連載第20回 信濃町の五五年

一九五三年、創価学会は新宿の信濃町に本部を移した。
戦前から学会と縁のある町を、誰よりも大切にしたのは、池田会長だった。



▼「大作、やっと本部ができたな」

◇オープンカーで新本部へ

 運転手は細心の注意を払って、ハンドルを握った。すでに晩秋だが、手のひらにべっとり汗がにじむ。
 東京の靖国通り。冷えた風がまともに顔に当たる。すれ違う通行人、対向車線の車の中から、けげんそうな視線を浴びる。
「ありゃ、何だい」
「何だろうねえ」
 赤信号で停まるたび、人が物見高そうに寄ってくる。
 珍しいオープンカーを運転していた。たしかに、オープンカーでなくては乗せきれない物品が後部座席にある。高さ二?半はあろうかという漆黒の厨子が、そそり立っていた。
 厨子を守るように、脇で手を添えている青年は、池田大作第一部隊長である。
 風に背広の裾をなびかせながら、先行車を見すえている。戸田城聖第二代会長が乗っていた。
 一九五三年(昭和二十八年)十一月十三日。よく晴れた金曜日の正午過ぎだった。
 西神田から九段下、市ヶ谷、四谷――。都心を西に抜けてきた二台の車は外苑東通りに差しかかった。四谷三丁目を左に折れると、グリーンとクリームのツートンカラーの都電が見えた。
 信濃町である。

             *

 この日、創価学会は本部機構を、それまでの東京・千代田区の西神田から新宿区信濃町に移転した。
創価学会常住」の御本尊と厨子も移された。晴れの日のために、池田部隊長がオープンカーを手配し、自ら乗り込んだ。
 車は信濃町駅の手前で、左に曲がり、慎重に停まった。信濃町三二番地。瀟洒な洋館の外門に 「創価学会本部」と真新しい看板が立っている。
 ベージュの外壁に開いた白い窓から、人々が首を伸ばしていた。「到着されたぞ!」。とたんに館内が、どよめいた。待ちに待った新本部の誕生である。
 二階に六六畳の大広間。すでに会員でぎっしり埋まっていた。
 遷座の儀式。正面に厨子を据えると、戸田会長が自ら常住御本尊を奉掲した。
 会長の挨拶は簡潔だった。
「この新しい本部は、君らみんなの手で守ってゆけ」

             *

 戸田会長の就任から二年半。学会の勢力は七万世帯になろうとしていたが、本部らしい本部はなかった。
 戦後まもない四五年十月、戸田会長は出版社「日本正学館」の事務所を西神田に構えた。
 以来八年間、その粗末な木造の二階を「本部」と呼んできた。間借りのようなものである。八畳の仏間と小部屋が二つ。七〇人も集まれば、階段にあふれた。
 ある意味、人は建物で判断する。当時を知る学会幹部。
「西神田の本部に友人を連れて行くと『なんだ、こんなところか』と笑われた。『どうして、これが日本一の宗教なんだ』とも言われた」
 ようやく信濃町に誕生した本部は、もとはイタリア大使館付武官の邸宅である。三五年の建築。内部に少し変わった細工があった。
 二階の一室。押し入れには階段が隠されていて、上ると屋根裏のような三階が現れた。
 一階の一番奥。クローゼットを開けると地下にもぐる階段があり、裏庭に通じていた。
 後に、三階は学会の出版物、地下は聖教新聞のバックナンバーの倉庫として使われた。
 この築一八年の邸宅と土地を買い取り、突貫工事で改装した。
 土地は二七五坪、建坪は二〇七坪である。

 西神田に比べると、夢のような新本部だった。
 誰よりも喜んだのは戸田会長だった。この日まで、苦楽を分かち合った弟子に語った。
「大作、やっと本部ができたな」

◇幻の建設計画

 学会本部の移転には“幻の計画”があった。
 一九五二年(昭和二十七年)六月、いったん学会本部建設が決まる。
 同年十二月、建設用地も購入された。信濃町二五番地、四二五坪。敷地に「宗教法人 創価学会本部 建設用地」の標識が立てられた。
 現在、創価世界青年会館が建つ番地である。ここに新本部が建設されるはずだった。
 しかし戸田会長は、翌五三年三月の幹部会で、一時延期を発表した。当時、学会が外護する関係にあった日蓮正宗宗門の復興を優先させるためである。
 前年、静岡県大石寺の「五重の塔」修復などのため一五〇万円を供養したが、さらに宗門から、末寺の整備費用を求められた。戸田会長は二〇〇万円の供養を追加した。

 支出の細目も残っている。
 ?本行寺(東京・墨田区。住職・阿部信雄。後の宗門管長)の拡張に一〇〇万円。
 ?常在寺(東京・豊島区。住職・細井精道。同じく管長)の庫裏建設に五〇万円。
 ?正継寺(神奈川・相模原市。学会寄進第一号の寺院)の建立に五〇万円。
 学会の財政規模は限られている。すでに用意してあった本部新築の資金から捻出するしかなかった。

 同年七月、決断した。
「学会本部は新築するのではなく、すでに出来ている建物を改造する。この方針で探そう。例の土地は売却しなさい」
 二カ月後、同じ信濃町に破格の物件があった。
 戸田会長は、さっそく検分した。
「ほう、いい建物じゃないか」
 イタリア大使館の武官が住んでいたという洋館をしげしげと眺めた。
信濃町か、場所もいい……」
 忘れがたい記憶があった。

▼危険を覚悟で権力と対峙した地。

◇監視下の布教

 ちょうど一〇年前のことである。
 一九四三年(昭和十八年)二月、戸田会長(当時・理事長)は、信濃町の駅で降りた。厚手の外套を着ていたが、戦時下の冬の寒気は、ひとしお厳しく感じられる。
 駅前広場を四谷寄りに渡ると、すぐ目的の家に達した。表札を確認する。「田中治之助」。扉を叩いた。
 長い廊下を抜けて庭に面した一室に案内された。
 田中治之助は、鴨居に鼻を当てるほどの長身をかがめ、目の前に座った。実業家として財をなしたが、知人に騙され、生活は逼迫していた。
 広い窓から、バランス良く配された庭木や石が見えるが、どこか荒れている。
 戸田会長は諄々と仏法を説いた。
 かつて田中は彫刻家ロダンと交流したほど華やいだ日々もあったが、今は落魄の身である。厚情が胸にしみる。妻と二人で入会を決意した。
「めでたい、めでたい」
 上機嫌で田中邸を後にした戸田会長だが、その背後には、監視の目が光っていた。
 当局は創価教育学会を徹底的にマークしていた。入会者が神札を焼却したことを「治安維持法違反並びに不敬罪」と見なし、幹部の一斉検挙を狙っていたのである。
 戸田会長は五カ月後に逮捕・投獄される。担当判事は「信濃町への布教活動」についても厳しく追及した。
 東京刑事地方裁判所(当時)による通告文には、田中邸での布教の経緯までもが詳細に記されている。
 信濃町は、身に迫る危険を覚悟の上で、軍部権力と対峙した地であった。

◇三代会長と信濃町

 戸田会長が信濃町に奇縁を感じる点は他にもあった。
 新本部の近くに、元首相・犬養毅の邸宅がある。牧口常三郎初代会長と親しい間柄だった。牧口会長が『創価教育学体系』を発刊した折、犬養が題辞の筆を染めている。
 さらに各界の名士が居を構えていた。
 文人では斎藤茂吉。政財界では、斎藤実(戦前の首相)、池田勇人(後の首相)、河田烈(戦前の大蔵大臣)、高碕達之助(実業家)。
 風光も明媚だ。
 晴れた日には富士が見える。東宮御所、旧赤坂離宮(現・迎賓館)、神宮外苑も近く、緑が多い。
「地の利」も申し分ない。
 当時は国鉄のほかに、都電の駅があった。北は四谷三丁目で分かれ、新宿、月島、両国へ。南は青山一丁目を経て、浜松町、品川、渋谷、神田須田町などに達していた。
 学会は今は小さい。だが、いずれ日本中から会員が集う。将来の交通の便を満たしている。残る問題は、格好の物件があるかどうかだった。
 かつて学会理事長を務めた和泉覚。生前、語っていた。
「本部を探すに当たって、戸田先生は池田先生に折々に指示なさっていた。私も探せ探せと言われたんですが、どうも不動産関係には暗くて、苦手で……」
 面目なさげに頭をつるりとなでた。
「結局は池田先生に全てお願いするかたちになってしまいました」
 別の古参幹部。
「当時、学会幹部の中で土地や建物の実務に明るいのは、池田先生だけだった」
 池田部隊長にとっても、信濃町は縁浅からぬ土地だった。香峯子夫人の両親が結婚直後の一時期、付近に住んだことがある。
 戸田会長は繰り返し語ったという。
「駅が近くて便利だ。大通りから一歩奥まった場所で値段も安い。いい場所だ」

◇理容店「松竹」

 理容店「松竹」は、開店して間もなかった。店主の松本竹雄が、自分の名前から取って屋号とした。
 店内は、椅子が五脚。シャンプー台が二つ。床は洒落たグリーンのタイル張りで、清潔感があった。
 外苑東通りに面していた。赤と青のサインポールにひかれ、客足は絶えない。
 ガラスのドアを押して、一人の紳士が入ってきた。
「こんにちは」
「らっしゃい!」
 客の髪を払い終えた、若い店員の坪井昭雄は、空いている椅子に導いた。
 最近よく来てくれる人だ。初対面から好意を抱いていた。
「どうです? 儲かっていますか」
 礼儀正しい。まだ十代の坪井。大人っぽく見えるように、蝶ネクタイで背伸びしていた。
 そんな自分を一人前に扱ってくれる。いい人だなあ。
 丁寧にハサミを入れる。黒々とした髪は真っすぐで硬い。入念にアイロンを当てた。
「いつも、お忙しそうですね」
「これから大阪に行くんですよ」
 ずいぶん、あちこちに出張しているようだ。なかでも大阪の話題が一番多い。
 清潔好きで、定期的に来てくれる。
 髪を整え、顔にクリームを塗る。日本カミソリで剃りながら、見るたびに「立派な顔だな」と感心する。
 一度、年齢を聞くと、逆に質問された。
「何歳に見える?」
「そうですね。四十歳くらいでしょうか」
 鏡に映った顔が大笑いした。二十六歳だという。
「ずいぶん貫録がありますね」
 昔なら“小僧さん”の年齢の坪井。それじゃあ、お小遣いにも困るでしょう。この日も、おつりは受け取らなかった。恐縮して頭を下げた。
「いつもありがとうございます!」

         *

 一九五六年(昭和三十一年)十二月、坪井は創価学会の知人に誘われ、東京・千駄ヶ谷東京体育館に足を運んだ。すごい熱気である。会場はビッシリと埋まっている。
 学会男子部の総会だという。やがて司会の声が響いた。
「次に、池田参謀室長!」
 演壇に進む人を見て、坪井は口の中で叫んだ。
「あれっ、あのお客さんだ!」
 凛々と話し始めた。
 創価学会の人だったのか。あんな立派な人が入っているのなら! 坪井は入会した。

             *

 戸田会長も「松竹」の常連客になった。本部から下駄履きで来る。どうも散髪は嫌いのようだ。いつも秘書に導かれ、いささか渋い表情でやってくる。
 それが池田室長の話になると途端に相好を崩す。
「彼はね、すごいよ。とっても頭がいいんだよ」
 坪井は広島県の出身。十歳になったばかりの夏、原爆で両親を一度に亡くした。
 五七年九月八日、戸田会長が横浜・三ッ沢の競技場で「原水爆禁止宣言」を行った。
 この日の朝も、戸田会長を散髪した。
「不思議なものですね。原爆孤児の私が、あの歴史的な宣言の日に会長の髪にあたったんですから」(坪井)
 晩年、体調を崩した戸田会長の白金の自宅まで髪を整えに行った。出張散髪である。
 最後は五八年二月中旬。すっかり健康を回復した様子だった。二階の布団の上ではなく、一階の応接室で散髪した。別れ際、優しく声をかけてくれた。
「四月に、また会いましょう」
 これが最後の別れになった。
 後に、戸田会長に店を紹介してくれたのは池田室長だと知った。
「戸田先生、本部の近くに、いい散髪屋さんがあります」
 散髪嫌いの師匠のために、実際に我が身で試し、腕の立つ店を探したのである。
 戸田会長の葬儀(同年四月二十日)の直前にも、池田室長は来店した。
 何十回と散髪したが、一度も居眠りをしたことがない。しかし、この日ばかりは疲労が滲み出ていた。
「これほどまで戸田先生のために……」
 静かにハサミを入れた。

大宅壮一の取材

 信濃町に移転したころ、本部の間近に不良の溜まり場があった。まだ終戦から八年。東京の街には、柄の悪い連中もたむろしていた。
創価学会のバーカ」
 本部に出入りする学会員をからかう。自転車のチェーンをブンブン振り回しながら、威嚇する男もいた。

 戸田会長はしばらく様子を見ていた。それを知ってか知らずか、相手は、ますます図に乗った。女子部員にまで悪態をつく。ついに堪忍袋の緒が切れた。
「私の大事な娘たちに何を言うか! 私が行く!」
 上履きのまま門を飛び出し、怒鳴り込もうとした。その腰に、池田室長がサッと飛びついた。
「先生! お待ちください。青年部が解決しますから」

              *

 本部のすぐ隣には、コンクリート二階建てのアパートがあった。在日韓国・朝鮮人の人々が居住していた。 戦前戦中の関係が尾を引き、互いに反目しあう空気が強い時代だった。
 事実、このアパートに暮らす人の中には、日本人から不当な差別を受けた人、苦しめられてきた人が多かった。
 それを池田室長は、近隣の友人として、厚く遇した。同じ町の仲間ではないか。道で会えば自分から挨拶し、礼を尽くした。
 一九五七年(昭和三十二年) 八月中旬、評論家の大宅壮一は、学会本部に戸田会長を訪ねた。
 創価学会を論じるためのインタビューである。
 玄関を入ってすぐ正面の「第一応接室」に通された。会長は、それまで自分がかけていた肘掛け椅子を大宅にすすめ、自らはくたびれたソファーに腰を下ろした。
 これまで「教祖」と呼ばれる宗教家とは何人も会ってきた。その百戦錬磨の大宅をもってしても、戸田会長は「ケタ外れ」だった。それまでの宗教家につきものの尊大さ、怪しさ、胡散臭さがない。
 生まれは同じ明治三十三年。すぐに打ち解けた。印象を綴っている。
「話しっぷりはザックバランで、教祖らしい気どったところはどこにもない。話をしているうちに、彼はソファーにあぐらをかき、片方の足を膝の上にのせている。まるで縁台将棋でもやりそうなかっこうである」(『婦人公論』五七年十月号)
 側に青年が控えていた。
 これも訓練なのか。三十歳前後の青年が数人、やや距離を置いたところで黙って耳を澄ましている。男子部の「参謀」だという。精悍な顔立ちをしているが、特に「参謀室長」と名乗る青年が際立っていた。
 一人一人の職業などを詳しく聞いた。しっかりした受け答えである。
 それにしても平日の昼間に、なぜこんな「いい若いもの」がそろっているのか。
 盆休みのころとはいえ、やや不思議に思った。

        *

 これには理由がある。
 新本部ができると、池田室長は提案した。
「何かあったとき、即座に戸田先生のもとに集まる態勢を作ろう。我々は直弟子だ。いざという時に馳せ参じられないと意味がない」
 確かに。青年部の幹部たちは痛感した。新しい本部ができて無邪気に喜んでいたが、本当に大切なのは、建物ではなく、その中身だ。精神性だ。根本の点を池田室長は鋭く突いた。
 いつ、誰が、どんな時に集まれるのか。室長を中心に綿密に検討し、連絡網を作った。
 戸田会長が本部でマスコミのインタビューを受ける。新聞に学会を中傷する記事が載る……。一朝ことあるごとに室長は本部へ飛んだ。

◇市ヶ谷の「戸田大学」

 市ヶ谷駅の北側には江戸城の外堀が残っている。
 堀の外郭に沿った外堀通り。草のまばらな土手のあたりを一匹の犬が歩いていた。白い中型の雑種犬である。
 くんくん鼻を鳴らしていたが、やがて目当てのビルを見つけたらしい。ドアの前で一吠えした。戸田会長が顧問を務める会社の事務所である。
 ドアが開いた。女性の職員がかがみ込み「まあ、シロじゃない。どうしたの!」と抱きかかえた。
「ほう。シロが市ヶ谷に行ったか。すまないが、連れ戻してくれ」
 本部で連絡を受けた戸田会長は、愉快な声をあげた。

 いつのまにか迷いこんできた犬である。青年部では、近所迷惑になるから捨てちゃおうかという声もあったが、戸田会長が本部の裏庭で飼うことにした。裏庭には小さな池を囲んで若干の空き地があり、そこに犬小屋を作って飼った。このシロが戸田会長を慕ってか、信濃町を抜け出して市ヶ谷に行った。
 まだ西神田に本部があったころから、市ヶ谷ビルの二階に、戸田会長は部屋を借りていた。会社の事務所。聖教新聞の編集室。本部の「分室」。三部屋を使い分けていた。
 分室は、わずか四〜五坪。ここで会長は、毎日午後二時から四時過ぎまで、会員の面談指導にあたった。
 新本部ができると、分室と編集室の機能も信濃町に移った。市ヶ谷には会社だけが残った。
 電車で二駅。会長はまず市ヶ谷に出勤し、昼から信濃町に移動する。池田室長は市ヶ谷の会社で働いていた。
 二人は毎朝、職場で会った。

              *

▼「師匠には、このように仕えるのか」

「市ヶ谷食堂」の娘・大久保悦子は午前中の慌ただしい時間を終え、ようやく一息ついた。
「そろそろ来るころかな」
 七〇席もある食堂だが、印象に残る客が一人。隣の市ヶ谷ビルが職場のようだ。
 思っていた矢先、その青年が三〜四人の同僚と連れ立って元気よく入って来た。
「おはようございます」
 すぐ正面のテーブルに座った。青年を中心にテキパキと何やら打ち合わせをしている。食事はせず、お茶だけの時もあった。
 白鳥マツは一九五一年(昭和二十六年)から二年半、市ヶ谷食堂で働いた。同じ青年をよく覚えている。
 明るい。従業員一人一人に、気さくに話しかける。ある日、食事を運ぶと、板海苔を見て言った。

「マツさん、海苔を食べると頭が良くなるんだよ。たくさん食べたほうがいいよ」
 白鳥は五七年、山形県に越した。そこで友人に勧められ、学会に入会した。機関誌『大白蓮華』を開くと、一枚の写真に釘付けになった。
 青年の凛々しい横顔。食堂に来ていた、あの人ではないか。
 戸田会長は市ヶ谷の職場で毎朝、池田室長に学問万般の講義をした。
 始業前の午前八時半から数十分。後年「戸田大学」と呼ばれる個人教授である。
 他の社員も受講を許されたが、あくまでも池田室長一人が講義の対象だったという。
 当時の社員、吉田顕之助。
「私たちは、いわば歴史の証人として同席を許されたのではないでしょうか。
 同じ講義を聞いても、池田先生は受け止め方が違う。講義の後、時間を見つけて隣の食堂で話をしてもらい、ようやく分かる有様でした」
 講義の後、隣の食堂で話をしてもらった――食堂の大久保悦子が仕事の打ち合わせと思い込んだ場面である。実は戸田大学の“復習”だったのである。
 のみならず。
「戸田先生は仕事に厳しかった。職場では学会活動の話は厳禁です。
 食堂でのひとときは、池田先生を中心に忌憚なく活動の話ができる貴重な時間だった。先生は食事を済ましていても、付き合ってくださった」(吉田)
 当時を知る山浦千鶴子。
「当時の学会は、戸田先生を中心に家族的な雰囲気でした。それを一部の古い幹部は勘違いし、甘えていた。
 池田先生だけは、戸田先生に対する姿勢が根本的に違いました。真剣そのもの。何を言われても間髪入れず、ハッキリと『分かりました』『承知しました』『そのようにいたします』。この三つです。これが師匠に仕える姿勢というものかと教えていただきました」

◇町と共に栄える

 一九六〇年 (昭和三十五年)五月三日、池田第三代会長が誕生した。
 真っ先に向かったのは、本部近隣の挨拶回りである。当時、通産大臣だった池田勇人邸の門も叩いた。
 先方も大いに喜び「日本のために“信濃町の二人の池田”で頑張りましょう」と語った逸話は有名である。

              *

 同年、八矢弓子は本部職員になった。出勤早々、会長から指導を受けた。決して特別なことではない。
 近隣を大切にすること。きちんと挨拶すること。この二点である。
「本部で行事があるときは、前もって、近隣にお知らせしなさい。『全国から大勢来ます。お騒がせいたします』と挨拶しなさい」
 出前を取ると「美味しかったですと、お礼をしながら器を返しなさい」。
 遠い店で物品を購入すると諭された。
「同じ買い物なら、地元で買おう。共存共栄だよ。私たちは地域と一緒に栄えなければならない」
 歴史のある“お屋敷町”で、学会は新参者だった。会の名前を名乗って領収書をもらうにも「ソウカガッカイ? どういう字を書くんですか」と問い返された。
 最初は、そっけない店もあったが、次第に認識されるようになった。

              *

 会長自身が率先して信濃町を回った。外苑東通りに沿って、小さな商店が並んでいた。
 中華料理の「美華」。戸田会長の時代から、よく出前を取った。
「こんにちは」「いつもお世話になっています」「何が売れていますか」
 洋品店、酒屋、魚屋、金物屋、薬局店、クリーニング店……。店の人と目が合うと、深く頭を下げる。
「松井パン店」。あんパンや即席麺をどっさり買って「警備の役員に差しあげよう」。ポケットマネーをはたく。
 紳士用品の「マスミテーラー」。ワイシャツや靴下を買い求め、青年への激励品にした。
 お茶の「岩田園(現・静茶園)」。ここはよく香峯子夫人と連れ立って訪れた。店内で一服することもあった。
 通りを慶応病院側に渡ると、生花店「花喜太本店」があった。ある日、何人かともなって会長が店先に立った。
「ごめんください。創価学会の池田でございます。このイスに座ってもいいですか。少し休ませてください」
 突然の来店に、経営者の田口裕弘夫妻は慌てた。
「ご主人は何歳になられたの?」
 こまごまと店や花のことを聞く。自然や花が好きな人だな、と感じた。鉢植えをたくさん買ってくれた。
 その後も、海外の土産や、車中から店を撮った写真が届くこともあった。あれだけ日本と海外を動き続けながら、信濃町を思う心に打たれた。

◇恩師を偲ぶ会長室

 あれほど広いと思っていた本部の建物だったが、学会の発展とともに、急速に手狭になっていった。建て直しは必至である。
 関連の施設も必要だ。信濃町は道路の幅も狭く、何かと制約がある。まとまった土地は取得しにくい。当然、他地域への移転も考えられた。
 ところが池田会長は信濃町から離れなかった。
 戸田会長は「信濃町というのは、信心が濃い町だからなあ」とも口にしていた。それほど師の心にかなった場所だからである。同じ場所に新本部の建設を決断。一九六三年(昭和三十八年)九月一日、現在の学会本部が落成した。
 池田会長は指示した。
「私の部屋は一番小さく、質素にしてもらいたい」
 一二畳。旧本部で戸田会長が使用した部屋と同等の広さ。位置さえも、ほぼ同じである。
 旧本部時代。戸田会長は 「第二会長室」を使用し、それより立派な一五畳の洋室「第一会長室」を「牧口記念室」として恩師を偲んでいた。
 池田会長も同じ精神だった。
 会長は六六年九月十二日、大田区の小林町から転居した。以来四一年間、信濃町の住民である。

◇商店会長との懇談

 一九八四年(昭和五十九年)の元日。五十嵐規敞は背広をカチッと着込み、聖教新聞本社に向かった。
 五十嵐は寿司屋の大将である。
 明治時代から続く「甲州屋」の暖簾を守ってきた。チャキチャキの江戸っ子で、曲がったことが大嫌い。前年、信濃町商店振興会の会長になった。
 この日、新年の挨拶に池田会長と会うことになった。商店会の役員ら五人も一緒だ。
 商店会長に就いて真っ先に考えたのは、学会との“共存共栄”だった。異論もあった。そこまでして学会さんと積極的に付き合う必要があるのか。
 五十嵐は反論した。
「会長のリーダーシップは大したものだ。あの若さで世界的な教団をつくった。これからの信濃町は学会を抜きには考えられない。一緒にやっていこう」
 一度、会長と町のことを話し合えれば……。年来の願いが実現したのである。

         *

 池田会長は話が早い。
「地域が大切です。学会も全力を尽くしたい。困ったことや要望があれば、何でも言ってください」
 ならば、お願いしたいことがある。後日、学会本部に申し出た。
「商店会の総会を、学会本部の食堂でさせてもらえないか」
 ほかに会場がないわけではない。商店会のメンバーに、もっと学会を知ってもらいたいからだ。
 総会は大成功だった。垣根がグンと低くなった。

      *

 すべてが順調だったわけではない。学会の評判を落とす幹部もいた。
 たとえば原島某。いかにも“学会のお陰で潤っているんだろう”という態度を、ひけらかす。暖簾をしまった店に深夜、横柄に出前を言いつけた。
「変な人。とっくに脱会したそうですね。悪い人は学会にいられないな」とは町の声である。

◇ふるさと盆踊り大会

 当時、毎年六月になると、町は二分された。
 隣町の須賀神社で祭りがある。
 古くは「江戸の五大祭り」の一つと言われ、信濃町で最大の行事であった。しかし、学会員は祭りに参加してくれない。そこが地元住民には理解できない。
 当時は、宗門が「祭りは謗法」と決めつけ、学会員は足を運べなかった。要するに供養が他に流れることを嫌ったと考えれば分かりやすい。
 今日では、むしろ地域の親睦をはかる機会の一つともされている。

 商店会の五十嵐たちは知恵をしぼった。何か妙案はないか……。
「まてよ。盆踊りならどうか。昔は信濃町にもあった。あれを復活すれば一緒にできるじゃないか」
 聖教新聞本社に前庭がある。輪になって踊るには、ちょうどいい広さだ。ここを借りよう。
 商店会の要望を受け、学会首脳が検討した。だが慎重論が多い。
「一度提供したら、ずっと貸さないといけない。こちらの都合で、今年は貸せません、とは言えない」
 結論保留。時間だけが過ぎていく。商店会のメンバーが、思いあぐねたころだった。

        *

▼「私も信濃町の住民の一人だ」


「いらっしゃいませ!」
 コーヒー店「壹番館」のドアが開く。池田会長が焦茶色の床を踏みしめ、店長の松本洋に、軽く手を挙げたのは、一九八五年(昭和六十年)、梅雨時の昼下がりだった。
 いつもは奥のテーブル席で会員と懇談するが、この日は珍しくレジ脇のカウンター席に腰を下ろした。
 サイフォンでコーヒーを淹れる松本と向かい合う形になった。
 めったにないチャンスだ。学会員の松本は当時、商店会の副会長だった。
「先生、実はご相談したいことがあります……」
 よく磨かれた一枚板のカウンターに、ホットコーヒーを出しながら切り出した。
「今、商店会では盆踊りをやろうとしています。聖教新聞社の前庭を使わせていただきたいのですが……」
「いい話じゃないか。私も信濃町の住民の一人だ。協力します」
 松本は、肩の荷が下りる思いがした。会長がたたみかけた。
「もし実現したら、屋台が必要だな。子どもたちが遊べる『ちびっ子広場』。景品を用意して、最後に抽選会をやったらどうだい」
 話が広がる。
「私も、できるだけ応援するから」
 その後、学会首脳の意向も近隣友好の優先に傾き、盆踊りは一気に具体化へ動いた。

             *

 古田功は、屋台のビールをぐいっと飲み干してから、やぐらの上に立った。
 軽快な太鼓の音が響いている。
 鉢巻をキリッと巻く。クリーニング店主から盆踊りの名物司会者の顔に変わった。
 毎年、やぐらの上から見ると、人の動きがよく分かる。懐かしい顔もある。あれは信濃町から越していった人たちだな。信濃町の駅長が、夏の白い制服姿で焼きそばを焼いている。
 踊りの輪が三重、四重、五重と広がり、最後は一面真っ黒になる。多い日は、二〇〇〇人近い人出になる。
 池田会長は「自分が行くと、気をつかわせてしまうから」と近くで見守る。香峯子夫人が来場したこともあった。
 信濃町の夏の風物詩は、今年で二三回を数える。
「盆踊り 信濃の町は 世界一」
 商店会の前会長・鈴木重文は、池田会長の句を、いつも懐に入れている。

◇週刊誌への怒り

 時折、信濃町をぶらつく者がいる。忍ばせたカメラのシャッターを切り、そそくさと立ち去る。数週間後、週刊誌に記事が載る。
信濃町創価学会村”云々。
 信濃町の人は、どう思っているのか。取材してみた。
 たとえば名物の盆踊り。ある時、写真週刊誌が“閑散としている”と書き立てた。
 二〇年以上、司会を務める古田は笑う。
「わざと始まってすぐの時間に撮っていた。まだまだ人が少なくて当然だ。『ああ、こういうやり方をするんだな』と、よく分かりましたよ」
 どこで調べたのか、町会や商店会の役員に電話をかけてくる。身元を名乗らず、地域のことを探る。切る前に、ようやく雑誌社の名を告げる。とにかく礼儀を知らぬ。
「学会をバカにするつもりだろうが、それは信濃町をバカにすることだ」
「要するに信濃町と学会の絆を裂きたい。やればやるほど地元の反感を買うだけ」
 住民の声は厳しい。

◇本部の門を閉ざすな

 ゴールデンウイーク。
 今年も信濃町は、学会員でにぎわった。期間中に約一〇万人。
 近年は、休日や学会の記念日のたびに全国から会員がやって来る。
 この人の流れが生まれたのは「第一次宗門事件」がきっかけだった。
 池田会長は一九七九年(昭和五十四年)に第三代の会長を勇退。名誉会長となった。宗門は、会合で指導するな、聖教新聞にも出るな、と要求した。
 会員は会合に出ても、聖教新聞を読んでも、動向が分からない。
 だったら、我々が学会本部に行こうじゃないか。誰からともなく、信濃町への流れができた。もちろん会えるとは思わない。本部にいるかどうかも分からない。それでも、何か分かるのではないか……。
 当時、事務総長だった原田稔(現・会長)は語る。
「そのころは、本部に来られた会員を迎える態勢が、ほとんどなかった。考える幹部もいなかった。池田先生に厳しく指導されました。
『休みの日に、学会員が来てくださっているのに、本部が門を閉ざしているなど、もってのほかだ。官僚主義だ。本部の幹部、職員は総出で迎えるのが当然ではないか』
 それから今日のように一年三六五日、会員に来ていただける本部になった」
 皮肉なものである。宗門の意図は、正反対の結果を生んだ。

◇あの日から五五年

 静かな屋敷町だった信濃町
 駅前に立つと、葬儀社の看板と大学病院が目についた。そこにやってきた宗教団体。老、病、死、なんとなく負のイメージに引きずられる人もいた。
 その信濃町が、これほど発展するとは。
 福島歳雄は、しみじみ思う。
「学会員は見違えるようだ。さっそうとした足取り、目の輝き、服装……」
 隣町の新宿区大京町に住んで六〇年。同町会長、四谷地区町会の連合会長等を歴任した。
 旧本部ができたころ、学会員は一目で分かった。服装が粗末で、男性はズボンの折り目がなく、両膝が丸まっていた。
「学会が世界に貢献することは、私たちの誇り。共に栄えていきたい」(福島)
 隣町・左門町で五一年間、不動産業を営む寺田澄子。
「学会は、どんどん良くなってきた。信濃町も綺麗な街並みになったじゃないですか」
 生花店「花喜太本店」の田口夫妻は現在、東京・世田谷区に住んでいる。
「引っ越して一〇年以上たちますが、いまだに当時の人と話すんです。
『やっぱり信濃町は良かったね。あんな、いい町はないね』
 店があった一帯は、民主音楽協会のセンターが建ちました。世界的な文化の発信地になって嬉しい」 二〇〇四年(平成十六年)八月には、信濃町に地上七階、地下二階建ての「創価学会本部別館」がオープンした。
 池田部隊長がオープンカーで信濃町に来てから、五五回目の秋を迎える。

          (文中敬称略)

   「池田大作の軌跡」編纂委員会