032 人間革命の天地・信越



広布の大指導者よ涌出せよ!

我らの前進から「共戦の連帯」は拡大

そびえ立つ栄光の人材山脈

今ここが戦場! その闘士が勝利者

 信越出身の碩学に、『大漢和辞典』で有名な諸橋轍次博士がいる。

 新潟・下田村の生地は「漢学の里」となり、博士は、多くの人に偲ばれている。

 博士が心血を注いだ中国の古典の知恵に、こうあった。

 「一日二日に万幾あり」(『書経』)

 博士は、この箴言を通して言われた。

 「一日とか二日という短い間にも、世の変化するきざしは無数にあるものだ。油断してはならない」と。

 今日という日は、二度と来ない。一日一日を大切に、悔いなく、全魂を注いでいくべきだ。

 そこにこそ、勝機をつかみゆく秘訣があることを知らねばならない。

 今日を勝つことだ。断じて今を勝つことだ。

 広布に立ち上がった、わが信越には、“創価三代”の師弟の魂が、深く大きく刻まれている。

 長野県にも、そして新潟県にも、牧口先生、戸田先生の広布の足跡が多々、留められている。

 そして私も、幾たびとなく、ここ信越の大地を駆けた。

 以前、創価の父・牧口先生の生家の写真を、新潟の同志が届けてくださった。本当に嬉しかった。

 拝見して、その質素な家に感涙したものであった。

 日本海に臨む荒浜の村――現在の新潟・柏崎で、牧口先生は生まれ、烈風と荒波に挑み抜き、偉大なる人格を鍛え上げてゆかれたのである。

 私が、牧口先生の故郷・新潟を初訪問したのは、ちょうど五十年前の、昭和二十九年の二月であった。これが、この方面への第一歩の歴史となったと記憶する。

 実は、その直前、戸田先生は体調を崩されていた。不死鳥のごとき生命力で、すぐに広布の陣頭に復帰されたが、私は一人、深刻な決意に奮い立っていた。

 “戦うのだ! 力をつけるのだ! 一日も早く、先生にご安心いただける後継の弟子となるのだ!”

 イギリスの劇作家シェークスピアの一文に、こうある。

 「臆病風などどこ吹く風だ、最後まで戦ってやる」

 我々の活動と成長が、戦いと前進が、共戦の連帯の拡大を無限に生んでいくのだ。これが、広宣流布の一つの方程式だ。

 新潟は深い雪だった。そのなかを、友と一緒に私たちは走った。

 百人ほどの同志が集い合った指導会に、私は出席させていただいた。

 それが終わると、生き生きとした使命燃え立つ青年たちと、遅くまで語りに語った。そして懸命に激励した。

 寒い翌日も折伏、さらに指導に走り回った。そして夜行列車に飛び乗る寸前まで、友を励まし続けた。

 魯迅の有名な箴言に、「道というものは、始めからあるのではなく、みな、人が歩くことによってできるものだ」とある。

 この同志こそが、新しい「広宣流布」という道をつくってくれるのだ。

 当時、私は、万感の思いを日記に書き留めた。

 「此の地よりも、未来の大指導者の輩出する事を祈りつつ」と、その一節にある。

 涌出せよ! 涌出せよ!

 若き正義の師子よ、偉大な広布の大人材よ!

 指導者は、第一にも、第二にも、人材を見出すことだ。人材を育てることだ。

 それが、責任であり、使命であり、任務であり、勝利なのだ。

 「人材の涌出」――これを、たびたび深く祈り、願い、私が五体を大地にぶつけるようにして戦い残した天地!

 それが、晴れ晴れとした人材山脈の信越である。

 昭和三十二年の八月、私は、軽井沢に静養しておられた戸田先生のもとへ馳せ参じた。

 ありとあらゆる報告をするためである。ありとあらゆる指示を仰ぐためである。

 そして、断じて広宣流布の拡大と勝利に向かって、師弟一体の魂と魂が通じ合うためである。

 この師弟の語らいの黄金の時間は、一瞬一瞬が、師から弟子への大事な訓練であり、指導であり、血脈であったのだ。

■嫉妬の迫害を破れ

 特に先生は、「学会が大発展していけば、必ず坊主たちは嫉妬し、思いもよらぬ迫害を加えてくる」と断言しておられた。

 その時は、先生の怒りの言葉とも、私には思えた。

 しかし、長野にも、新潟にも、信心の建設をしゆくなかで、先生の言葉は、思いも及ばぬ未来への深き洞察であったと、私は驚きをもって、改めて胸に刻んだのだ。

 かのシェークスピアは、戯曲の中で、邪悪な聖職者を弾劾している。

 「いいか、糞坊主、おまえの厚顔無恥な悪行、不義不正にして争いをむねとする陰謀については、幼子の口でもおまえを傲慢と言える……。

 おまえは……聖職者としての職務にもその高い地位にもおよそ似つかわしくない色好みの放蕩者だ。おまえの陰険な裏切りについてはさらに明白だ」

 ともかく、生命は「一人」が大事だ。「一人」の「人間革命」が大事だ。

 これが、すべての出発と発展の原動力だ。

 一人の人間革命が、人びとを覚醒させ、地域を変革させ、そして、社会も国家も新しく変えてゆくのだ。

 偉大なことは、そして大切なことは、一人の人間革命の原理を、法理を、大事な弟子たちに、強く深く教えていくことである。

 これが、戸田先生の決意であられた。

 その先生を偲びつつ、私は、二十五年前(昭和五十四年)、名誉会長になって最初の夏、長野研修道場から、新たな「人間革命」「人材錬磨」の戦いを開始した。

 詮ずるところ、広宣流布とは、「正義の人間」「善意の人間」「平和主義の人間」「信念の人間」の尊き人材の壮大なる山脈を築きゆくことだ。

 これこそ、真の仏法者の、仏の軍勢の拡大である。

 この生命の戦いを守り、平和の戦いを守り、幸福の戦いを守りゆくために、諸天善神はこぞって加勢する。三世十方の仏菩薩も、一人も残らず守護し、加勢する。

 ここに、未来永遠にわたる崇高な「善の連帯」の大構築がある。

 仏法は、勝負である。

 人間も社会も、勝負である。

 善と悪の戦いである。

 幸福と不幸、平和と戦争の戦いである。r その中にあって、「絶対勝利」の指導者たるべき、新しい人材を、日本中に、いな世界中に、あの地からも、この地からも、断固として涌出させてみせる。

 これが、「地涌の義」という仏法の方程式だ。

 我らが誇る、使命深き信越の天地は、世界第一の「人材大学校」の誇りを持っている。「人間革命の大学校」の使命を持っている。

■山村でも友は活躍

 七年ほど前、テレビの旅番組で、長野の大鹿村が紹介されたことがあった。

 雄大南アルプスの大パノラマに囲まれた、心懐かしく、美しい村であった。

 しかし、一緒にテレビを見ていた友は、「こんなに山深いところでは、学会員は、いても一人か二人でしょう」と語っていた。

 そこで調べてもらうと、実にこの地域の世帯の一割が学会員であった。しかも、村の約二割の方々が聖教新聞を購読してくださっているという。

 友は驚嘆した。最敬礼をした。なんと素晴らしき創価の連帯か! と。見事な地域広布の姿であった。

 そのことを、私は、早速、スピーチでも紹介させていただいた。

 この地も、草創期の昭和三十年代は、苦闘の連続だった。

 会合に参加するにも乗り物はない。飯田で行われる会合には、村から片道四時間かけて歩いた。帰りは、いつも真っ暗な深夜になった。

 歩く道は細く、足元も悪かった。道を踏み外せば、崖下に転落する恐れがあった。死との対峙であった。戦いであった。

 月がなければ、暗黒の闇であった。提灯の明かりを頼りに、一歩また一歩、用心深く帰った方々の話は、胸の魂を奮い立たせた。

 トラックを借り、山道を揺られ、会合に行くこともあった。道中、誰からともなく題目の声が自然に起こった。

 ただただ、皆に幸せになってもらいたいという一心だった。毎日、夕食をすませると、提灯を持って折伏に歩いた。

 この険しき山中を、一時間も二時間も歩いていくのは、日課の如くであった。

 仏法の話に耳を貸す友人などは、全く少なかった。悪口が多かった。批判が多かった。

 だが、わが同志は歩きに歩いた。臆病者は一人もいなかった。勇敢であった。

 どこへ行っても、居留守を使われたり、塩や水をかけられた。棒きれで、「帰れ!帰れ!」と、追い立てられもした。陰口も絶え間なく聞こえてきた。

 「あきらめる」のは簡単であった。

 「ここは環境が厳しいから」「今は時期じゃないから」と、一歩退く理由は、いくらでもあった。

 だが、それでは何も変わらない。心がくずおれそうになるたび、「絶対に宿命を転換できる仏法だ!」と、信念の王者の如く、耐えに耐えた。

 この人こそ、無名の偉人だ。この人こそ、菩薩であり、仏である。

 この人こそ、三世にわたって勝利、勝利の人生を飾りゆく長者となって、生まれくるにちがいない。

 その苦闘の報告を聞いた私は、周りの一緒にいた青年部や婦人部の眼から、熱い涙が流れていたことを、今でも覚えている。

 ともあれ、こうした庶民の苦闘と栄光の「人間革命」物語は、わが信越のあの町、この村に光り輝いている。

 大聖人は、佐渡の地で仰せになられた。 「されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし」(御書一三四三ページ)

 仏国土といっても、自分が存在する場所を離れて、どこか遠いところ、別世界にあるのではない。

 わが地域こそ、仏法証明の大地であり、わが「生命の鏡」である。

 ゆえに、地域の発展は、わが生命の成長であり、わが生命の栄冠なのである。

 私と妻は、幾たびとなく、周恩来総理の夫人である と穎超先生とお会いした。

 また と穎超先生の本や物語を、よく勉強したつもりである。

 その一節には、こうある。

 「困難は成功の母なのです。私たちは、困難から努力し、奮闘すれば、私たちの目的を達成するのは難しくない」

 と穎超先生は戒められていた。

 「傲慢や慢心は、進歩を妨げる最大の敵で、人をつまづかせる足かせのようなものです」

 断じて忘れることのできない二十数年前、長野の飯田の地では、坊主らの陰険な蛮行のために、学会員がさんざん苛められた。

 妙法流布のために必死に戦っている仏の使いであり、崇高な使命に走る健気な同志が、なぜ法盗人の坊主どもに迫害されねばならぬのか!

 その言語道断の増上慢の行動を聞くたび、私たちの血が逆流する思いであった。

 考えられない、思いもよらぬ迫害であり、受難であった。

 僧俗一致とうそぶき、信徒の供養を食法餓鬼の如く貪り、威張り腐っていたのだ。

 その受難の地へ、私が走ったのは、平成四年(一九九二年)の八月のことであった。

 長野県の飯田の会館に飛び込み、やっと同志に会えた瞬間、胸がいっぱいになった。

 「一番苦しんだ皆様こそ、これから一番、幸福になる権利がある。

 正しき信心のため、広宣流布のために、歯を食いしばって戦い、勝った皆様こそ、世界一“楽しき人生”を送る資格がある!」

 断じて負けるな!正義は必ず勝つ!

 私の決意は一段と固くなった。わが友を守らなければならない責務があるからだ。

 当時、私は、インドの詩聖タゴールの一節を、側にいた弟子に贈った。

 「危険は、攻撃をしかける敵からではなく、むしろ裏切る惧れのある味方から来る」

 さらにまた一人には、フランスの文豪ロマン・ロランの言葉を綴った。

 「私たちは、真理を擁護し、虚偽と戦う立場を取り、つねに、心の底では同じ考えを持ち続けるだろう」

 そしてまた、何人かの友に、ロランの叫びを贈った。

 「戦闘の勝利の中心は心だ」

 「英雄的な行動をなしとげるためには、燃えるような信念をもってつき進まねばならぬ」

 「立派なこと、偉大なことは何でも、同じ信念をもち、おたがいに尊敬し合っている者同士の協力によらなければ成しとげられるものではない」


■正義と勝利の凱旋

 文永十一年、日蓮大聖人は二年半を過ごされた法難の地・佐渡から、鎌倉へ堂々と戻られることになった。

 佐渡から、舟で柏崎に渡り、そこからは今の上越市直江津・高田、牟礼、長野、戸倉、小諸を経て、浅間山を仰ぎつつ、碓氷峠を越えられたと考えられている。

 “北国街道”を通られたようだ。

 途中、大聖人を狙う不穏な動きもあったが、もはや悪党どもは手を出せなかった。 まさに、赫々たる「正義の凱旋」のお姿であった。

 大聖人が法難を越えられ、力強く歩まれた大地は、我らの信越である。

 今や、ここに完勝の旗が翻り、偉大な人材山脈がそびえゆくのも、深い宿縁があるのだ。

 ――五十年前、最初の新潟訪問の最後に、私は、青年たちに一首を贈った。

 大聖の

   嵐の因縁

    ある地にて

  法旗を高く

     君ら起ちゆけ

 御聖訓通りの嵐は、繰り返し襲いかかってきた。

 しかし、わが信越の同志の魂には、佐渡御書をはじめ、大聖人の御金言がいつも轟きわたっていたのである。

 「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(御書九五七ページ)

 堂々と、新潟は勝った!

 厳然と、長野は勝った!

 晴れ晴れと、信越は勝ちに勝ったのだ!

 「過去現在の末法法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(同一一九〇ページ)

 この御聖訓もまた、信越の友が深く強く拝し続けた一節である。

 私が青春時代より愛読してきた、ドイツの詩人ヘルダーリンは雄々しく歌った。

 「北風が吹く。

 どの風にもまして北風がわたしは好きだ。 

 それは船びとたちに

 熱意とそして良い航海とを与えるだろうから」

 烈風に挑む勇気! 険難の峰に挑む忍耐! それが信越の勇者たちの勲章だ。


■わが信越の勇者達

 私の胸には、懐かしき友の顔が、次から次に浮かぶ。

 原点の新潟市。王者の佐渡。ロマンの瓢湖。凱歌の十日町

 不屈の長岡・見附・栃尾。師弟の柏崎。繁栄の糸魚川

 正義の上越。模範の新発田。共戦の三条・燕・加茂。

 旭日の村上。躍進の新津・自根。和楽の小千谷

 新潟県の同志は、勇気、勇気、勇気で勝ち進む。

 そして世界の憧れ・長野県の友も、決然と立った。

 本陣・長野市。常勝の松本。長者の菅平。希望の上高地

 風薫る霧ケ峰。緑の志賀高原。使命の軽井沢。

 団結の諏訪。勇猛の伊那。破邪顕正の飯田。

 前進の上田。福徳の更埴。光輝満つ佐久。

 夜明けの木曽路――。

 わが愛する信越の友よ!

 私は祈り、待っている。

 皆様との再会を!

 晴れやかな勝利を!

 永遠の誉れの完勝の歴史を!


2004年(平成16年)5月25日(火)掲載