329 忘れ得ぬ市ヶ谷の分室



「一人」の励ましから常勝の前進を

妙法とは幸福と勝利の大良薬

 現在、私が、ゴルバチョフソ連大統領と開始した新しい対談も、有意義に
進んでいる。
 過日は、元大統領が総裁を務める財団の新しい建物にも、ご招待をいただい
た。
 「小さな建物ですけれども、ぜひ、おいでください」
 私は真心に感謝しつつ、申し上げた。
 「建物ではなく、そこで戦う人間こそが拠点です。人間が偉大であれば、建
物の大小など関係ありません」
 即座に、あの会心ゴルビー・スマイルが返ってきた。

 青葉が光っていた。
 水面が光っていた。
 街並みも光って見えた。
 五月の太陽が輝く先日(二十二日)、聖教新聞社の首脳との協議を終え、外
堀通りを車で走り、市ケ谷周辺を回った。
 市ケ谷を通るたびに、「懐かしい。懐かしい」と口に出る。ここは忘れ得ぬ
師弟の古戦場だ。戸田先生が、この拠点で指揮をとられた日々が、鮮やかに思
い出される。
 昭和二十六年五月の末――戸田先生が第二代会長に就任されて間もなく、先
生が顧問を務め、二十三歳の私が若き営業部長として奮闘していた会社の事務
所は、市ケ谷駅の近くに移転した。
 お堀端に立つ、三階建ての市ケ谷ビルの一室である。それまでは、同じ新宿
区内でも、レンズ製作の工場跡のわびしい事務所であっただけに、新天地での
新たな挑戦の開始に、若き胸は躍った。
 当時の日記に綴っている。
 「前進――なんと若々しい、未来を合んだ言葉であろうか。私は、生涯、名
実共に、使い、実践してゆこう。
 前進――この言葉の中には、成長がある。希望がある。勇気がある。若さが
ある。正義がある」

 小さな小さな市ケ谷の事務所から、世界的な広がりのある創価の陣列をつく
るのだ!
 嵐また嵐のなか、師弟不二の戸田先生と私の決意は、凛然としていた。
 市ケ谷ビルの二階フロアに、私たちの会社の事務所があった。
 この場所が「戸田大学」の教室ともなった。
 毎朝、仕事を始める前に、戸田先生が個人教授で、大学教育でも及ばぬ万般
の知性の訓練をしてくださったのだ。
 大事な職場である。私は日ごろ、ビルの内外でお会いする方々とも、青年ら
しく元気よく挨拶を交わした。人間の交流は、気持ちのよい挨拶から始まるか
らである。
 ビルの前に、鉢植えの行商をする植木屋さんがよく見えていた。私は「いつ
も、ご苦労様です」と声をかけては、時折、花を買ったものだ。
 職人気質のこの方も、最晩年まで、私との出会いを宝としてくださり、麗し
い交流の花が咲いた。
 二軒先にあった市ケ谷食堂では、毎日のように食事をした。時には、お茶だ
け御馳走になり、慌ただしく失礼したが、食堂の方は母娘して大変に親切で、
温かかった。
 その時、お世話になった食堂の娘さんから、昨年・嬉しいお便りをいただい
た。
 学会の友人に誘われ、東京戸田記念講堂での会合に出席されたとのことであ
った。聖教新聞も、長年、購読してくださっている。
 私は、亡くなられたお母様の追善をさせていただき、謹んで一首をお贈りし
た。
 青春の
   思い出 多き
     市ケ谷
  日本一なる
    食堂 懐かし

 「市ケ谷」という地名の由来には、古来、この一帯に市が立って「市買(い
ちがい)」と呼ばれる売買が行われたという説や、起伏に富む山手台地にあっ
て、第一の谷(一谷)があったという説などがある。
 市ケ谷ビルには、聖教新聞の編集室も置かれた。
 さらに、当時の学会本部は西神田にあったが、その本部の「分室」も、昭和
二十七年の四月から一年半、このビル内に併設された。いずれも二階の部屋で
ある。
 分室は、わずか四、五坪の広さである。突き当たりの窓際に、戸田先生が座
る机とイスがあり、その前に七、八脚のイスが置かれていた。
 ここで、先生は、毎日午後二時から四時過ぎまで、訪ねてくる会員の指導・
激励にあたられたのである。
 市ケ谷ビル全体の受付をされていた女性が、今は三鷹にお住まいである。過
日、地元の婦人部のメンバーに当時の思い出を語ってくださった。
 その方は、訪れる人の多さに目を見張ったという。
 「創価学会は、どちらでしょうか……」。こう言って受付の前に現れる姿は、
どちらかというと、悩みを抱えて、傍目にも痛々しい感じの人が少なくなかっ
た。
 しかし、受付の方がさらに驚いたことは、その同じ人たちが、帰途につく時
には別人のように笑みを浮かべ、生き生きと、ビルを後にしていったというの
である。
 小さな病院の待合室よりも質素な部屋であったが、この分室こそ、まさに庶
民の"希望の港"となり、"蘇生のオアシス"となったのだ。
 「人間にとって立派な友人の励ましほど/苦しみを癒す薬は他にない」とは、
古代ギリシャの詩人エウリピデスの名言である。

 わが師は、訪れた友に、気さくに語りかけられた。
 「どうした?」
 その温かい声と、眼鏡の奥に光る慈現に、同志は心から安堵し、率直に悩み
をぶつけるのが常であった。
 悩みは、それこそ千差万別であった。
 経済苦、仕事の苦境、病気、家庭不和、子どもの問題、人間関係の軋轢、自
分の進路や宿命のこと……生きるか死ぬか、せっぱ詰まった苦悩もあった。
 「こんな自分でも、幸せになれるでしょうか?」
 先生は、その必死の声を聞いては、わが事として同苦され、友の生命を揺さ
ぶり、偉大な信力・行力を奮い起こすように励まされた。
 「大丈夫。この信心をして幸福にならないわけがない。心は王者でいきなさ
い。創価学会の名誉ある一員として誇りも高く生き抜きなさい」
 目の前の一人を救えるかどうか―― 一回一回の指導が真剣勝負であった。そ
こには、「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦」(御書七五八
ページ)との大慈大悲の仰せが響き渡っていたのである。
 大聖人の仏法は「現当二世」である。洋々たる現在と未来を開く「人間革命
の哲学」だ。
 トルストイは言った。
 「過古に於ける生活が、いかなる方向を向いていたにもせよ、現在に於ける
行為がそれを変え得る」
 しかり。人は人生を変えられる。その究極が妙法という大良薬の力である。
 御聖訓に「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さは(障)りをなす
べきや」(同一一二四ページ)と仰せの通りだ。

 分室に来る人のなかには、"幹部でありながら、こんなことで悩んで"と、
自分を苛んでいる人もいた。
 先生は、真剣に生きようとする限り、悩みは当然だと、大きく包容された。
 反対に、見栄っぱりで、悩める同志を見下すような者は、烈火のごとく叱ら
れた。悩んでこそ、人の苦しみがわかる。悩んでこそ、強くなる。
 先生ご自身も、お子さんを亡くされた。事業の苦境も、何度も経験しておら
れる。
 法華経の信仰ゆえに、二年間、牢獄にも入られた。
 先生は、そうした幾多の辛酸をなめ、艱難を勝ち越えたからこそ、学会の会
長になったのだと述懐されていた。
 かの文豪ユゴーが喝破したように、「大きな苦しみは、魂をとてつもなく大
きなものにする」のだ。なればこそ、勇気と希望を贈る、徹した励ましが大事
なのである。
 この指導力は、我流ではつかない。どこまでも「御書根本」である。そして
広宣流布の組織のなかで行学に励み、錬磨していく以外にない。

 五十年前の昭和二十八年の十一月、西神田から信濃町に学会本部が移転する
と、戸田先生の個人指導の場も、市ケ谷分室から移った。
 後年、市ケ谷ビルはなくなり、今は、ある音楽関係の会社のビルが立ってい
る。
 分室のあった地域では、現在、新宿区の牛込正義本部の友が見事に活躍され
ている。
 今、新宿の本陣家族をはじめ全国の同志が、真剣に聖教新聞の購読拡大に取
り組んでくださっている。
 聖教首脳との協議でも、このあまりにも気高い学会員の皆様方の戦いに、な
んとしても、お応えしていかねばならないと厳しく語り合った。
 ともあれ今こそ、全リーダーは、広宣流布の最前線の尊き同志を、全力で励
まそう。"声が仏事を為す"からである。
 あの思い出も深き、小さな市ケ谷の本陣は、今や、世界百八十六カ国・地域
地涌の大城へと広がった。妙法の決意は、創価の決意である。その不滅の決
意からは、無量の勝利と栄光の、拡大また拡大の炎が燃え広がっていくのだ。