随筆 新・人間革命 204 黎明の竜の口(上)
「御書で学んできた『発迹顕本の地』に、ついに来ることができました。
日蓮大聖人の大闘争が、眼の前に浮かんでくるようです」 鎌倉の「竜の口」にある「SGI教学会館」を初訪問した、アフリカの同志の声である。
ヨーロッパの友も、アジア、オセアニア、北・中・南米の友も、口々に感動を語っておられた。
「私たち人類を救うために、大聖人は命をかけて戦ってくださいました。
その広宣流布の信心の血脈は、わがSGIにのみ流れ通っていることを、心から誇りに思います」と。
地元の鎌倉圏(ゾーン)をはじめ、湘南県の皆様方が、いつも真心込めて、会館を荘厳してくださり、海外の方々を温かく迎えてくださっている。
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開館する十年以上前、私は、この地に足を運んだ。
高台である。南の庭から見下ろすと、青き相模湾が、悠々と太平洋へ広がっていた。
砂浜は、ゆるやかに弧を描いて、右前方の江ノ島に向かっている。海岸線を左にたどれば、七里ケ浜、由比ケ浜へと続き、その左奥に鎌倉の街がある。
馥郁たる薔薇園が花ざかりの昭和六十一年(一九八六年)の五月十二日であった。
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会館の敷地には、医学者の長与称吉博士の別荘があった。
博士は、日本で初めての胃腸病院を開いた功労者とされる。
文豪・夏目漱石も、この病院で入院加療したことがあった。
ノーベル賞を受けたドイツの細菌学者コッホとも交友があり、来日の際は、この別荘に立ち寄ったという記録がある。
医学といえば、竜の口の法難において、殉教の決心で大聖人にお供した四条金吾も、医術を深く心得た武士であった。
また長与博士の弟は、白樺派の作家・長与善郎である。
彼の名作『竹沢先生と云ふ人』は、私も若き日に愛読した一書である。
その関係から、同じ白樺派の文人の武者小路実篤や、「麗子像」などで有名な画家の岸田劉生らも、この別荘に来て、文学と芸術と哲学を語り合ったという。
さらに長与博士の娘婿は、犬養毅首相の子息であった。犬養首相は牧口初代会長と親交があり、「創価教育学支援会」の筆頭に名前を連ねていた。
幾重にも、縁と由緒と品格が光る会館である。
思えば、信じ難い宗門の裏切りのなかで、昭和五十四年(一九七九年)には、あの希望輝く神奈川文化会館が完成した。
そして近年の弾圧のなかで、この意義深きSGI教学会館が平成十一年(一九九九年)に誕生した。
いずれも、大聖人から創価学会に賜った、正法正義の宝城であると思えてならない。
この会館を訪れる方々が、何ものにも負けず、未来永遠に、一切の難を勝ち越えゆく金剛の生命となっていただきたい。
これが、私の祈りであり、確信である。
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その日、文永八年(一二七一年)の九月十二日。松葉ケ谷の草庵を、物々しい一群が取り囲んだ。
幕府の実力者・平左衛門尉が、数百人の兵士を率いて押し寄せてきたのである。
大聖人は、大高声で言い放たれた。
「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」(御書九一二㌻) この暴挙の裏には、僭聖増上慢の極楽寺良観がいた。
良観は、大聖人に、邪義を破折され、偽善を暴かれ、そのうえ「祈雨の勝負」にも負けてしまった。
「法門」でも、かなわない!
「人徳」でも、かなわない!
「現証」でも、かなわない!
かくなるうえは、大聖人を悪人に仕立て上げるしかない。良観は、策謀をめぐらした。
権力者やその夫人などを取り込んで、「讒言」すなわち卑劣極まりない「つくり話」を撒き散らしていったのである。
当時、幕府は、迫り来る蒙古襲来という非常事態に翻弄されていた。
「立正安国論」で警鐘を打ち鳴らされた通りの総罰であった。
国を憂うるならば、道理にかなった大哲人の正論に、謙虚に、真摯に耳を傾けてこそ、真の為政者である。
しかし、彼らは、民衆の幸福など、ほとんどえていなかった。
国の危機に乗じて、ただ自分たちの権勢を強化しようとした。
そして、その邪魔になる、真正の国の宝を抹殺しようと企てたのである。
「嫉妬に狂った悪侶」と「驕慢に狂った権力者」が、手を組む。
近年、仏意仏勅の創価学会に加えられた迫害も、全く同じ構図であった。
大聖人は、謀反人のように鎌倉市中を引き回された揚げ句、北条宣時の屋敷に預けられた。
宣時が、流罪地の佐渡の国の守護職だったからである。
しかし彼らは、深夜、ひそかに大聖人を屋敷から連れ出した。「竜の口」で、亡き者にするためである。
つまり、手続きを経た死罪ではなく、権力者による私刑(リンチ)であった。
何もかもが、「闇」の中で進められた。
彼らは「正義の太陽」が怖かった。妬ましかった。
権力の魔性の闇が、残忍な刃を研いで蠢いていたのである。
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竜の口の刑場への途中、若宮小路で、大聖人は馬から下りられて、八幡宮に向かって、痛烈に諌暁なされた。
「今日蓮は日本第一の法華経の行者なり其の上身に一分のあやまちなし」「いそぎいそぎ御計らいあるべし」(同九一三㌻)法華経の会座で、正法の行者を護ることを約束した諸天善神への、叱咤の師子吼であられた。
さらに由比ケ浜に出てから、大聖人は、熊王という童子を使いにして、四条金吾に急を告げられた。
金吾は裸足のまま、即座に、兄弟四人で馳せ参じた。
この重大な局面の証人として呼ばれたのは、最も信頼する在家の弟子であった。
刑場といっても、特別な施設があったわけではないようだ。
砂地に敷物を広げて、斬首の座としたと考えられる。
刀を手にした武士が、今にも処刑せんと構えた。
四条金吾が、「いよいよです」と言って、こらえきれず泣いた。
大聖人が戒められた。
ーーこれほど喜ばしいことを、笑いなされ!
その時である。
江ノ島の方角から、月のごとく光る鞠のようなものが、突然、飛んだ。
深い闇が、みるみる月夜のように明るくなった。
太刀を待った武士は、目がくらんで倒れ伏し、兵士たちは恐れ、「一町計り」も走り逃げた(現代では、一町は約百九メートルといわれる)。
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この「光り物」の正体は、何だったのか。
それは、「おひつじ・おうし座」流星群ではないか、という研究がある。
東京天文台長であり、東大名誉教授でもあった、故・広瀬秀雄博士の説である。
博士は、文永八年九月十二日夜の「光り物の出現」の時刻について、「日没ごろか、その少し後」と推定されている。
その日の「日没」は、「午前三時四十四分」という。
御書には、光り物は、闇を切り裂いて、「辰巳(南東)から成亥(北西)にかけて」光りわたったと記されている。
幾多のデータを分析し、解析した結果から、光り物は、午前四時ごろに出現した「大流星」であろうというのが、博士の見解であった。
その高度は三四度、方位角は南から西へ七九度。
時期的に見て、これは、エンケ彗星を母彗星とする「おひつじ・おうし座」流星群から生まれたという推察である。
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まさに、大聖人が、闇の中で斬首されんとした、この時、この一瞬に、大光は放たれた。
逃げ散った武士たちに、大聖人は「頸を斬るならば、夜が明ける前に、早く斬れ!」と促されたが、臆して誰も近寄ろうとしなかった。
やがて、彼の向こうに、遠く、かすかに紅い光が点った。
光は、たちまち左右に広がり、上へふくらみ、水平線が、はっきり見えてきた。
「夜明け」である。
陽光は急速に大きくなり、海をきらめかせ、空を照らした。
雲は七彩の錦となった。
金色に輝く太陽が、悠然と昇った。
それは、無明の深き闇を打ち破って、「太陽の仏法」が、地球を包み始めた壮麗なる瞬間でもあった。