327「平和の園」関西創価学園
常勝の人生 自他共の幸福を築け!
使命の翼よ 21世紀の大空へ
「二十一世紀を迎えても、人類は、どこに向かって進むべきか、わからない
でいます。
池田会長、未来のために、今こそ語り残しましょう!」
私は今、平和創造の指導者ゴルバチョフ氏から提案をいただき、新たな「対
談集」の発刊へ、対話を開始した。
この三月に氏と再会した時、「あれは夢のような一時でした」と懐かしんで
おられた思い出がある。
それは何か――。ライサ夫人と訪れた、紅葉の秋の交野でのわが関西創価学
園生との出会いであった。
美しき平和の園よ! 桜花の乱舞、眩き若竹の林、静寂な蓮華の池、蛍の舞、
金星の煌めき、夕焼けの道、月見の宴、白雪の庭園……この詩情あふるるロマ
ンの学舎から、優しき瞳と強き信念の人材が澎湃と育っている。
関西創価の同窓のスクラムこそ、私の命であり、また私と妻の宝である。さ
らにまた、わが家全員の夢であり、そして、我ら関西家族みなの希望でもある。
関西学園が誕生して、ここに三十年。現役生も含めると、今や一万人を超え
る陣容となった。「万」には「満つる」という意義もある。
私は嬉しい。涙が出るほど嬉しい。
創価の人間教育の真髄をば最も深く体現した、関西創価の常勝の流れが盤石
でありさえすれば、もはや未来に恐れるものはないからだ。
◇
忘れもせぬ昭和四十八年の春、女子校としてスタートした関西学園の第一回
入学式で、私は指針を贈った。
「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」
そして、清々しき眼差しの乙女たちに語ったのである。
「地球は大きく、学園はケシつぶのような存在かもしれない。しかし、この
心をもち、実践していくならば、やがて地球を覆うにたる力をもつはずである。
なぜならば、原理は一つであるからだ」と。
それこそ「人間革命」という不滅の哲理に他ならない。
だからこそ「一人」が大事だ。自分が強くなれ! 自分が進むその道で、皆
を守り、皆のために勝ちゆけ!
今いる、その場所で、自他共の幸福と平和の世界を快活に断固として広げゆく
パイオニアこそ、関西学園生なのだ。
乱世をば
幸と文化に
あやなせり
園子の螢
つよく光らば
「園子」と愛称される女子学園生の同窓生の集い「蛍会」に贈った和歌であ
る。
その福運に満ちた連帯の光彩が、あの地でもこの地でも、いよいよ燦然と輝
きわたる関西創価の世紀に入った。
◇
昭和五十四年の四月、私が第三代会長を"勇退"した時、学園生たちは、そ
れをテレビニュースで知り、悔し涙を流した。
しかし、関西学園の教員であった長男の博正は、学園生に、こう語り、励ま
したという。
「どういう立場になろうが、創立者は君たちの創立者だ。何も変わらないん
だよ」と。
その通りだ。私は、いかなることがあろうとも、創立者として、何よりも大
切な学園生を守り、学園生の幸福と勝利のために生命を捧げる。この決心は一
生涯変わらない。
昭和五十七年に、学園は男女共学となり、さらには枚方の天地に待望の関西
創価小学校も誕生した。
全創価教育のモデルと仰がれゆく、関西の一貫教育は一段と隆々たる大発展
を遂げている。ご関係のすべての方々へ、感謝は尽きない。
◇
青春の原点の炎を燃やし続ける人は強い。
第二次世界大戦の渦中、あの独裁者ヒトラーが嘯いた。
――この戦いは、ヒトラー学校の卒業生と、英国のイートン校の卒業生との
間のものだ、と。
これを耳にした、英国の宰相チャーチルは、昂然と言い放った。
「ヒトラーは、わが母校ハロー校を忘れている!」
いうまでもなく、ハロー校も、イートン校も、数多の逸材を輩出したパブリ
ックスクールの名門である。
チャーチルが、この母校の後輩たちを前に、手にした杖で床を叩きながら叫
んだスピーチも有名である。
「断じて負けるな。断じて屈するな。断じて、断じて、断じて、断じて」
何があろうが、苦難に対して、邪悪に対して、絶対に屈しない。
これこそ、尊き父母から受け継いだ関西創価ならではの「負けじ魂」でもあ
る。
私はロシアの文豪ドストエフスキーの一節を思い出す。
「真理、善、真実はつねに勝ち、悪や悪行に対して勝利をおさめることにな
るのだ。だからわれわれはかならず勝つに決まっている」
「優れた人間は民衆から出てくるであろう、また出てこなければならない」
と。
それが、わが関西同窓だ!
男子の卒業生の陣列である「金星会」に、私は詠んだ。
金星会
輝き光れや
勝ちまくれ
我が人生の
歴史に悔いなく
◇
昭和六十一年の五月四日、私は何人かの関西の同志と共に、江戸後期の蘭医
学者・緒方洪庵が開いた私塾「適塾」を訪れた。
古い町家のたたずまいもそのままに大阪・北浜に残る、この史跡には、師弟
の魂を刻印した"宝"がある。
洪庵三十四歳の時から二十年にわたり、塾生の氏名、出身地、入塾年月日が
連綿と記された「姓名録」である。
福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内、佐野常民など、幕末・明治の新時代に活
躍した錚々たる"同窓生"の名簿は、その数六百三十六人――全体として西日
本出身が多いが、関東、東北、遠く北海道出身の塾生も含まれている。
まさに日本中からこの学塾に来り、師匠のもとで学び、人のため社会のため
に尽くさむと、雄志を抱いて巣立っていったのである。
この適塾の「姓名録」から、私は創価同窓の絢爛たる未来を思い描いた。と
もあれ、師弟の道を貫き通した人生は、なんと尊貴な輝きを放つことか。
私は、修学旅行で東京に来た関西小の児童たちを歓迎した折、日本を代表す
る写真家である白川義員先生の言葉を紹介したことがある。
「一度、恐怖におびえた人間は、使えない」
「泣きながらでも、ついてきた弟子は、みんな立派になっています」と。
厳しい一言であるが、雨の日も風の日も、「負けじの階段」を毎日通い抜い
てきた頼もしき児童たちに、真実の師子の生き方を打ち込んでおきたかったの
である。
◇
ロシアの大詩人プーシキンは、母校の同窓の連帯を誇り高く歌った。
「わが友よ、我らの連帯は素晴らしい。魂の如く、不二であり、永遠――
揺るぐことなく、そして自由闊達。
我らの連帯は、友情の調べに包まれ、育まれたのだ。
…… ……
運命が、いずこに我らを流そうとも、
幸運が、いずこに我らを導こうとも、
我らは変わらない」
わが関西学園の卒業生の「金星会」「蛍会」「創光会(関西創価小の卒業生)」
の友情は、世界最強の麗しき連帯であると讃える人は少なくない。
同窓生の目覚ましい活躍の様子は、私のもとに毎日毎日、伝わってくる。学
園主事をしている息子の尊弘から聞き、また多くの先生方から、つぶさに伺っ
てもいる。
ああ、懐かしき園子たちよ! わが愛する学園生よ!
たとえ会えなくとも、私は、妻と共に、いつもいつも祈っている。いな、一
日として祈らざる日はない。
一人ももれなく健康で幸福であれ! 一人も残らず栄光勝利の人生であれ!
と。
交野と枚方の学舎から日本全国へ、世界のありとあらゆる使命の前線へ!
私の胸には、関西学園生の壮大なる飛翔の姿が、晴れ晴れと限りなく広がる。
今や完壁に、君たちが二十一世紀の大関西を担い立ち、さらにまた貴女方が
日本列島を揺り動かし、そしてまた、皆さんこそが全世界へ新しい常勝の大波
動を巻き起こしゆく、希望の時代に入った。
「関西創価」の使命は、いやまして深く、大きい。
スイスの大哲学者ヒルティは、人類にとって貴重な人間とは、自己の弱さと
戦い勝った人びとだと言った。
"人はそうした戦いと勝利を重ねるたびに、いよいよ気高く、いよいよ練達
となる"
私は、関西同窓のわが友に彼の言葉を贈りたい。
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