全国最高協議会 上

◆◆◆「一人が宝」「庶民こそ王者」

◆堂々と「三類の強敵」を打ち破った学会

◆◆「悪口罵詈」「猶多怨嫉」と法華経
              迫害は「正義」の誉れ

 一、一番、偉い人とは、どんな人か。
 それは、人々の幸福のために行動する人。正義の信念に生き抜く人。
 これこそ、わが尊き創価の同志である。宝の一人ひとりである。
 まじめな庶民が不幸に泣くような時代は、断じて変えねばならない。
 今は民主主義である。民衆が主人なのだ。いかなる権威の人間も、民衆に仕えるためにいる。それを逆さまにするな――この一点を、戸田先生は厳しく教えられた。
 どこまでも「一人」を大事にする。そこから広宣流布は始まる。
 「一人」を励まし、温かく包容する。悩みに耳を傾け、ともに勝利へ立ち上がっていく
のだ。
 誠実な声、確信の声が、大きな力になる。
 声は、ただである。空気も、ただである。祈りも、ただである。ただであるけれども、一番大事で、一番強く、一番の生命の根本である。
 御書に「声仏事を為す」(708ページ)と仰せの通り、リーダーは声を借しまず語り抜くことだ。皆を心からねぎらい、讃え、喜びと希望を贈っていきたい。

■行動こそ人生

 一、私が青春時代から愛誦(あいしょう)してきた詩人の一人に、18世紀ドイツのノヴァーリスがいる。
 ロマン主義運動の先駆者として生き抜き、戦い抜いた彼は、誇りも高く、こう叫んだ。
 「わたしたちには、行動が人生だ」(青木誠之・池田信雄・大友進・藤田総平訳)
 私は、この言葉が大好きであった。
 われらの最大の誉れも、この「行動」にある。日蓮仏法の真髄は、「行躰即信心」である
からだ。
 暴虐なナチスに立ち向かった、ドイツの勇敢なる劇作家、ブレヒトは言った。
 「なかまを見棄てておくならきみは/じぶんを見棄てることになるのだ」(野村修訳)
 「人間の絆」が根底から揺らぎ、崩れつつある現代社会にあって、我ら創価の世界は、なんと麗(うるわ)しい信頼で結ばれていることか。
 今年も、「激戦の地の友を守らずにおくものか!」と、各方面の同志が一つとなり、全国が「異体同心」で力を合わせて戦った。いな、戦い抜いた。
 だからこそ、すべてを勝ち抜くことができたのである。
 「一つにまとまったものが、たとえ少なりとも勝つのだ」とは、戸田先生がよく言われた、大切な指導の一つであった。

■我らは真の友情

 一、古代ギリシャの大哲人プラトンは、こうつづっている。
 「善き人だけが善き人だけと友になるので、悪しき人は善き人とも悪しき人とも、けっして真の友情を結ぶことはない」(生島幹三訳)
 我らの善良なる友情と団結には、悪人は絶対に入り込むことはできない。だからこそ、妬ましくて、しかたがないのである。
 我らは、広宣流布のために、一生涯、戦う同志だ! 
 戦う家族だ! 
 戦う兄弟だ! 
 戦う人間だ! 
 戦う使命だ! 
 戦う連帯だ! 
 戦う陣営だ! 
 戦う牙城だ! 
 ここに、あらためて、「この1年間の大闘争、本当にご苦労さま!」と申し上げたい。また、「本当にありがとう!」と申し上げたい。
 かえすがえす、この「栄光・大勝の年」の勝利は大きかった。
 史上最高の金字塔を打ち立てた。10年にも匹敵する歴史を刻んだ。創価学会の偉大な
命運を大きく決定する1年となった。
 よくぞ戦い、よくぞ勝ってくださった。
 あらゆる著名人や知人の方々からの賞讃も、今度ほど多くあったことはない。皆さま方も、よく感じておられることと思う。
 全同志のご健闘を、私は心から讃嘆し、感謝申し上げたい。
 明年もまた、大勝利しよう! (大拍手)

 一、青年部が成長してきた。私はうれしい。
 仏道修行でしか、永遠の功徳は積めない。
 決して気取らないで、懸命に広布に生き抜くことだ。その人が、人生の最終章に光り輝く。
 大きい人間、強い人間になるのだ。巌窟王(がんくつおう)のごとく。
 国家主義と戦い、投獄されても屈しなかった、戸田先生の言葉が、私の胸に刻まれている。
 「正義のために戦い、もしか牢獄に入ったら、『いつ出られるか』と弱気になって悩んでも、しかたがない。『一生、入っているんだ!』。こう決意を固めろ」と。
 本当に偉大な先生であった。
 一事が万事である。断固たる決意が道を開く。
 妙法を持った人間が、断じて不幸になるわけがない! 
 最後は正義が勝つに決まっている! 
 そう心に決めて、強く強く進むことである。

■悪逆(あくぎゃく)の坊主が権力と結託(けったく)

 一、日蓮大聖人は、門下の松野殿への御手紙に、こう仰せである。
 「法華経の第五の巻(の勧持品)には、『私(釈迦仏)の滅後の末法に入って、法華経の行者が現れるであろう。その時、その国に、戒を持った僧、戒を破った僧など、無数の僧たちが集まって、国主に讒言(ざんげん)して、法華経の行者を流罪にし、亡き者にしようとする』と説かれています。こうした経文がことごとく、日蓮の身に符合しました。未来に仏になることは疑いないと確信しています」(御書1389ページ、通解)

 この御聖訓には、法華経を身読された大聖人御自身の闘争を通して、末法における大難の構図が明確に示されている。
 つまり大難は、悪逆の「坊主」によって引き起こされる。
 事実無根の「讒言(ざんげん=ウソの告げ口)」が用いられる。
 さらに、卑劣な「権力」との結託がある。
 そして、大難を乗り越えることによって、必ず「成仏」が決定づけられるのである。
 この仏法の定理は、法華経に明確に示され、御書に繰り返し説かれている通りだ。
 たとえば「撰時抄」には、こう仰せである。
 「正法の強敵というのは、悪王や悪臣よりも、外道や魔王よりも、また破戒の僧侶よりも、戒律を持ち智者といわれる高僧の中に大謗法の人がいるのである」(同292ページ、通解)

 「瑞相御書」には、「かの悪僧らが、正法の人を流罪・死罪に行い」(同1142ページ、通解)と。

 「行敏訴状御会通(ぎょうびんそじょうごえつう)」には、「三種、六種の神通力をもった聖者のようにみえる僧侶たちが、わが正法を滅ぼし失わせるのである」(同182ページ、通解)。

 さらに、門下の四条金吾の冤罪(えんざい)を晴らすため、大聖人が代筆された「頼基陳状(よりもとちんじょう)」には、「良観房の讒言の訴えによって、釈迦如来の御使いである日蓮聖人を流罪に処したてまつり」(同1162ページ、通解)と、記されている。

 一、創価学会は、大聖人の仰せの通りに広宣流布を成し遂げゆく、仏意仏勅の、尊貴にして和合の団体である。
 だからこそ、創立60周年(1990年)を大きな節目として、法華経に説かれ、御書に示された通りの迫害を受けた。そして堂々と勝ち越えてきたのである。
 「悪口罵詈(あっくめり)」「猶多怨嫉(ゆたおんしつ)」そして「三類の強敵(ごうてき)」が出来(しゅったい)することは、「法華経の行者」の条件である。証明である。
 〈法華経法師(ほっし)品に、「如来現在 猶多怨嫉。況滅度後(きょうめつどご)」と、末法法華経の行者が釈尊以上の怨嫉を受けることが説かれている。勧持品には、「悪口罵詈」等を加える俗衆(ぞくしゅう)増上慢をはじめ、「三類の強敵」が、末法法華経の行者を迫害すると予言されている〉

 その方程式に、わが創価学会が符合していることを、誇りとしていくべきだ。
 「行者」とは、その大法難と勇敢に戦い、正法を実践していく人のことである。
 勇敢なる正義の行者とはまた、勇敢なる「求道者」なのである。

◆◆【文化否定の日顕宗は衰亡】

◆轟け『歓喜の詩』!! 

■広布の大発展は学会あればこそ

 一、先日の本部幹部会でも申し上げたが、この11月で、邪宗門から学会に「破門通告書」(28日付)なる文書が送りつけられて、12年を迎える。新しい青年部の友も増えており、ここで、この法難の経緯を、重ねて振り返っておきたい。

 それは、1990年(平成2年)の3月のことであった。
 宗門は、学会に事前の相談もなしに、一方的に、冥加料(みょうがりょう)の値上げを
通告してきた。
 「御本尊の下付」が1.5倍。「塔婆供養」「永代(えいたい)回向」が2倍。
 一般社会の常識では、到底、通用しない横暴である。今、思えば、宗門が、いよいよその貪欲(どんよく)の性根をむき出しにする前兆であった。
 私が願主となって、総一坊(88年)に続いて総二坊が立派に完成したのは、その翌月の4月のことである。
 90年の1年間だけでも、学会は、総二坊のほか、8カ寺を建立した。
 ちなみに、学会が寄進してきた寺は、これまで356カ寺にのぼる。そのうち、私が会長に就任してからは、320カ寺である。
 さらにまた、7000万人におよぶ登山会を行い、正本堂、大客殿の建立をはじめ、大石寺の整備に総力をあげてきたことは、いうまでもない。
 皆さま方も、ご存じの通りだ。
 大石寺の敷地は、戦後の農地改革で、5万1000余坪に激減していた。それが、学会の外護によって、100万坪以上に広がり、未曽有の大発展を遂げたのである。
 だからこそ歴代の日昇(にっしょう)法主、日淳(にちじゅん)法主、日達(にったつ)法主の学会への感謝と讃嘆は、あまりにも深かった。
 とくに、この1990年は、大石寺の開創700年ということで、9月には慶祝の文化祭を地元・静岡の青年部が中心となって盛大に行った。
 青年たちが真心の準備に尊い汗を流している、そのさなかに、日顕らは、文京区西片(にしかた)にある大石寺の東京出張所(7月16日)や、本山の大書院(7月18日)で、いわゆる「C作戦」と呼ばれる学会破壊の謀議を重ねていたのである。
 それは、「無尽(むじん)の秘計をめぐらして日蓮をあだむ」(同1120ページ)、「法華経行者の跡を削り謀案を構えて種種の不実を申し付くる」(同853ページ)等の御文さながらの、広宣流布を阻む陰謀であり、謀略であった。
 秋谷会長に対して、日顕が「キョウ(★リッシンベン+喬)慢謗法だ!」と怒鳴りつけたのは、本山での謀議の3日後の7月21日のことである。まことに一宗の管長にあるまじき、ぶざまな狂態(きょうたい)であった。

■二枚舌の謀略
 一、そして、この年も押し詰まった12月、宗門は突然、学会に「お尋ね」なる文書を突きつけてきた。
 人類普遍の自由の讃歌であるベートーベンの“第九”(歓喜の歌)を歌うことを「外道礼讃(げどうらいさん)」と決めつけるなど、すべてが不当このうえない言いがかりであった。
しかも、7日以内に回答せよとの強圧的な通告である。
 学会首脳が、その真意を尋ねようと、再三にわたり、対話の場を要請したにもかかわらず、宗門は、その一切を拒否した。
 さらに12月27日、わざわざ臨時宗会で宗規を変更して、私の法華講総講頭、秋谷会長らの大講頭職を罷免(ひめん)したのである。
 全国の学会員が、どれほど驚愕(きょうがく)したことか。
 本来、最も楽しかるべき、わが同志の年末年始が台無しにされた。
 私は、今、思い起こしても、胸が痛む。
 しかも、この折の、「大白蓮華」の新年号(平成3年)において、日顕は「新年の辞」で、学会の発展を讃えていたのである。
 〈日顕は、こう記していた。
 「特に、池田先生の指揮において大書すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。
 今日、地球的規模による広布の着々たる進展がみられることは、撰時抄の御金言のごとく、実に広布史上すばらしいことと思います」〉

 仏法で厳しく戒められている「両舌(りょうぜつ)」(二枚舌)であり、「自語相違」そのものであった。