021 おお 常勝の大関西城!〈上〉
―― 勝つために我らは戦う! ――
―― 生命に「幸福」と「功徳」の大勲章 ――
「前進、前進!」
ロシアの作家ゴーゴリが最も大切にした、青年への激励の言葉であった。
関西と聞くと、私の胸は、激しく燃え上がる。闘魂は怒濤となって駆け巡る。
関西には、猛然と戦う真の弟子がいるからだ。
いかなる激戦にも、戦って、戦って、必ず勝ってくれる弟子がいる!
私と関西の生命は一つだ。私は常に関西と一緒である。
常勝! 常勝関西! それが師弟不二の師子の道であるからだ。
関西は、私が青春を捧げ、全身全霊で築いた、難攻不落の錦州城だ。
世界に厳たる、常勝不滅の民衆城である。
◇
昭和二十六年の五月三日、第二代会長に就任した戸田城聖先生は、若き弟子である私と、常に、広宣流布の前進と勝利への展望を語り合ってくださった。
そのなかで最も重要にして重大な構想の一つが、わが大関西の建設であった。
時が来り、それは、昭和三十年の十月のことであった。戸田先生は、“大阪の戦い”に、青年部の室長であった私を、総大将として派遣することを決断なされたのである。
その出発を前に、先生と二人して、“勝利のカギは勇気だ”と語り合ったことも懐かしい。
フランスの文豪ロマン・ロランも言っている。
「勇気なくしては、いっさいが空虚である」
ともあれ、未来は、そして永遠は、青年に託す以外に、絶対にない。
さらにまた、広宣流布の命運を決する大拠点は、関西である。
これが、戸田先生の結論であられた。
「大作、関西に行ってくれ!
関西がどうなるかで、広宣流布の五十年先、百年先の学会が決まってしまうからだ。
絶対に負けられぬ戦いだ。関西に広布の一大拠点を作ってくれ給え!
断じて、戸田自身のためにも、勝ってくれ!」
あまりにも私を信じてくださる師の厳命に、私は勇んで関西に飛んだ。
昭和三十一年の一月四日のことである。
◇
“大阪の戦い”は、誰もが絶対に無理だと後込(しりご)みする、文字通り、「不可能を可能にする」大闘争であった。
当時の大阪の中心者でさえ、最初から負けを覚悟で、「捨て石になります」「今度は駄目でも、勝つまで戦います」と口にしていた。
「全力はあげるが、無理をして負けて、社会から笑われるような学会にしたくないよ」という陰口もあった。
しかし、私には、「勝利」の二字しかなかった。
勝つために、断じて勝つために、私は関西に来たのだ!
「一個の人間に何ができるのか」
「一人の青年がどこまでできるか」
私は、前人未到の勝利の金字塔を打ち立て、人間の無限の可能性を示し残そうと、深く深く決意していた。
「真の弟子の道とは、かくあれ!」と、後世の青年たちに見せておきたかったのだ。
◇
歴史を変えた“関西革命”の発火点は、四十八年前の昭和三十一年。それは、四月の八日であった!
二万人の若き勇気に燃えた同志が、あの大阪球場に大集合したのである。
どしゃ降りの雨であった。豪雨に近い雨であった。
しかし、常勝を常に決意している関西の同志は、連合総会を大成功で飾った。
来賓の方々の、絶大なる関西魂に瞠目した賞讃の声が忘れられない。
「学会はすごい」
「学会は伸びる」
「学会には、誰も勝てない」
「これが、本当の人間錬磨の社会革命につながる陣列である」と。
私が交流を結んだ、ドイツの哲人政治家ワイツゼッカー元大統領は述べている。
「最も重要なことは、何と言っても、〈自分でやる〉ということの教育を受けることであって、受け身で生きるようになることではない」
関西の友には皆に、「自分でやる!」、そして「自分がやる!」という魂が光っている。
私は、この関西の大地で、死に物狂いで戦った。
いな、死ぬ気で戦った。
そして「戸田先生に喜んでもらえる仇討ちを!」と戦ったのだ。
皆が私と心を合わせて、一体となって奮闘してくださった。それはそれは、壮絶な結合体であった。
あの時の同志、そして、あの時の友情は、心の奥底まで染みわたって忘れることができない。
今でも、あの時の光景を、「人生最高の晴れ舞台」と、皆が誇り高く語り合っている。
今は亡くなった友もいる。病気の方もいる。老いて、人生の総仕上げの方々も多くいる。
共に戦った関西の同志の姿は、私の胸から、一生涯、決して離れない。
本当に生き抜いた人生!
真実の悔いなき人生!
人のため、平和のため、人びとの幸福のために、貢献した人生!
何と悔いなき立派な人生を生き抜いた方々であろうか!
多くの政治家たちのようにき国家より勲章はもらえないけれども、大聖人より三世永遠に光り輝く、不滅の「幸福」と「功徳」という勲章を拝受したのだ。
◇
その戦いは、学会の広宣流布の歴史を飾った関西の大法戦であった。
戸田城聖先生の会長就任五周年を祝う、昭和三十一年の五月のことである。
偉大なる大阪支部は、たったの一支部で、折伏弘教一万一千百十一世帯という、空前絶後の大勝利を飾ったのであった。
この時、二位の蒲田支部が約四千世帯、三位の小岩支部は約二千世帯の成果であった。なお、もう一つの関西勢である堺支部も、約千五百世帯と大健闘した。他の追随を許さぬ圧倒的な大拡大を、関西は成し遂げたのである。
そしてまた、その年の七月の参議院の選挙にあっても、一般紙が驚嘆し、「“まさか”が実現」などと大々的に報道する、関西の大勝利の金字塔を打ち立てたのであった。
日本中が動揺した。日本中が驚いた。学会に対する見方が、根本的に変わってきた。
その時、東京は全滅であった。
「大作、ありがとう! 大作、ありがとう!
東京は負けた。関西は勝ったな。
俺は嬉しいよ。これで、俺の人生の総仕上げが飾れたよ」
私と先生は抱き合う如く、関西の勝利を喜んだ。
側に静かに座っていた妻と、今は亡き白木義一郎夫妻が、涙をそっと拭っていた。
ここにも、私の思い出がある。師弟不二の一生の名誉があり、誇りがあるのだ。
2004年(平成16年)4月7日(水)掲載