094「伸一会」結成30周年
『師弟』こそ最極の人生
わが弟子よ「常勝」の名指揮を頼む
「不惜身命」の信心の勇者たれ
「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である。
…………
奮起せよ!青年諸氏よ。
闘おうではないか!青年諸氏よ」――
恩師・戸田先生の「青年訓」の有名な一節である。
先生は、青年が大好きであった。心は、常に青年と一緒であられた。そして、わが子以上と思えるほど、青年を愛してくださった。
「現在の戦いも、青年で決まる。未来の戦いも、青年で決まる」――それが、先生の結論であられた。
先生は、青年のために戦い、青年と共に戦った。
青年と共に生き、青年のみを信頼して一生を送られたといっても、過言ではない。
その新しき世紀を創りゆく若き中核となったのが、「水滸会」であった。
この水滸会が、戸田先生が掲げられた七十五万世帯の誓願成就の原動力となったことは間違いない。現在も、厳しき訓練の数々を受けた多くの水滸会出身者が、広宣流布の第一線で大活躍をしている。
私もまた、恩師の示された方程式のままに、二十一世紀の世界広宣流布の展望を明確に描きながら、青年の育成に全力をあげてきた。その中核が「伸一会」である。
「水滸会」は、戸田先生が作られた。
「伸一会」は、第三代会長として、私が命名し、作った会である。
◇
その「伸一会」の誕生は、昭和五十年であった。
学会創立四十五周年の五月三日、全国の男子部の代表、そして学生部の代表メンバーで結成した。
以来、幾たびとなく、この優秀な若き弟子たちと、私は真剣な語らいをしてきた。
鹿児島の霧島にある九州総合研修所(現・二十一世紀自然研修道場)での研修会も、大変に思い出深い。
東京・八王子の創価大学のキャンパスを借りての集いも、まことに意義の深いものであった。
そして、恩師との思い出多き長野県の天地での研修も、忘れることができない。
ある時は、食事を共にしながら、あらゆる次元のことを語りあった。
ある時は、スポーツに汗を流し、体当たりで若き友と生命の力をつくりあった。
私は、ともかく、この若き指導者たちが成長しなければ、学会の未来はないことを熟知していた。
本物の弟子を育てなければ、広宣流布はできないことも知悉していた。
「不惜身命」の青年を鍛えていかなければ、創価の栄光と勝利はないと、青年の鍛錬を決意していた。
人材の育成こそが、一切の勝利を決する。
青年の薫陶こそが、根本中の根本の課題である。
これを、戸田先生は、私の胸に叩き込んでくださった。
戸田先生の指導は、楽しく深かった。私は、それを全生命で受け止めた。
そして、その指導をまた、青年たちに語り、未来に教え残しておきたかった。
私は、青年に対して、最高最大に真剣であった。
いかなる宗教団体にも負けぬ学会を築くために、いかなる時代にも揺るがぬ基礎をつくるために、真剣であった。
その決意が、今や一千万の不滅の光を放ちゆく創価の団体となったことは、皆さん、ご存じの通りだ。
世界的な創価学会は、いかなる迫害があろうが、弾圧があろうが、隆々と発展し、勝利の道を前進している。
◇
仏法の
創価の原理の
生命の血脈
君等にあるなり
私が十九歳で、戸田先生と初めて出会って師弟の契りを結んだ日は、昭和二十二年の八月十四日であった。
その八月十四日の意義を受けて、皆が「伸一会の日」と決めたのである。
かつて、山本伸一は、東京の蒲田、文京で、さらに北海道の札幌、夕張で、そしてまた、大関西で、さらに中国の山口県で、広宣流布の大城を厳然と築いていった。
その山本伸一の名を冠した「伸一会」の使命とは、何か。
第一に、「伸一会」は、創価学会を後継する「不惜身命」の指導者を意味するのであった。
「後継」とは、単なる「継承」ではない。「後続」とも異なる。
身命を惜しまずに、自分が戦い、自分で新たな原野を切り開き、広宣流布の一切の責任を担い立っていくことだ。
さらにまた「伸一会」は、「常勝」のリーダーの異名でもあったのだ。
いかなる三類の強敵との大闘争にあっても、広宣流布をなしゆく、わが学会を守りに守り抜くことだ。
そして、勇敢なる将の将として、師子奮迅の戦いをもって、「創価完勝の旗」を断固として打ち立てていくことが、その目的である。
その目的通りに、「伸一会」の一人ひとりは、山本伸一の如く、将の将となって、広布圧勝の金字塔を打ち立てゆくことを誓い合ってきた。この「伸一会」の結成から、今年で三十周年である。
五期まで発足し、三百人を超える錚々たる「将の将」としての陣列となった。
メンバーは今、副理事長や副会長、また方面長や総県長等々、名実ともに、各地の広布の中核のリーダーとして見事な指揮を執っている。
さらに、学術界や教育界など、社会の各分野でも、幾多の人材が枢要な立場で活躍している。
その弟子たちの勝利の姿こそ、恩師である戸田先生の最大の喜びであると、私は確信している。
◇
私は、イギリスの女性作家シャーロット・ブロンテの、価値ある青春の生き方を教えた言葉が好きであった。
「感傷的な悲しみに耽り、心ひそかに悲歎や空しい思い出に浸り、行動もしないで苦しい倦怠のうちに青春を空費し、何もしないでただ老いてゆくのは軽蔑すべきことだ」
ともあれ、信仰は、師弟は、年齢ではない。立場や役職でもない。
いつ、どのような境遇にあろうとも、今いる場所で、厳然たる師弟の完勝のために戦う正義の勇者たれ!
これこそ、「伸一会」、そして婦人部の人材グループである「伸峯会」の自負とするところだ。
◇
戸田先生の指導は懐かしい。私の胸に、幾重にもその師の声が残っている。
先生は、こう宣言された。
「わが青年部が、妙法蓮華経の力をもって起つ以上、このたびの広宣流布の革命が、できないわけがないと信ずる」
私もまた同じ心境である。
先生の指導は、まことに明快であった。
「病気に悩む者は病気に縛られており、経済苦に悩む者は経済苦に縛られている。
この苦悩に縛られた生活を断ち切る利剣は、妙法である。
全国民を縛られぬようにしていくのが、学会の使命であり、精神である」
そして先生は、こう断言なされた。
「今は、逆縁広布である。御聖訓通りに大難がなければ、広宣流布はできない。
ゆえに大聖人が、『難来るを以て安楽と意得可きなり』(御書七五〇ページ)と仰せになっている意味を、知らねばならない」と。
師が「折伏の闘将」ならば、その弟子は「折伏の闘士」であるべきだ。
戸田先生は、常に御書を拝し、厳しく指導された。
ある日、ある時、峻厳に拝された一節には――
「をなじくは・かり(仮)にも法華経のゆへに命をすてよ、つゆ(露)を大海にあつらへ・ちり(塵)を大地にうづ(埋)むとをもへ」(同一五六ページ)
限りある人生である。法を守り、法を弘めるためには、命すら惜しむな!
大願に生き抜けば、「露」「塵」のように、はかなくも見える生命が、「大海」や「大地」の如き、仏の大生命と一体の大境涯となるからである。
◇
師と同じ誓願に生き抜く師弟の正道ほど、尊く美しきものはない。
これこそ、仏法の真髄であり、人生の骨髄である。
そこに、最極の人生の晴れ晴れとした、朝日に輝く、悔いなき人生の大勝利者の笑顔が待っているのだ。
仏法は、そして学会は、どこまでも「師弟不二」の心で戦い、勝ってきた。
この方程式の哲理を失う者を、増上慢というのだ。
カントは、「高慢は阿呆」と呵責した。
戸田先生は、増上慢の反逆者に対しては、最も厳しかった。その人生の哀れな最終章の姿は、ご存じの通りだ。
◇
新世紀
全てを頼まむ
広布かな
いつの日か、「伸一会」に贈った一詩である。
この期待に応えて、「伸一会」は堂々と勝ってきた。
誓いは果たしてこそ、誓いである。
私たちは、若き日の誓いのままに走り抜いてきた。
我らの師弟不二の生命は、透き通った青空のように、雲一つなく、広々と晴れ渡っている。
十九世紀イギリスの名宰相ディズレーリは叫んだ。
「逆境ほど人を育てるものはない」と。有名な言葉である。
幸福を求め抜いて、生きゆく民衆! その民衆のために、広宣流布の勝利が必要なのだ――これが、戸田先生の叫びであった。
この師の願望の魂を、弟子の我々は、いずれの時代になっても、断じて忘れてはならない。そして、大切な後輩たちを見つめ、育て、守り切ることだ。
私が心から信頼する「伸一会」の使命深き、勇敢なる哲学者の君たちよ!
絢爛たる創立七十五周年の歴史的な大闘争に、美事なる「常勝の闘将」と謳われる名指揮を頼みたいのだ。
完勝また完勝の劇を、悠然と綴りゆこうではないか!
偉大なる
広布の誇りの
将の将
久遠元初の
誓い果たせや
――十六日昼、宮城県沖を震源として発生した強い地震により、最も被害を受けられた東北地方をはじめ、被災地域の皆様に、心よりお見舞い申し上げます。