028 栄光燦たる五月三日よ



創価の同志は勝ちに勝ちたり

二〇〇五年五月三日へ 君よ新たな勝負の劇を

異体同心で前進! また前進

我らは「広布の大誓願」に生き抜く


 勝ちにけり

   五月三日の

     同志かな

 

 おお、晴れやかな五月の三日よ!

 威風堂々の凱旋の記念日よ!

 希望の世界に船出しゆく記念日よ!

 栄光燦たる五月の三日よ!

 見よ! 全日本、全世界の偉大な菩薩たちの生き生きと躍動しゆく姿よ! 前進しゆく姿よ!

 この明るい姿、邪悪を責め抜く勢い、仲良き団結こそ、我らの勝利と幸福だ。

 前進、前進、また前進!

 それこそが、我らの祝福の姿だ。

 素晴らしき同志よ!

 素晴らしき弟子たちよ!

 勇敢なる皆様ありての創価の栄光であり、勝利である。

 私は、全同志に、感涙をもって感謝申し上げたい。

 五月三日――この日には、創価学会の魂の炎がある。

 昭和二十六年の五月三日。

 我らの師である戸田城聖先生が、牧口初代会長の殉教から七年にして、第二代会長に決然と就任された記念日である。

 快晴だった。私の心も澄み切った快晴であった。

 この日、先生は、烈々たる口調で師子吼された。

 「私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は、私の手で必ずいたします!」

 広宣流布への大誓願である。当時の会員は三千人。驚天動地の目標でもあった。

 しかし、私は、嬉しかった。五体に勇気があふれた。

 広宣流布の大指導者であられる私の師匠が、いよいよ立たれたのだ!

 我も断じて立つ!

 真実の不二の弟子として、この大師匠の誓願を必ず実現してみせる!

 五月三日は、大宗教革命に戦いゆく、若き我らの決意の日でもあった。

 それは、戸田先生の会長就任から二カ月余りが過ぎた、七月十一日のことである。

 土砂降りの豪雨のなか、男子部の結成式が始まった。西神田の小さな古びた本部である。わずか百八十人ほどの出発であった。私も一班長として、参加していた。

 その席で、先生は、皆が思いもよらぬ発言をなされたのである。

 「今日、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現れるであろう。必ずや、私は、このなかにおられることを信ずるのであります。

 その方に、私は深く最敬礼をしてお祝い申し上げたい」

 そして、深々と頭を下げられたのである。皆が驚いた。唖然とした。

 先生は、「広宣流布は戸田がやる」と断言されていた。しかし、それが、一代で終わるはずのない、壮大な聖業であることを、誰よりもご存じであった。

 先生と不二の大誓願に奮い立つ青年なくして、広宣流布は成しえない。

 第三代会長として立つのは、その青年以外にありえないことを、聡明な師は叫ばれたのである。

 三十二歳の私が第三代会長に就任したのは、昭和三十五年の五月三日であった。

 晴れわたる記念のこの日、私は、二万人が集う日大講堂の壇上で青年らしく叫んだ。

 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮をとらせていただきます!」

 明るく力強い万雷の拍手が、私を包んでくれた。

 そして、折伏の大将軍であった戸田先生の弟子として、師が遺言された三百万世帯の実現を誓ったのである。

 戸田先生は、生前、さらに私に言われた。

 「一千万人が信心する時代がきたら、すごいことになるぞ。楽しみだな……」

 その一千万という盤石な平和と人道の民衆連帯を、この日本に築くことを、私は生涯の誓いとしたのだ。

 日蓮大聖人は、「大願とは法華弘通なり」(御書七三六ページ)と仰せである。

 ともあれ、五月三日は、我らの「広宣流布誓願」の日と決まったのである。

 この日は、巡り来るたびに、創価の師弟が、広宣流布を誓う日となり、正義の戦闘開始の日となってきたのだ。それは永遠に!

 激戦に

   また激戦を

     勝ち越えて

  五月三日の

    輝く歴史は

 今年の「大白蓮華」五月号から、私は新たに「開目抄講義」を開始した。

 その「開目抄」の一節は、会長就任の時の私の決意であり、以来、片時も、わが胸を離れたことはない。

 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(同二三二ページ)

 私は、いかなる大難にも断じて負けぬ魂を、我が師である戸田会長から鍛えられたという誇りを持っていた。

 大偉業を成しゆくには、平坦な道など、どこにもない。使命の道を歩んでいくには、「忍耐」、そして「もっと忍耐」、さらに「もっと、もっと忍耐」であると語っていた、ある国の大統領の言葉を、私は思い出すのだ。

 「諦め」の中には、「敗北」があり、「暗闇」がある。

 「忍耐」の中には、「希望」があり、「勝利」がある。

 見渡せば、峨々として連なる、峻険な尾根を登攀しゆく宿命の歳月であった。

 第一の険しき尾根は、あの昭和四十五年である。

 この会長就任十周年の五月三日は、日本国中からの集中攻撃を受けた「言論問題」の渦中にあった。

 次の十年も、山に山を重ねる艱難の連続の日々であった。第一次宗門事件の嵐のなか、昭和五十四年五月三日を前に私は会長を“勇退”した。

 翌五十五年も、私と学会への攻撃また攻撃が繰り返されていた時であった。

 陰険極まりなき悪侶と結託した恩知らずの反逆者らが、釈尊を攻撃し、殺害しようとした提婆達多の如き正体を露にしたのだ。

 その激戦のさなか、私は、常勝の都・関西の天地に走った。そして五月の三日、ここを本陣として、泥棒の如き邪悪を打ち破る壮絶なる決意を固めて、勝利のための戦闘を開始したのである。

 ともあれ、このような大攻撃を受け、戦い抜いたがゆえに、わが創価学会は清浄なる正義と団結の大教団として、日本一の基盤を作り上げることができたのである。

 さらに、日顕一派が広布破壊の魔性を現した、第二次宗門事件が惹起したのは、私の会長就任三十周年(一九九〇年)の時であった。

 邪宗門が暗き密室で、正義の学会の破壊を謀議していた時、わが学会は広々と世界を呼吸し、人類の幸福のために、悠然とスクラムを組みながら、平和への大行進を拡大していたのである。

 世界の識者と私との対話も、急速に広がっていった。

 ゴルバチョフ氏(元ソ連大統領)や南アフリカマンデラ氏(前大統領)と、初めてお会いしたのも、この年であった。

 このように、会長就任から、ほぼ十年ごとに、大きな苦難の節目があった。

 しかし、そのつど、学会は最高峰の「文化の団体」、唯一の「正法正義の教団」、そして「世界の宗教」として飛躍した。艱難の山を乗り越え、勝ち越え、連戦連勝の王者の教団となったのだ!

 学会が、なぜこれだけの難を乗り越え、勝利の歴史を築くことができたのか。

 それは、御聖訓に説かれる通りの「異体同心」であったからだ。

 大聖人は、「殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさ(軍)にま(負)けぬ、周の武王は八百人なれども異体同心なればか(勝)ちぬ」(同一四六三ページ)と仰せである。

 これは、中国の古代・周王朝の有名な故事である。

 当時、暴虐な支配者として民衆を苦しめていた殷の紂王に対して、断固、立ち上がったのが周の武王であった。

 しかし、七十万の紂王の軍勢に対して、武王の軍は、最初は、八百人の諸侯しかいなかった。数では、圧倒的に不利な状態である。

 では、武王は、いかにして、この劣勢を打ち破っていったのか。

 それは、武王は戦いを起こすに当たり、敵の悪逆非道を鋭く突き、決起の大義を堂々と語り抜いた。そして、志を同じくするものを、大きく結合していったのである。

 「人びとを苦しめる悪とは、徹して戦うのだ!」「今こそ立ち上がる時だ!」と。

 この堂々たる宣言に呼応して、陣列は大きく広がった。見方によれば、それは、決戦の時には、何十万もの連帯になっていたと考えられる。

 邪悪と戦う確信ある呼びかけに、人間は動く。正義に糾合されていくのだ。

 この鉄則を持ってきたがゆえに、学会も世界的になったのである。

 私が第三代会長となった、あの四十四年前の五月三日、同じ日大講堂での祝賀会が終わり、私が退場しようとした時であった。

 「それっ、胴上げだ!」

 誰かの声が聞こえたと思った瞬間、青年たちが、「ワーッ」と大歓声を上げて、私に向かって突進してきた。

 そして、あっという間に、私の体は無数の手に押されて、宙に舞いに舞っていた。

 「万歳! 万歳! ……」

 その歓喜の渦、そして歓喜の力、さらに歓喜の呼吸は、一生涯、忘れることはできないであろう。

 共戦の同志なくして、広宣流布は絶対にできない。大事なのは、自分でなくして、同志なのである。

 戸田先生は、「三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできる!」と、何度も教えられた。

 その通りであった。

 戸田先生が遺言された通りに、第三代の私と尊き我が同志とが、「異体同心」で戦ってきたからこそ、世界への広宣流布はできたのだ!

 「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」(御書一四六三ページ)である。

 指導者は、決して威張ってはならない。

 後輩や、同志を、心から尊敬し、感謝していくことだ。そして、わが身を、同志たちのために、後輩たちのために尽くしきっていくことだ。

 今や、わがSGIの大連帯は、百八十八力国・地域に堂々と発展した。そして全世界の同志が、晴れやかに五月三日を祝福する時代となった。

 いな、SGIの同志だけではない。たとえば南米・ブラジルでは、連邦区や州、数多くの市で、「5・3」を慶祝してくださっている。

 「五月三日は、私たち市民に、精神の滋養を与えてくれる日でもあります。“平和とは内面から発する”との創価学会の根本思想を、社会は必要としているのです。

 ゆえに、SGIのような平和勢力がますます発展しゆくことを念願しています」

 ブラジルのパラナ州カンベー市の市長が語られた言葉である。

偉大なる母に感謝

 さらにまた、五月三日は「創価学会母の日」でもある。

 あの「言論問題」の前後、私は体調を崩していた。

 また、会長の辞任後、大きな会合にも出られず、会員の方々に心配をおかけした。

 見舞いのお手紙も、数多く頂戴した。今でも大切に保管してある。

 同志の皆様の、ひたぶるな祈りと行動があったがゆえに、幾多の苦難に打ち勝つことができたのである。

 大恩は、わが同志に、わが後輩にあるのだ。

 なかでも、創価の母たちの健気な唱題こそ、一切の障魔を打ち破り、「五月三日」に栄光不滅の歴史を残す力となったのだ!

 この偉大なる母たちの信力、行力を、崇高な祈りと行動を、私たちは最大に尊敬し、決して感謝の念を忘れてはならない。

 母たちのこの健気な振る舞いを下に見たり、感謝がなくなった時に、信心は消える。仏法は破滅する。広宣流布は、何百年経ってもできない。皆が苦しむだけだ。

 そのような魔性の人間がいたら、和合僧の学会から追い出すことだ。

 これが牧口先生、戸田先生の叫びであった。

 五月三日、万歳! 創価の母、幸福の母、万歳!

 私は諸手を挙げて、力の限りに叫びたい。

 思えば、五十年前の昭和二十九年の五月三日は、私が青年部の室長になって迎えた、最初の五月三日であった。

 私は、戸田先生がお元気なうちに、広宣流布の勝利の方程式を全部、築いていく決心であった。

 そのためには、創価の青年たちが広布の全責任を担い立つことだ。そして、ありとあらゆる行動と実践で、一つ一つの戦いを、また行事を勝ち取っていくことを、体得することである。

 ゆえに私は、先生のお心を生命に刻んで、猛然と戦いを起こした。

 「5・3」の六日後には、豪雨を突いて青年部の五千人結集、その半年後には、倍増の一万人結集と、間断なき拡大と勝利の歴史を創り始めていったのである。

 その一年間に勝負をかけ、完勝し、私は創価の永遠勝利の基盤を築き上げたのだ。

 ドイツの大詩人ヘルダーリンの叫びを、私は忘れることができない。

 苦難が「胸には勇気を精神には光をあたえる」と雄々しく歌った詩である。

 労苦の汗が光る一日! なんと偉大にして尊きことか!

 艱難に鍛えられた一日! なんと人間として勝利し、生きゆく価値を創造していることか!

 自身の限界に挑みゆく青春の挑戦は、一日を一年に、また一年を何十年にも、黄金不滅に輝かせているのだ。

 さあ、次は、明二〇〇五年の五月三日だ。

 我らの勝利と完勝のため、新しき劇の幕は切って落とされた!

 「この一年が堂々たる未来を決する勝負」と思い立つ人は、偉大なる福徳に包まれてゆくことであろう。

 「この一年が広宣流布の万年の大道を開く」と決意して行動する人は、無限の功徳と無量の幸福を浴びる人である。

 今日も、そして明日も、広宣流布のために、新たなる決意みなぎる戦いを開始しゆく、人間として最高最極の誇り高き創価の同志たちよ!

 断じて勝て!

 断じて勝つのだ!

 「創価」とは、人間の平和と幸福と勝利の誉れの称号であるからだ。

 栄光の五月三日、万歳!

 尊き、また尊き同志、万歳!

 そして、二〇〇五年の五月三日、万歳!