028 栄光燦たる五月三日よ
創価の同志は勝ちに勝ちたり
二〇〇五年五月三日へ 君よ新たな勝負の劇を
異体同心で前進! また前進
我らは「広布の大誓願」に生き抜く
勝ちにけり
五月三日の
同志かな
おお、晴れやかな五月の三日よ!
威風堂々の凱旋の記念日よ!
希望の世界に船出しゆく記念日よ!
栄光燦たる五月の三日よ!
見よ! 全日本、全世界の偉大な菩薩たちの生き生きと躍動しゆく姿よ! 前進しゆく姿よ!
この明るい姿、邪悪を責め抜く勢い、仲良き団結こそ、我らの勝利と幸福だ。
前進、前進、また前進!
それこそが、我らの祝福の姿だ。
素晴らしき同志よ!
素晴らしき弟子たちよ!
勇敢なる皆様ありての創価の栄光であり、勝利である。
私は、全同志に、感涙をもって感謝申し上げたい。
◇
五月三日――この日には、創価学会の魂の炎がある。
昭和二十六年の五月三日。
我らの師である戸田城聖先生が、牧口初代会長の殉教から七年にして、第二代会長に決然と就任された記念日である。
快晴だった。私の心も澄み切った快晴であった。
この日、先生は、烈々たる口調で師子吼された。
「私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は、私の手で必ずいたします!」
広宣流布への大誓願である。当時の会員は三千人。驚天動地の目標でもあった。
しかし、私は、嬉しかった。五体に勇気があふれた。
広宣流布の大指導者であられる私の師匠が、いよいよ立たれたのだ!
我も断じて立つ!
真実の不二の弟子として、この大師匠の誓願を必ず実現してみせる!
五月三日は、大宗教革命に戦いゆく、若き我らの決意の日でもあった。
◇
それは、戸田先生の会長就任から二カ月余りが過ぎた、七月十一日のことである。
土砂降りの豪雨のなか、男子部の結成式が始まった。西神田の小さな古びた本部である。わずか百八十人ほどの出発であった。私も一班長として、参加していた。
その席で、先生は、皆が思いもよらぬ発言をなされたのである。
「今日、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現れるであろう。必ずや、私は、このなかにおられることを信ずるのであります。
その方に、私は深く最敬礼をしてお祝い申し上げたい」
そして、深々と頭を下げられたのである。皆が驚いた。唖然とした。
先生は、「広宣流布は戸田がやる」と断言されていた。しかし、それが、一代で終わるはずのない、壮大な聖業であることを、誰よりもご存じであった。
先生と不二の大誓願に奮い立つ青年なくして、広宣流布は成しえない。
第三代会長として立つのは、その青年以外にありえないことを、聡明な師は叫ばれたのである。
◇
三十二歳の私が第三代会長に就任したのは、昭和三十五年の五月三日であった。
晴れわたる記念のこの日、私は、二万人が集う日大講堂の壇上で青年らしく叫んだ。
「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮をとらせていただきます!」
明るく力強い万雷の拍手が、私を包んでくれた。
そして、折伏の大将軍であった戸田先生の弟子として、師が遺言された三百万世帯の実現を誓ったのである。
戸田先生は、生前、さらに私に言われた。
「一千万人が信心する時代がきたら、すごいことになるぞ。楽しみだな……」
その一千万という盤石な平和と人道の民衆連帯を、この日本に築くことを、私は生涯の誓いとしたのだ。
日蓮大聖人は、「大願とは法華弘通なり」(御書七三六ページ)と仰せである。
ともあれ、五月三日は、我らの「広宣流布の誓願」の日と決まったのである。
この日は、巡り来るたびに、創価の師弟が、広宣流布を誓う日となり、正義の戦闘開始の日となってきたのだ。それは永遠に!
◇
激戦に
また激戦を
勝ち越えて
五月三日の
輝く歴史は
今年の「大白蓮華」五月号から、私は新たに「開目抄講義」を開始した。
その「開目抄」の一節は、会長就任の時の私の決意であり、以来、片時も、わが胸を離れたことはない。
「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(同二三二ページ)
私は、いかなる大難にも断じて負けぬ魂を、我が師である戸田会長から鍛えられたという誇りを持っていた。
大偉業を成しゆくには、平坦な道など、どこにもない。使命の道を歩んでいくには、「忍耐」、そして「もっと忍耐」、さらに「もっと、もっと忍耐」であると語っていた、ある国の大統領の言葉を、私は思い出すのだ。
「諦め」の中には、「敗北」があり、「暗闇」がある。
「忍耐」の中には、「希望」があり、「勝利」がある。
見渡せば、峨々として連なる、峻険な尾根を登攀しゆく宿命の歳月であった。
第一の険しき尾根は、あの昭和四十五年である。
この会長就任十周年の五月三日は、日本国中からの集中攻撃を受けた「言論問題」の渦中にあった。
次の十年も、山に山を重ねる艱難の連続の日々であった。第一次宗門事件の嵐のなか、昭和五十四年五月三日を前に私は会長を“勇退”した。
翌五十五年も、私と学会への攻撃また攻撃が繰り返されていた時であった。
陰険極まりなき悪侶と結託した恩知らずの反逆者らが、釈尊を攻撃し、殺害しようとした提婆達多の如き正体を露にしたのだ。
その激戦のさなか、私は、常勝の都・関西の天地に走った。そして五月の三日、ここを本陣として、泥棒の如き邪悪を打ち破る壮絶なる決意を固めて、勝利のための戦闘を開始したのである。
ともあれ、このような大攻撃を受け、戦い抜いたがゆえに、わが創価学会は清浄なる正義と団結の大教団として、日本一の基盤を作り上げることができたのである。
さらに、日顕一派が広布破壊の魔性を現した、第二次宗門事件が惹起したのは、私の会長就任三十周年(一九九〇年)の時であった。
邪宗門が暗き密室で、正義の学会の破壊を謀議していた時、わが学会は広々と世界を呼吸し、人類の幸福のために、悠然とスクラムを組みながら、平和への大行進を拡大していたのである。
世界の識者と私との対話も、急速に広がっていった。
ゴルバチョフ氏(元ソ連大統領)や南アフリカのマンデラ氏(前大統領)と、初めてお会いしたのも、この年であった。
このように、会長就任から、ほぼ十年ごとに、大きな苦難の節目があった。
しかし、そのつど、学会は最高峰の「文化の団体」、唯一の「正法正義の教団」、そして「世界の宗教」として飛躍した。艱難の山を乗り越え、勝ち越え、連戦連勝の王者の教団となったのだ!
◇
学会が、なぜこれだけの難を乗り越え、勝利の歴史を築くことができたのか。
それは、御聖訓に説かれる通りの「異体同心」であったからだ。
大聖人は、「殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさ(軍)にま(負)けぬ、周の武王は八百人なれども異体同心なればか(勝)ちぬ」(同一四六三ページ)と仰せである。
これは、中国の古代・周王朝の有名な故事である。
当時、暴虐な支配者として民衆を苦しめていた殷の紂王に対して、断固、立ち上がったのが周の武王であった。
しかし、七十万の紂王の軍勢に対して、武王の軍は、最初は、八百人の諸侯しかいなかった。数では、圧倒的に不利な状態である。
では、武王は、いかにして、この劣勢を打ち破っていったのか。
それは、武王は戦いを起こすに当たり、敵の悪逆非道を鋭く突き、決起の大義を堂々と語り抜いた。そして、志を同じくするものを、大きく結合していったのである。
「人びとを苦しめる悪とは、徹して戦うのだ!」「今こそ立ち上がる時だ!」と。
この堂々たる宣言に呼応して、陣列は大きく広がった。見方によれば、それは、決戦の時には、何十万もの連帯になっていたと考えられる。
邪悪と戦う確信ある呼びかけに、人間は動く。正義に糾合されていくのだ。
この鉄則を持ってきたがゆえに、学会も世界的になったのである。
◇
私が第三代会長となった、あの四十四年前の五月三日、同じ日大講堂での祝賀会が終わり、私が退場しようとした時であった。
「それっ、胴上げだ!」
誰かの声が聞こえたと思った瞬間、青年たちが、「ワーッ」と大歓声を上げて、私に向かって突進してきた。
そして、あっという間に、私の体は無数の手に押されて、宙に舞いに舞っていた。
「万歳! 万歳! ……」
その歓喜の渦、そして歓喜の力、さらに歓喜の呼吸は、一生涯、忘れることはできないであろう。
共戦の同志なくして、広宣流布は絶対にできない。大事なのは、自分でなくして、同志なのである。
戸田先生は、「三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできる!」と、何度も教えられた。
その通りであった。
戸田先生が遺言された通りに、第三代の私と尊き我が同志とが、「異体同心」で戦ってきたからこそ、世界への広宣流布はできたのだ!
「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」(御書一四六三ページ)である。
指導者は、決して威張ってはならない。
後輩や、同志を、心から尊敬し、感謝していくことだ。そして、わが身を、同志たちのために、後輩たちのために尽くしきっていくことだ。
◇
今や、わがSGIの大連帯は、百八十八力国・地域に堂々と発展した。そして全世界の同志が、晴れやかに五月三日を祝福する時代となった。
いな、SGIの同志だけではない。たとえば南米・ブラジルでは、連邦区や州、数多くの市で、「5・3」を慶祝してくださっている。
「五月三日は、私たち市民に、精神の滋養を与えてくれる日でもあります。“平和とは内面から発する”との創価学会の根本思想を、社会は必要としているのです。
ゆえに、SGIのような平和勢力がますます発展しゆくことを念願しています」
ブラジルのパラナ州カンベー市の市長が語られた言葉である。
偉大なる母に感謝
さらにまた、五月三日は「創価学会母の日」でもある。
あの「言論問題」の前後、私は体調を崩していた。
また、会長の辞任後、大きな会合にも出られず、会員の方々に心配をおかけした。
見舞いのお手紙も、数多く頂戴した。今でも大切に保管してある。
同志の皆様の、ひたぶるな祈りと行動があったがゆえに、幾多の苦難に打ち勝つことができたのである。
大恩は、わが同志に、わが後輩にあるのだ。
なかでも、創価の母たちの健気な唱題こそ、一切の障魔を打ち破り、「五月三日」に栄光不滅の歴史を残す力となったのだ!
この偉大なる母たちの信力、行力を、崇高な祈りと行動を、私たちは最大に尊敬し、決して感謝の念を忘れてはならない。
母たちのこの健気な振る舞いを下に見たり、感謝がなくなった時に、信心は消える。仏法は破滅する。広宣流布は、何百年経ってもできない。皆が苦しむだけだ。
そのような魔性の人間がいたら、和合僧の学会から追い出すことだ。
これが牧口先生、戸田先生の叫びであった。
五月三日、万歳! 創価の母、幸福の母、万歳!
私は諸手を挙げて、力の限りに叫びたい。
◇
思えば、五十年前の昭和二十九年の五月三日は、私が青年部の室長になって迎えた、最初の五月三日であった。
私は、戸田先生がお元気なうちに、広宣流布の勝利の方程式を全部、築いていく決心であった。
そのためには、創価の青年たちが広布の全責任を担い立つことだ。そして、ありとあらゆる行動と実践で、一つ一つの戦いを、また行事を勝ち取っていくことを、体得することである。
ゆえに私は、先生のお心を生命に刻んで、猛然と戦いを起こした。
「5・3」の六日後には、豪雨を突いて青年部の五千人結集、その半年後には、倍増の一万人結集と、間断なき拡大と勝利の歴史を創り始めていったのである。
その一年間に勝負をかけ、完勝し、私は創価の永遠勝利の基盤を築き上げたのだ。
ドイツの大詩人ヘルダーリンの叫びを、私は忘れることができない。
苦難が「胸には勇気を精神には光をあたえる」と雄々しく歌った詩である。
労苦の汗が光る一日! なんと偉大にして尊きことか!
艱難に鍛えられた一日! なんと人間として勝利し、生きゆく価値を創造していることか!
自身の限界に挑みゆく青春の挑戦は、一日を一年に、また一年を何十年にも、黄金不滅に輝かせているのだ。
◇
さあ、次は、明二〇〇五年の五月三日だ。
我らの勝利と完勝のため、新しき劇の幕は切って落とされた!
「この一年が堂々たる未来を決する勝負」と思い立つ人は、偉大なる福徳に包まれてゆくことであろう。
「この一年が広宣流布の万年の大道を開く」と決意して行動する人は、無限の功徳と無量の幸福を浴びる人である。
今日も、そして明日も、広宣流布のために、新たなる決意みなぎる戦いを開始しゆく、人間として最高最極の誇り高き創価の同志たちよ!
断じて勝て!
断じて勝つのだ!
「創価」とは、人間の平和と幸福と勝利の誉れの称号であるからだ。
栄光の五月三日、万歳!
尊き、また尊き同志、万歳!
そして、二〇〇五年の五月三日、万歳!