各部合同協議会〔上〕


創価の師弟に勝るものなし!
功労の友を讃えよう
《諸曷孔明》 悪事を追及し 善事を顕彰せよ
《モンゴルの文学者》 良き同志こそ人生の喜び


【名誉会長のスピーチ】
 一、きょうは、お忙しいところ、また遠いところ、本当にご苦労さま!
 モンゴルの著名な文学者ロドイダムバは、こう語った。
 「良き同志は、人生の支えであり、人生を生きゆく上の喜びである」
 私も全く同感である。
 きょうは、創価学会を常日ごろから、陰に陽に厳然と支え、広宣流布の道を開いてくださっている最良の同志の代表をお迎えし、これほどの喜びはない。
 皆、いい顔をしておられる。光っておられる。私は心から感謝申し上げたい(大拍手)。

○ 恩師が愛した"五丈原(ごじょうげん)"の歌
 一、恩師・戸田先生と私は28歳の開きがある。若い私のことを、先生は自分の生命以上に大事にしてくださった。
 こんな崇高な世界が、どこにあるだろうか。その大恩に何としても応(こた)えようと、私は心に誓った。
 ある正月に、戸田先生を囲んで懇親会が開かれた。その席で、「星落秋風五丈原(ほしおつしゅうふうごじょうげん)」を歌ったことも忘れられない。<昭和28年>  作詞は土井晩翠(ばんすい)。私は青春時代から詩が好きだった。晩翠の詩も、よく愛誦(あいしょう)していた。
 詩人は詩人を知る。詩人を大事にしてこそ、真の文化国家である。指導者には「詩心(しごころ)」がなければならない ―― これが私の信条である。
 晩翠の詩集は、わが家の本棚にあった。「星落秋風五丈原」は、『三国志』の英雄・諸葛孔明(しょかつこうめい)を謳った、とても長い詩である。歌は、それを短くしたものだ。
 懇親会に先立ち、幾人かの青年部が、わが家に来た。そこで「星落秋風五丈原」の話になった。戸田先生の心に通じる内容であり、ぜひ先生にお聞かせしょうということになったのである。
 先王(せんのう)・劉備(りゅうび)の理想を継いで戦う諸葛孔明。しかし大業(たいぎょう)いまだ成らずして倒れる。独り呻吟(しんぎん)する胸の内をうたった詩 ―― 。
 戸田先生は、じっと聴き入ってくださった。

 祁山悲秋(きざんひしゅう)の風更(ふ)けて
 陣雲(じんうん)暗し五丈原
 …………
 丞相(じょうしょう)病(やまい)あっかりき

 歌い終わると、「いい歌だ。もう一度、歌ってくれ!」。そしてまた、「もう一度!」と。何回も何回も歌った。

 成否(せいひ)を誰(た)れか
 あげつらふ
 一死尽くしゝ身の誠
 …………
 苦心孤忠(くしんこちゅう)の胸ひとつ
 其(その)壮烈に感じては
 鬼神も哭(な)かむ秋の風

 戸田先生は、涙を流しておられた。先生ご自身が、病と闘いながら広布の大業を一身に担う"孔明"だったのである。
 そして私に、「俺が死んだ時も、これを歌ってくれ」と言われた。
 私は、師の言葉を深く、重く受けとめた。
 <昭和33年4月20日、戸田会長の創価学会葬は、"五丈原"の歌が葬送の曲となった>
 一、孔明その人は、偉大な知将(ちしょう)であり、人間王者であった。
 しかし、自分が仕えた主君の跡継ぎは幼く、武将たちも不甲斐ない。
 味方は負け戦。民衆は苦しんでいる。そして、迎えた五丈原の戦場。
 使命を果たさずには、死ねない。先王との誓いを果たすまでは ―― 。
 使命を自覚した者の責務(せきむ)と辛(つら)さを、戸田先生は教えてくださった。
 先生のことを思えば、私の胸には、限りない勇気がわいてくる。

○ 皆さまは誇りある善の勝利者
 一、さて、社会を改革する上で、孔明が実行したポイントは何であったか。その一つは、先日もお話ししたが、「悪事をなした者は必ず罰し、善事(ぜんじ)をなした者は必ず顕彰する」という点にあった。<正史『三国志』の「諸葛亮伝」から>  これは、戸田先生の厳しき教えでもあった。
 戦って戦って戦い抜いた人は、必ず賞讃せよ!  一生涯、また一家も、子孫までも賞讃せよ!
 反対に、戦うべき立場にありながら、敵を前にして戦わない、ずるい人間は必ず罰せよ!悪事をなした者には自らの行動の報いを受けさせよ! ―― と。
 先生は、「仏法のために働いた人間は、どこまでも賞讃すべきだ。しかし、難と戦わずに逃げた人間、ずるい人間は絶対に許すな!」と叫ばれた。正邪に関して厳格であられた。
 ゆえに私は、広宣流布のために尽くし抜いてこられた皆さま方を、最大に賞讃し、永遠に顕彰して差し上げたいのである(大拍手)。
 一、歌といえば、戸田先生とご一緒して、人と会った時のことを思い出す。
 先生は、「大作、何かいい歌を歌って差し上げなさい」と、よく言われた。歌が得意でない私は一生懸命に歌った。懐かしい思い出である。
 先生は、どこへ行くにも、私を連れていかれた。「大作は、私の片腕だ」とも言われた。
 飛行機に乗って地方へ行く時も、日本中、どこへ行くにも一緒だった。親子以上だった。
 世界にもご一緒したかった。だから私は、上着の内ポケットに恩師の写真を入れて、世界広布の第一歩を踏み出した。そして今も、恩師と心の中で語り合っている。
 戸田先生と私は、どこまでも一体である。
 戸田先生は、弟子を、本当に大事にしてくださった。徹底して薫陶してくださった。
 本物の弟子がいれば、師弟は「不二」となる。そうすれば、未来は安心である。
 反対に、本物の弟子がいなければ、その団体は滅びる。根幹の「師弟」の精神をないがしろにして、いくら勢力を増しても、結局は崩れていく。
 ゆえに先生は、同志を苦しめ、裏切る反逆者には鉄槌(てっつい)を下した。その本質を鋭く見抜かれた。
 「悪い枝は切っておかないと、必ず乱される。悪人は、厳しく追放せよ」と訴えられた。
 ともあれ、広宣流布のために戦う人を、どこまでも大事にする ―― これが学会の伝統である。
 皆さまは、私とともに「平和の道」「民衆の勝利の道」を厳然と開いてくださった。誇りある善の勝利者として、栄光の人生を、永遠に歩んでいく方々である。
 幸福の大道を真っすぐに進んでいっていただきたい(大拍手)。


―― 唱題は白馬が大草原を駆けるように ――
―― 共に祈り 共に前進を! ――

○ 清々(すがすが)しい勤行
 一、ともに祈って、戦う。ともどもに祈り抜いて、勝つ。これが「法華経の兵法」である。
 学会はこれまで全国各地で、婦人部を中心に唱題の渦を起こしてきた。ともに心を合わせて真剣に祈り、戦ってきた。
 これほど素晴らしい常勝のリズムはない。
 有名な「生死一大事血脈抄(しょうじいちだいじけつみゃくしょう)」には、こう仰せである。
 「総じて日蓮の弟子檀那(だんな)等が、『自分と他人』『あちらとこちら』と隔(へだ)てる心なく、水と魚のような一体の思いになって、異体同心で南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを、生死一大事の血脈と言うのである。しかも今、日蓮が弘めていることの肝要は、これなのである。
 もし、そうであるならば(弟子檀那等がこれを実行するならば)、広宣流布の大願(だいがん)も実現するであろう」(御書1337頁、通解)
 要するに、広宣流布の同志が異体同心で題目を唱えゆくところにこそ、生死一大事の血脈が流れ通(かよ)うと教えておられるのである。
 わが学会には、御本仏の仰せ通りの模範の実践がある。同志と心を合わせ、御本尊に合掌・冥合(みょうごう)しゆく姿ほど、神々(こうごう)しく、荘厳な光景はないのである。
 日蓮大聖人は、御義口伝で、「合掌」について、その深義を展開しておられる(同722頁)。
 御本尊に向かって合掌し、唱題する時、私たち自身が妙法の当体となる。仏の生命がわき上がるのである。
 ともあれ、唱題は、わが生命を大宇宙の根源の法則に合致させ、「本有常住(ほんぬじょうじゅう)の仏界」を開き、あらわしていく、最も崇高な儀式である。
 白馬が大草原を駆けゆくがごとく、清々しく、爽(さわ)やかな音律でありたい。
 一、また、唱題中に念珠を、せわしなく、もみ続けたりするのは、望ましい姿とはいえないであろう。
 念珠は「仏道修行を助けるためのもの」であると、日寛上人は記されている。<「当家三衣抄(とうけさんえしょう)」>
 もちろん、念珠をもんではいけないというのではない。たまに軽くもむのは、むしろ自然な姿かもしれない。
 しかし、あまりに激しくもむことは、周囲の人に落ち着かない感じを与え、皆の祈りを妨げてしまうことにもなろう。
 細かいことであるが、「小事が大事」であり、「諸法は実相」である。
 ゆえに、お互いに心がけていきたい。
 ともあれ、「祈りとして叶わざるなし」の妙法である。祈りを具体的に明確に定めて、一つ一つ、祈り切り、祈り抜き、勝ち進んでまいりたい。

○ ただ一人で師匠を守る
 一、戦後、戸田先生の事業が苦境に陥ったときである。
 当時、戸田先生のもとでお世話になっていた人たちが、一人また一人と先生のもとを去っていった。
 なかには、「戸田の馬鹿野郎!」「インチキ野郎! 」と捨てぜりふを残していった者もいたのである。
 その醜(みにく)い豹変(ひょうへん)の姿は、今もって私の胸から消えることはない。
 戦時中、牧口先生が軍部権力に逮捕されたときもまた、態度を一変させて、「牧口の馬鹿野郎!」と罵(ののし)り、退転していった人間がいた。
 第一に学会を守り、また会長を守るべき最高幹部が次々と退転していったのである。
 この嵐のまっただ中にあって、戸田先生お一人が、牧口先生とともに、不退転を貫いていかれた。
 しかも、戸田先生は、「あなた(牧口先生)の慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」と言われている。
 他の弟子たちが、師匠の悪口を言っているときに、戸田先生だけは、牧口先生に最大に感謝された。
経文通りの命に及ぶ大難に遭(あ)ったことを最大の誇りとされた。
 これが、創価学会の師弟である。
 仏法の究極の師弟の姿である。

○ 阿修羅(あしゅら)のごとく
 一、私も、「同じ心」で師匠である戸田先生にお仕えした。
 戦後の混乱のあおりを受けて、戸田先生の事業の挫折は、深刻を極めていた。
 事態を聞きつけた新聞記者が取材にきた。
 まかりまちがえば、先生に法律的な制裁が科せられる恐れもあった。
 そのために先生は、学会の理事長も辞任されたのである。
 債権者は戸田先生の自宅にまで押しかけていた。
 まさに絶体絶命であった。
 このとき、戸田先生が、私におっしゃった言葉が忘れられない。
 「大作、頼んだぞ。命のあるかぎり、戦いきってくれ」と。
 戸田先生は、若き私を心の底から信頼してくださった。「大作がいれば、心配ない」と。
 私は、「先生、戦います」と心に誓い、御本尊を抱きしめるような思いで祈った。「戸田先生をお守りさせてください。私に力をください」と。
 そして、自分のすべてをなげうって、阿修羅のごとく、戦って戦って戦い抜いたのである。
 給料は、何力月も遅配のまま。木枯らしが吹く季節になっても、オーバー一つ買えなかった。
 持病の肺病にも苦しめられた。
 他の青年のように、ゆっくりと外で食事をするような時間もなかった。しかし、偉大なる師匠とともに、二度とない青春を悔いなく戦える誇りと喜びで、わが心は王者のごとく輝いていた。

○ 「永遠に君のことは忘れない」
 一、私は、望んでいた進学も断念し、365日、先生のお側で働いた。
 「そのかわり、ぼくが大学の勉強を、みんな教えるからな」と、漢文、経済、政治、法律、化学、天文学など、ご自身の持てる万般の学識を、私に注ぎ込んでくださった。
 その薫陶があったればこそ、今の私がある。
 晩年、戸田先生が、しみじみとこう言われた。
 「大作、本当にすまなかったな。お前には、どれだけ助けてもらったかわからない。永遠にお前のことは忘れないよ」
 わが子以上に、弟子を愛してくださった、慈父のごとき師匠であった。
 まことに有り難き、会い難き、不世出の師匠であった。
 この厳粛なる「師匠と弟子の結合の力」によって、今日の世界的な学会の土台が築かれたのである。
師弟不二」こそが学会の根本の道である。


さあ立正安国の使命の大道を
―― 今月23日から未来部の躍進月間がスタート ――
光景の育成が未来を決する
《君よ 先輩を越えゆけ!》「青は藍(あい)より出でて藍より青し

○ 師弟の結合から宇宙大の力が!
 一、御書には厳然と仰せである。
 「よき弟子をもつときんば師弟・仏果(ぶっか)にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」(900頁)と。
 広宣流布という大目的に向かって、師弟の呼吸を合致させていけば、必ず事は成就する。
 反対に、呼吸が合わなければ、何事も成し遂げることはできない。広布の戦いは勝てない。
 これが大聖人の御確信である。
 広布のため、友の幸福のため、御本尊に祈りに祈り、大聖人の御心に連なっていくことである。
 大聖人と「同じ心」で勇敢に「三類の強敵」と戦っていくことである。
 そうすれば、自ずと、自身の内にある仏界の宇宙大の力を引き出すことができる。
 それが仏法の方程式である。
 だからこそ、牧口先生も、戸田先生も、仏法の師弟に生きよ、と繰り返し、教えられた。
 そして、模範の師弟の姿を、わが身をもって、後世の弟子に教え残してくださったのである。
 仏法の師弟に勝るものはない。
 いかなる三障四魔の嵐に襲われようとも、創価の師弟は断じて負けない。必ず勝っていける。
 私は、創価の師弟の偉大さを、現実のうえで宣揚(せんよう)してきた。
 あらゆる広布の戦(いくさ)に勝ちに勝って、その「現証」をもって、師弟の正義を証明してきた。
 峻厳な師弟の絆(きずな)を自覚すれば、無限の力がわくのである。


○《信濃町の由来》 親子で信義を貫いた永井信濃守(しなののかみ)

○ 全世界の友が「信濃町」へ
 一、学会創立75周年の上半期、じつに多くのわが同志が、全国・全世界の各地から、遠いところ、東京に足を運ばれ、信濃町の学会本部を訪問してくださった。
 日蓮大聖人は、山河を越え、はるばる馳せ参じた弟子に対して、その信心を讃えられ、こう仰せである。
 「山河を越えるには苦労が多い。たとえ志はあっても、行動にあらわすことは難しい。そうであるのに、今、あなたが志をあらわされたのを見て、その信心が並大抵でないことが分かります。必ず法華経十羅刹女(じゅうらせつにょ)が守られるであろうと、頼もしく思っています」(同1554頁、通解)
 広宣流布の勝利のため、いかなる労も借しまず、勇敢に行動を貫いた、わが学会の同志の深き信心を、大聖人がこよなく讃嘆されていることはまちがいない。
 仏に等しい、尊く健気(けなげ)な同志の皆さま方に、私は妻とともに題目を送り続けている。
 感謝の思いを込めて、ここ信濃町にちなんだ歴史を、少々、語らせていただきたい。
 一、JRの信濃町駅から学会本部を望む北側の一帯には、かつて、江戸幕府重臣・永井信濃守(永井尚政=ながいなおまさ))をはじめとする永井家の下屋敷(本邸以外に江戸近郊に設けた控えの屋敷)が広がっていた。
 「信濃町」の名称は、この永井信濃守の「信濃」に由来している。
 江戸時代の古地図(こちず)と照合すると、現在、学会本部、聖教新聞本社、創価世界女性会館、民音文化センターなどが立つ場所は、この永井家の屋敷と、ほぼ重なっている。
 これまでも折にふれ、永井信濃守については語ってきたが、この永井家の祖(そ)は、永井直勝(なおかつ)、すなわち尚政の父である。
 直勝は、徳川家康から絶大な信頼を寄せられ、一生涯、その信頼に応えて戦った人物である。
 直勝は、10代の時から家康に仕え、家康の命によって、家号(やごう)を「永井」と称するようになった。
 若き直勝の初陣(ういじん)は、天正12年(1584年)の「小牧・長久手(ながくて)の戦い」である。家康直属の若武者として、22歳の直勝は勇猛果敢に戦い、武勲(ぶくん)を挙げた。
 その後、直勝は家康の側近として、慶長5年(1600年)、天下分け目の決戦「関ケ原の戦い」に先立って、諸大名を味方につける重要な情報戦・外交戦においても、陰で活躍していった。
 慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」では、家康の目となり、耳となって、敵の状況などを詳細に偵察する「斥候」の役も果たしている。
 翌年の「大坂夏の陣」に際し、家康の軍に騒動が持ち上がったときには、直勝が奔走(ほんそう)して、それを鎮めた。混乱を好機に転じて、かえって士気を高め、団結を強めて、戦いに臨んだといわれる。まことに天晴れな名将として、勝利の歴史を残してきた。
 家康亡き後も、直勝は2代将軍・秀忠に仕えた。天下を取った徳川幕府の体制を盤石に固(かた)めるため、諸大名の改易(かいえき)など難しい案件の対処を託され、各地に派遣されている。そして、その重責を厳然と果たしていった。

○ 後継者が活躍
 一、この直勝のあとを立派に受け継いだのが、嫡男(ちゃくなん)の尚政(信濃守)らである。
 尚政は、14歳で、父・直勝とともに戦陣に参加し、16歳から2代将軍・秀忠の近習(側近)となっている。
 家康、秀忠、家光、家綱と、4代にわたる将軍に仕え、草創期の徳川幕府を支えた。なかんずく、秀忠の時代には、老中の要職を務め上げ、徳川家の恩に報いていった。
二男・直清(日向守)も、2代・秀忠に仕え、家光、家綱からも深く信用されている。政治的な手腕に秀で、幕府も、その手腕を頼みとした。
 寛永(かんえい)19年(1642年)には、兄・尚政とともに、京都や大阪の貧しい人々を救済している。善政を行い、領民から非常に慕われたことでも知られる。
 永井家の領地は、関西創価中学・高校のある大阪府交野(かたの)市、また関西創価小学校のある枚方(ひらかた)市にもあった。
 さらに、隣の寝屋川(ねやがわ)市の池田村と呼ばれた地域も、永井家の領地であったという。
 三男・直貞(豊前守)は、幼いころから、3代・家光に仕え、本陣・江戸城の警備などに当たる小姓組のリーダーとなった。
 四男・直重(式部少輔)も、15歳の時から秀忠に仕えている。
 一、思えば、イギリスの歴史家トインビー博士は、私との語らいのなかで、歴史上の偉大な政治家として3人の名を挙げておられた。
 中国の漢の高祖(劉邦=りゅうほう)と、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス、そして、戦国の乱世を勝ち抜いて、天下太平の世を開いた徳川家康であった。
 家康はその生涯の大半において、富士山が見える場所に城を構えて指揮を執った。<江戸、駿河(するが)、御殿場(ごてんば)など>
 信濃町は、古来、富士を望む名所と謳(うた)われてきた。この地にゆかりの永井家は、父も、そして子も、誇り高き「信義の道」を貫き、徳川15代の繁栄の礎を築き上げていった。その歴史の劇が偲(しの)ばれてならない。
 <永井信濃守などについては、『新・信濃原の郷土史』本社刊、『永井直勝』一行院刊等を参照した>

○ 未来部は「宝」!
 一、日蓮大聖人は、南条時光の父子を讃えられて、こう仰せである。
 「亡くなられた兵衛七郎殿((ひょうえしちろう=南条時光の父)こそ情けに厚い男だと人は言いましたが、あなた(時光)はその御子息であるから、父上の優れた素質を、より一層、受け継がれたのでしょう。
 青は(藍からとり出すが、その青さは)藍より青い。氷は(水からできるが、その冷たさは)水よりも冷たい。(と同じように、あなたが父を超えるほど立派に成長されていることは)ありがたいことです。ありがたいことです」(御書1554頁、通解)
 青は藍より出でて藍より青し ―― まさに「出藍(しゅつらん)の誉れ」である。
 何事であれ、先人の心を継ぎ、発展させゆく青年ありて、永遠の向上の道は開ける。
 創価学会の万代の興隆、そして、広宣流布の万年の勝利を決定づけることができるかどうかは、ひとえに後継の育成にかかっている。
 この7月23日から、いよいよ「未来部躍進月間」が始まる。
 青年部の21世紀使命会、壮年・婦人部の未来部育成部長、そして学生部の進学推進部長の真剣なご健闘に、あらためて感謝申し上げます。
 次の50年を見つめながら、若き友の成長をともどもに祈り、「宝の未来部」の育成に一段と力を入れてまいりたい(大拍手)。


青年は攻めて勝て 
   
―― 承和の名横綱は「押し相撲」 ――
ナチスのウソと戦った劇作家》
    語り足りなかったということがないよう
    幾千回となく語り継がれたことを
    僕らはさらに繰り返し語り続けよう!
    
○ 相撲の常勝将軍
 一、「強敵(ごうてき)を伏して始て力士をしる」
 有名な「佐渡御書」の一節である(957頁)。
 強敵との激戦また激戦を勝ち越えて、自らを第一級の「広宣流布の力士(力ある士)」と鍛え上げていくのが、学会青年部の伝統である。
 古来、大相撲では、「押さば押せ。引かば押せ。押して勝つのが相撲の極意」と言われる。相手がどう出てこようとも、押して押して押しまくること、攻めて攻めて攻め抜くことが、相撲の基本だというのである。
「昭和の名横綱」と謳われた第32代の玉綿(たまにしき)、第35代の双葉山(ふたばやま)の二人の横綱も、「攻めの相撲」で有名である。ともに「常勝将軍」と呼ばれた。
 玉綿は、「怒濤の寄り」といわれる速攻が身上だった。
 双葉山は、いまだに破られぬ69連勝の大記録を打ち立てた。その連勝における決まり手(勝負が決まった時の技)は、「上手投げ」や「寄り切り」や「寄り倒し」が多かった。攻め抜いて勝ったのである。
 一、ともあれ、御書には、「法華経の行者を、第六天の魔王が必ず妨げる」(981頁、通解)、「魔の習癖は、善事を妨げて悪事をさせるのを悦ぶことである」(同頁)と仰せである。
 ゆえに、魔にスキを見せてはならない。
 魔を魔と見破り、打ち破っていくことだ。
 きょう7月16日は、日蓮大聖人が「立正安国論」をもって、時の最高権力者を諌暁された日である。
 大聖人は「凶(きょう)を捨てて善に帰し源を塞(ふさ)ぎ根を截(たつ)べし」(同25頁)と仰せである。
 邪悪の根を断て!不幸の源をふさげ! ―― この厳命の通りに、学会は、強くまた強く、攻めて攻めて攻め抜いていくのである。
 戸田先生は、厳然と一言、「追撃の手をゆるめるな!」と遺言された。
 私は申し上げたい。
 わが青年部よ、正義の執念で勝ち進め!
 わが創価の同志よ、「立正安国」の勝利のために、痛快に真実を語りまくれ! ―― と。
 ナチスと戦ったドイツの劇作家ブレヒト。彼は戦後、ある平和会議に寄せて訴えている。
 「語り足りなかったなどということがないように、いく千回となく語りつがれたことを、ぼくらはさらにくり返し語りつづけよう!」(石黒英男訳『ブレヒトの政治・社会論』河出書房新社

○ 切れ味鋭く反撃
 一、邪悪には、断じて破折(はしゃく)の声を上げることである。切れ味鋭く、正義を叫ぶことだ。
 「一」言われたら「三」言い返す。「三」言われたら「十」言い返す ―― この不屈の反撃精神こそ言論戦の方程式である。
 言うべきときに言わなければ、自分が損をする。また、悪が増長するだけである。
 語らなければ、心は伝わらない。心で思っていても、それだけでは、相手には分からない。
 真実を叫ぶのだ。そうすれば、敵をも味方に変えることができる。
 「声仏事を為す」(御書708頁)である。わが信念を叫び抜く声の力こそ、広宣流布の原動力である。
 勝利の要諦(ようてい) ―― それはまず、御本尊にしっかり祈り抜くことだ。そして智慧を出し、「最高の作戦」を立て、積極果敢に打って出ることである。
 我らはどこまでも、この偉大なる「法華経の兵法」で勝ち進んでまいりたい(大拍手)。