329 忘れ得ぬ市ヶ谷の分室
「一人」の励ましから常勝の前進を
妙法とは幸福と勝利の大良薬
現在、私が、ゴルバチョフ元ソ連大統領と開始した新しい対談も、有意義に
進んでいる。
過日は、元大統領が総裁を務める財団の新しい建物にも、ご招待をいただい
た。
「小さな建物ですけれども、ぜひ、おいでください」
私は真心に感謝しつつ、申し上げた。
「建物ではなく、そこで戦う人間こそが拠点です。人間が偉大であれば、建
物の大小など関係ありません」
即座に、あの会心のゴルビー・スマイルが返ってきた。
◇
青葉が光っていた。
水面が光っていた。
街並みも光って見えた。
五月の太陽が輝く先日(二十二日)、聖教新聞社の首脳との協議を終え、外
堀通りを車で走り、市ケ谷周辺を回った。
市ケ谷を通るたびに、「懐かしい。懐かしい」と口に出る。ここは忘れ得ぬ
師弟の古戦場だ。戸田先生が、この拠点で指揮をとられた日々が、鮮やかに思
い出される。
昭和二十六年五月の末――戸田先生が第二代会長に就任されて間もなく、先
生が顧問を務め、二十三歳の私が若き営業部長として奮闘していた会社の事務
所は、市ケ谷駅の近くに移転した。
お堀端に立つ、三階建ての市ケ谷ビルの一室である。それまでは、同じ新宿
区内でも、レンズ製作の工場跡のわびしい事務所であっただけに、新天地での
新たな挑戦の開始に、若き胸は躍った。
当時の日記に綴っている。
「前進――なんと若々しい、未来を合んだ言葉であろうか。私は、生涯、名
実共に、使い、実践してゆこう。
前進――この言葉の中には、成長がある。希望がある。勇気がある。若さが
ある。正義がある」
◇
小さな小さな市ケ谷の事務所から、世界的な広がりのある創価の陣列をつく
るのだ!
嵐また嵐のなか、師弟不二の戸田先生と私の決意は、凛然としていた。
市ケ谷ビルの二階フロアに、私たちの会社の事務所があった。
この場所が「戸田大学」の教室ともなった。
毎朝、仕事を始める前に、戸田先生が個人教授で、大学教育でも及ばぬ万般
の知性の訓練をしてくださったのだ。
大事な職場である。私は日ごろ、ビルの内外でお会いする方々とも、青年ら
しく元気よく挨拶を交わした。人間の交流は、気持ちのよい挨拶から始まるか
らである。
ビルの前に、鉢植えの行商をする植木屋さんがよく見えていた。私は「いつ
も、ご苦労様です」と声をかけては、時折、花を買ったものだ。
職人気質のこの方も、最晩年まで、私との出会いを宝としてくださり、麗し
い交流の花が咲いた。
二軒先にあった市ケ谷食堂では、毎日のように食事をした。時には、お茶だ
け御馳走になり、慌ただしく失礼したが、食堂の方は母娘して大変に親切で、
温かかった。
その時、お世話になった食堂の娘さんから、昨年・嬉しいお便りをいただい
た。
学会の友人に誘われ、東京戸田記念講堂での会合に出席されたとのことであ
った。聖教新聞も、長年、購読してくださっている。
私は、亡くなられたお母様の追善をさせていただき、謹んで一首をお贈りし
た。
青春の
思い出 多き
市ケ谷の
日本一なる
食堂 懐かし
◇
「市ケ谷」という地名の由来には、古来、この一帯に市が立って「市買(い
ちがい)」と呼ばれる売買が行われたという説や、起伏に富む山手台地にあっ
て、第一の谷(一谷)があったという説などがある。
市ケ谷ビルには、聖教新聞の編集室も置かれた。
さらに、当時の学会本部は西神田にあったが、その本部の「分室」も、昭和
二十七年の四月から一年半、このビル内に併設された。いずれも二階の部屋で
ある。
分室は、わずか四、五坪の広さである。突き当たりの窓際に、戸田先生が座
る机とイスがあり、その前に七、八脚のイスが置かれていた。
ここで、先生は、毎日午後二時から四時過ぎまで、訪ねてくる会員の指導・
激励にあたられたのである。
市ケ谷ビル全体の受付をされていた女性が、今は三鷹にお住まいである。過
日、地元の婦人部のメンバーに当時の思い出を語ってくださった。
その方は、訪れる人の多さに目を見張ったという。
「創価学会は、どちらでしょうか……」。こう言って受付の前に現れる姿は、
どちらかというと、悩みを抱えて、傍目にも痛々しい感じの人が少なくなかっ
た。
しかし、受付の方がさらに驚いたことは、その同じ人たちが、帰途につく時
には別人のように笑みを浮かべ、生き生きと、ビルを後にしていったというの
である。
小さな病院の待合室よりも質素な部屋であったが、この分室こそ、まさに庶
民の"希望の港"となり、"蘇生のオアシス"となったのだ。
「人間にとって立派な友人の励ましほど/苦しみを癒す薬は他にない」とは、
古代ギリシャの詩人エウリピデスの名言である。
◇
わが師は、訪れた友に、気さくに語りかけられた。
「どうした?」
その温かい声と、眼鏡の奥に光る慈現に、同志は心から安堵し、率直に悩み
をぶつけるのが常であった。
悩みは、それこそ千差万別であった。
経済苦、仕事の苦境、病気、家庭不和、子どもの問題、人間関係の軋轢、自
分の進路や宿命のこと……生きるか死ぬか、せっぱ詰まった苦悩もあった。
「こんな自分でも、幸せになれるでしょうか?」
先生は、その必死の声を聞いては、わが事として同苦され、友の生命を揺さ
ぶり、偉大な信力・行力を奮い起こすように励まされた。
「大丈夫。この信心をして幸福にならないわけがない。心は王者でいきなさ
い。創価学会の名誉ある一員として誇りも高く生き抜きなさい」
目の前の一人を救えるかどうか―― 一回一回の指導が真剣勝負であった。そ
こには、「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦」(御書七五八
ページ)との大慈大悲の仰せが響き渡っていたのである。
大聖人の仏法は「現当二世」である。洋々たる現在と未来を開く「人間革命
の哲学」だ。
トルストイは言った。
「過古に於ける生活が、いかなる方向を向いていたにもせよ、現在に於ける
行為がそれを変え得る」
しかり。人は人生を変えられる。その究極が妙法という大良薬の力である。
御聖訓に「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さは(障)りをなす
べきや」(同一一二四ページ)と仰せの通りだ。
◇
分室に来る人のなかには、"幹部でありながら、こんなことで悩んで"と、
自分を苛んでいる人もいた。
先生は、真剣に生きようとする限り、悩みは当然だと、大きく包容された。
反対に、見栄っぱりで、悩める同志を見下すような者は、烈火のごとく叱ら
れた。悩んでこそ、人の苦しみがわかる。悩んでこそ、強くなる。
先生ご自身も、お子さんを亡くされた。事業の苦境も、何度も経験しておら
れる。
法華経の信仰ゆえに、二年間、牢獄にも入られた。
先生は、そうした幾多の辛酸をなめ、艱難を勝ち越えたからこそ、学会の会
長になったのだと述懐されていた。
かの文豪ユゴーが喝破したように、「大きな苦しみは、魂をとてつもなく大
きなものにする」のだ。なればこそ、勇気と希望を贈る、徹した励ましが大事
なのである。
この指導力は、我流ではつかない。どこまでも「御書根本」である。そして
広宣流布の組織のなかで行学に励み、錬磨していく以外にない。
◇
五十年前の昭和二十八年の十一月、西神田から信濃町に学会本部が移転する
と、戸田先生の個人指導の場も、市ケ谷分室から移った。
後年、市ケ谷ビルはなくなり、今は、ある音楽関係の会社のビルが立ってい
る。
分室のあった地域では、現在、新宿区の牛込正義本部の友が見事に活躍され
ている。
今、新宿の本陣家族をはじめ全国の同志が、真剣に聖教新聞の購読拡大に取
り組んでくださっている。
聖教首脳との協議でも、このあまりにも気高い学会員の皆様方の戦いに、な
んとしても、お応えしていかねばならないと厳しく語り合った。
ともあれ今こそ、全リーダーは、広宣流布の最前線の尊き同志を、全力で励
まそう。"声が仏事を為す"からである。
あの思い出も深き、小さな市ケ谷の本陣は、今や、世界百八十六カ国・地域
の地涌の大城へと広がった。妙法の決意は、創価の決意である。その不滅の決
意からは、無量の勝利と栄光の、拡大また拡大の炎が燃え広がっていくのだ。