの原因は、日蓮大聖人を打った大罪によるのであり、近くの原因は、熱原の法難の際に、三烈士を殺害したことによる」と断定されている。

 生死流転の神四郎

 桜の花に吹く風に

 あれよ広布の鑑よと

 その名かんばし熱原の

 烈士の命 誉れあり

この三烈士の魂をそのままに獄死なされたのが、創立の父・牧口常三郎先生である。

そして戸田城聖先生、さらに私も、自ら一身に難を受けた。

難に殉じて、この一生を送ることは、最高最大の誇りである。

難即悟達であるからだ。

一閣浮提広宣流布への「死身弘法」こそ、創価学会の三代にわたる会長の永遠の栄光である。