婦人部・女子部最高協議会〔上〕 2005-3-11
最後まで挑戦し抜いてこそ仏に
執念で勝て!!
広布の登竜門を勇敢に登り切れ!!
幸福は正義を貫く人生に! 逆境で光る「真金の人」たれ
《中国の作家・謝冰信女史》 「花は咲く!奮闘の涙の泉から」
【名誉会長のスピーチ】
一、婦人部、女子部の皆さん、毎日、本当にご苦労さま!
広宣流布に奔走される創価の女性たちの活躍は、まことに素晴らしい。
東京、第2総東京の皆さまの懸命なる闘争に、全同志が喝采を贈っている。さらに、神奈川、埼玉、千葉、そして関東をはじめ、全国で、平和を目指す女性の連帯が拡大している。
とくに婦人部の皆さまは、高柳婦人部長を中心に、見事なる前進をしてこられた。友のため、広布のために、走りに走り抜いて、かつてない歴史を築いてくださった。
また、女子部の活躍も光っている。これからは、ますます女子部に力を入れていきたい。
青年の時代である。男子部、女子部、学生部、未来部に光を当てて、偉大なる人材を育成してまいりたい。
人材は、何もしないでいては、決して育たない。自ら苦労して、新しい人材を見つけ、真剣になって育てていくことである。今こそ、人材育成の大きなうねりを起こしてまいりたい。
■広布の本流をまっしぐらに!
一、先輩の方々は、若い後輩たちと「一緒に」行動しよう! 「一緒に」前進しよう! ―― その心意気をもつことだ。一緒に動けば楽しいし、計り知れない力が出る。
もう新しい時代が始まっている。それを、上から眺めているだけでは、魂が老いている姿だ。
自分から後輩たちの中に飛び込んでいくことである。「本当に素晴らしいね」と皆をほめ讃えていく。「何でもやらせてもらいますよ」と皆に尽くしていく。声をかけるだけでも、皆の力になり喜びになるものだ。
一生涯、広宣流布の本流をまっしぐらに進む、素晴らしい模範を残していただきたい。
■信心し切った人が最後に勝つ
一、中国の「竜門の滝」の故事を引かれた御書がある(「上野殿御返事」、御書1560頁)。
「登竜門」の語源となった滝である。
滝のもとには多くの魚が集まって登ろうとする。しかし、激流やさまざまな障害があって登り切ることができない。その困難を突き抜けて、登り切った魚は竜となる。
この故事を通して、大聖人は、成仏がいかに困難かを教えておられる。
言い換えれば、「信心し切った人」が「最後は勝つ」ことを宣言されているのである。途中、どんなに頑張ったとしても、貫かなければ成仏はないのである。
行く手にどんな障害があろうと、執念をもって戦い抜くことだ。
そして“大勝利の登竜門”を、ともに晴れ晴れと登り切ってまいりたい(大拍手)。
一、「一(いっ)華(け)を見て春を推(すい)せよ」
「開目抄」の一節である。〈御書222頁〉
たとえ一輪であっても、寒風のなかに、凛と咲き誇る花があれば、天下の春の到来を知ることができる。
そして、けなげな女性が、一人、真剣に立ち上がるところ、そこには必ず、爽やかな「希望の春風」が吹き薫り、「歓喜の春」「勝利の春」が広がっていくのである。
全国、全世界で、さっそうと活躍される婦人部・女子部の皆さま方を讃え、心からの感謝を込めて、きょうも少々、語り残したい。
■「圧政といじめは我慢できない!」
一、私と妻は、「中国文学の母」謝(しゃ)冰(ひょう)信(しん)先生と深い交友を結んできた。
中国を代表する女性作家の一人として、今も深く敬愛され、広く愛読されている。
〈謝泳心女史と池田名誉会長夫妻は、25年前の、1980年4月、静岡、北京で会見。謝女史の生誕の地・福建省にある「泳心文学館」から昨年9月、名誉会長に「名誉館長」、香峯子夫人に「愛心大使」の称号が贈られた〉
謝先生は、戸田先生と同じ1900年の生まれである。99年に亡くなるまで、まさしく激動の20世紀を生き抜かれた。
温かな人間愛に満ちあふれた方であった。「母の愛」を描き、「女性の幸福」を論じ、「庶民の気高さ」を高らかに謳い上げた。
日本でも数年間、暮らしておられる。日本の民衆をこよなく愛された。
それだけに、中国をはじめアジアの国々を侵略し、人々を苦しめ抜いた日本の軍国主義に対しては、厳しかった。
「人間が人間を圧(おさ)えつけいじめることだけは、わたしには我慢できない」(竹内実訳『女のひとについて』朝日新聞社)とは、謝先生の生涯を貫いた信念であった。
だからこそ、生命尊厳の哲学を掲げて、平和と教育と文化のスクラムを広げる、創価の婦人部・女子部に寄せる信頼は絶大であった。
■90歳を超えて前進! 前進!
一、「いかなる星にも光あり いかなる花にも香りあり」
これは、謝先生の詩にある言葉だが、先生の深き人生観を示していると思う。
どの生命にも、無限の「価値」がある。
どの人にも、かけがえのない「使命」がある。
その「価値」を発揮し、その「使命」を果たしていくために大切なものは何か。
それは、「活動」であり、「成長(生長)」であると、謝先生は強調されている。
「生命の象徴は活動です、生長です。一(いっ)滴(てき)一(いち)葉(よう)の活動と生長とが全宇宙の進化と運行とを作りあげるのです」(倉石武四郎訳『謝泳心自選集 お冬さん』河出書房)
川も、流れなければ、死んだ湖になってしまう。種も、成長しなければ、ただの殻(から)で終わってしまう ―― そう謝先生は言われるのである。
人間も、生き生きと動き、伸びゆくことだ。個人であれ、団体であれ、成長を止めれば、もはや激流の時代から取り残され、滅び去ってしまう。
御聖訓には「月月・日日につよ(強)り給へ・すこしもたゆ(撓)む心あらば魔たよりをうべし」(御書1190頁)と仰せである。
厳しい時代であればあるほど、きょうも、一歩、前進! きょうも一つ、新しい創造を!
たゆまず、地道に、着実に挑戦を続けていく。そこにこそ、大宇宙の本源と連なりゆく、充実と満足の人生が開かれるのである。
謝先生ご自身、その模範を示された。
晩年、脳血栓で倒れ、右半身が麻痺してしまった。しかし、「人生は80歳から始まる」と、震える手でペンを揮い続けていったのである。
その前進の心は、90歳を超えても変わらなかった。
文化大革命の迫害の嵐も乗り越え、さらに病魔も勝ち越えた謝先生には、もはや恐れるものは何もなかったといってよい。
これからの青年をこよなく愛された謝先生。文学界の新しい人材の成長を自分のこと以上に喜び、徹して励まし、宣揚していかれた。
若い人を育てる人は、いつまでも若々しい。
先生は、こう呼びかけている。
「か弱き小さな草よ! 誇りをもて あなたこそ 全世界を美しく彩るものなのだ」
「小さき岩よ もっと堅固になれ 前から後ろから襲いかかる 波浪に備えるのだ!」
青年よ連帯(スクラム)を大きく広げよ ―― 未来部に信心の宝を
「新しい時代][新しい人材]
先輩も若々しく一緒に進め ―― 一歩も引くな 後輩に尽くせ
■友情と団結が世界の発展の力
一、古今東西の歴史の上で、世界に気高き理想が実現し、大事業が打ち立てられ、偉大な芸術が生まれた。その原動力は、いったい何か。
それは、志を同じくし、道を共にする人々が、団結し、切磋琢磨したからだと、謝先生は洞察しておられた。
要するに、深き友情と団結こそ、世界を発展させゆく力であるというのである。
しかも、自分とは異なる性格の人とも積極的に交流することで、互いの欠点を補い合い、互いの魂を深め合っていけると、謝先生は語っている。
「ちょうど琴の違った絃(げん)が一緒になって合奏されるようなもので、それでこそ天上の音楽のような楽しい共鳴をおこすものです」(前掲『謝泳心自選集 お冬さん』)
まったく、その通りである。
ゆえに、心広々と、友情を求め、深めていくことだ。
青年部なかんずく女子部の皆さまは、幸福と希望のスクラムを大きく広げていただきたい。
それが、すべて、自分自身の人生を豊かにし、高めていく力となる。
そして、社会を平和へ、安穏へと繁栄させていく力ともなっていくからである。
■友が増えれば世界が広がる
一、「世界人権宣言」の起草に尽力した、アメリカの“人権の母”エレノア・ルーズベルト女史は言った。
「人の交友範囲が狭くなればそれだけ人間に対する経験も狭くなるし、物事への関心も狭くなってくる。できる限りの機会を利用して、知人の範囲を拡げようと決心することは、だから、人の選択の問題の中で大事な部分を占めるものと私は思う」(大和書房『生きる姿勢について』佐藤佐智子・伊藤ゆり子訳)
同感である。「開かれた心」で、はつらつと対話に打って出てこそ、生命は光り輝くものだ。
さらに、18世紀のイギリスの作家サミュエル・ジョンソンは、こう語っている。
「年を取るにつれて新しい知己を作って行かない人間は、必ず自分が取残された感じを味わうはずだ。君、人は自分の友情を絶えず補修せねば駄目だ」(ボズウェル著『サミュエル・ジョンソン伝』中野好之訳、みすず書房)
何歳になっても、新しい出会いを求め、友人をつくっていくことだ。
友が増えれば、世界が広がる。未来が広がる。
その意味において、古い友人を大事にしながら、新しい友情を結び広げていく創価の女性の行動が、いかに素晴らしいことか!(大拍手)
■忍耐の大地に勝利の花が咲く
一、謝先生の詩の一節を、婦人部・女子部の皆さまに贈りたい。
「咲き誇る花に対して、人びとはただ、その鮮やかな姿に感嘆するだけだ。
しかし、その花の芽は、奮闘の涙の泉に浸って育ったのだ。
献身の血の雨によって成長したのだ」
一つの花が咲くまでに、どれほどの労苦があったか。どれほどの戦いがあったか。
美しき「勝利と幸福の花」は、「忍耐の大地」にこそ咲き薫る。
婦人部・女子部の皆さまは、あの地でも、この地でも、広宣流布の花を咲かせゆくために、人知れぬ労苦を重ねておられる。
その功労に、あらためて、最大の敬意を表したい。
■黄金の心で黄金の人生を
一、婦人部の先輩の皆さまは、いつまでも若々しく、新しい気持ちで、使命の大舞台で光っていっていただきたい。
法華経を持つ人は「真金の人」であると、大聖人は仰せである。
〈御書に、「金は大火にも焼けないし、大水にも流されず、また朽ちない。鉄は水にも火にも、ともに耐えることはできない。賢人は金のようであり、愚人は鉄のようなものである。あなたは、まさに真金の人である。それは法華経の金を持つ故であろうか」(1337頁、通解)と〉
金は錆びない。磨けば磨くほど、一段と輝きを増していく。
逆境でこそ光る「真金の人」。これが仏法者の生き方である。
皆さまは「黄金の心」で「黄金の人生」を勝ち飾っていただきたい。
■青年は苦労せよ
一、若い世代を、どんどん伸ばしていきたい。
先輩も一歩も引いてはいけない。むしろ、もう一歩、踏み出して、後輩を育てていくことだ。
生涯、学会を守り、同志に尽くしていく「使命」と「信念」と「誇り」を忘れてはならない。
そして、若い世代の皆さんは、あえて労苦を求め抜いていくことだ。
信心の戦いにおいて、また生活の上で、何の苦労もなければ、人間は鍛えられない。広宣流布の指導者にはなれない。
自ら願って、濁悪の世界に妙法を弘めるのが、地涌の菩薩なのである。
だれよりも祈り、だれよりも苦労し、希望と勝利の道を切り開く。それが、妙法のリーダーであることを深く心に刻んでいただきたい。
■増上慢になるな広布に生き抜け
一、新たな青年を育成するとともに、家庭にあっては、子どもにしっかりと「信心の宝」を継承させていくことが大切である。そこに広宣流布の前進があり、令法久住の確かな軌道がある。
私たちは、学会のおかげで、最高に価値ある人生を知ることができた。無量無辺の福運を積み、素晴らしい同志にめぐりあうことができた。
その大恩を深くかみしめ、子どもにきちんと伝えていくことだ。
一、「恩を知る」のが人間の道である、仏法の道である。大幹部でありながら、恩を忘れ、退転した人間の末路が、いかに哀れか。皆さまがよくご存じの通りである。
御書に「恩をしらぬ人となりて後生に悪道に堕ちさせ給はん事こそ不(ふ)便(びん)に候へ」「不知恩の人なれば無間地獄に堕ち給うべし」(895頁)と仰せである。三世にわたる幸福の道を願われての、厳愛の御指導と拝せよう。
創価学会の中で、広宣流布に生き抜くことが、どれほどありがたいことか。その仏意仏勅の学会を軽んじるようなことは、断じてあってはならない。
大恩ある学会を軽んじる人間は、「増上慢」である。それは、魔性との戦いに敗れた姿である。増上慢の人間は、人を見下し、人を裏切り、自分さえよければいいという卑しい心になってしまう。そうなると、みじめな転落の人生を歩むしかない。
人間の偉さを決めるのは、いったい何か。
それは、財産でも、名声でも、社会的地位でもない。結論から言えば、最高の妙法を持(たも)って、学会の中で、広宣流布に戦う人が、最も偉いのである。慢心で心が狂ってしまった、増上慢の人間には、それがわからない。
人生の目的は、幸福である。幸福とは、自分自身が、心から満足しきった境涯である。
牢獄の中でも、正義のために生き、満足しきった境涯の人はいる。お金がなくとも、幸福を満喫している人はいる。表面的な、形式的な幸福は、幻にすぎない。
だからこそ、子どもたちには、真実の幸福に直結する「信心」を、厳然と継承させることだ。学会への報恩の人生を教えていくことだ。そこに、子孫末代にわたって繁栄していく直道がある。
また、皆がその道を歩んでいけるよう教えていくのが、学会の指導主義の伝統である。皆さまには、真剣なる慈愛の励ましをお願いしたい。
仏法史に輝く「小樽問答」から50周年
師子吼せよ! そこに勝利と福徳が
■難問答に巧みな行者をたたえよ
一、きょう(3月11日)は、あの「小(お)樽(たる)問(もん)答(どう)」の大勝利から、50周年である。
正応元年(1288年)、日興上人は、身延離山を決意された心境を、「原殿御返事」の中で、こう仰せになっている。
「この身延の沢を立ち退くことの、面目なさ、残念さは言葉で言い尽くせないが、いろいろ考えてみれば、いずれの地であっても、大聖人の法門を正しく受け継いで、この世に流布していくことが一番大切なことである」(編年体御書1733頁、通解)
師弟不二の道を歩み抜かれた日興上人は、大聖人の正(しょう)法(ほう)正(しょう)義(ぎ)を厳護するために、師敵対の五老僧と戦い抜かれた。
「小樽問答」では、大聖人と日興上人に直結する創価学会が、五老僧の末流を、完膚無きまでに打ち破った。
それは、創価学会こそが、いな、創価学会のみが、仏意仏勅の正統の団体であることを、満天下に示した歴史の劇であった。
「日興遺誡置文」の二十六箇条の結びには、「難問答に巧みな仏道修行者に対しては、先師・大聖人がなされたように、ほめたたえ、尊重するべきである」(御書1619頁、通解)と記されている。〈「巧(ぎょう)於(お)難(なん)問(もん)答(どう)の行者に於ては先師の如く賞(しょう)翫(がん)す可き事」〉
私どもは、小樽問答をはじめ、ありとあらゆる言論戦を、大勝利で飾り抜いてきた。大聖人、日興上人が、「巧於難問答」の創価の師弟を、どれほど賞讃してくださっていることか。
どうか皆さんは、その誇りと確信を持っていただきたい。
■「追撃(ついげき)の手をゆるめるな」
一、ご存じの通り、あの「小樽問答」の契機となったのも、傲慢な坊主を恐れなく破折していった婦人部の勇気であった。
先日(6日)、行われた記念の北海道大会にも、50年前、小樽公会堂に馳せ参じていた、懐かしき草創の同志が元気に出席しておられた。私は、本当にうれしい。
また、わが北海道の青年部も、小樽問答の精神を厳然と受け継ぎ、烈々たる広宣流布の信心を燃え上がらせて、全道で主張大会を行い、共感を広げている。
大聖人は悪を放置して責めない人間の末路を、釈を引かれて、こう仰せである。
「もし仏法を行ずる人がいて、謗法の悪人を治罰しないで、観念や思(し)惟(ゆい)を専ら修して、邪正・権実をも峻別せずに偽りの慈悲の姿を現す人は、諸の悪人とともに悪道に堕ちる」(御書497頁、通解)
戸田先生も、悪には徹して厳しかった。「追撃の手をゆるめるな」と。簡潔だが、大変に重要なご指導である。
さらに大聖人は「開目抄」で、涅槃経の次の文を引かれている。大事な戒めである。
「悪世に戒を持つなどして、さまざまに法を説いても、師子吼をなすことはできないし、非法の悪人を降伏させることもできない。このような仏法者は、自分を救うこともできなければ、衆生を救うこともできない」(同235頁、通解)
破折の精神こそが、日蓮仏法の真髄である。このことを、断じて忘れてはならない。
(下)に続く