116 「7月3日」と学会精神

――輝く『人間勝利の世紀』は始まった――

わが弟子よ生き抜け勝ち抜け朗らかに!

――「王難」の学会に正義の血脈―― 


試練は本物の人間を強くする!多くの偉人が「投獄の難」 

 イギリスの詩人バイロンは叫んだ。
 「世の見栄っぱりを容赦はしない」

 七月の三日――。
 それは、昭和二十年、戸田城聖先生が、獄死なされた牧口常三郎先生の偉大な遺志を継がれて、出獄した記念の日である。
 そして、その十二年後の昭和三十二年、戸田会長の直弟子である私が入獄した日でもある。
 「開目抄」には、仰せである。「国主の王難必ず来るべし」(御書二〇〇ページ)
 厳しき御聖訓の通りに、創価学会の初代、二代、三代の会長は、みな王難を受け切ってきた。
 これこそ、日蓮大聖人から、わが学会のみに「立正安国の血脈」、そして「広宣流布の血脈」が、滔々と流れ通っている厳たる正義の刻印といってよいのだ。



 「人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまた牢獄である」と、アメリカ・ルネサンスの哲人ソローは宣言した。青春時代に読んだ、私の胸に刺さっている言葉の一つである。
 私が今日まで出会いを結んできた多くの世界の指導者たちは、この“投獄の難”を経ている。
 ローマクラブの創立者のペッチェイ博士もそうであられた。そして、周恩来総理、アメリカの人権の母パークス女史、ロシアの芸術の母サーツ女史、インド独立の闘士バンディ博士、ブラジル文学アカデミーアタイデ総裁も、皆そうであられた。
 さらに、南アフリカの人権の父マンデラ前大統領は、二十七年半・一万日に及ぶ獄中闘争を耐え抜き、出獄されたその年(一九九〇年)に、私ども創価学会を訪問してくださった。
 歴史に誉れ高く、九回にもわたって投獄されたインドのネルー首相は言った。
 「入獄はいろいろな仕方で人々に影響をあたえるものである。あるものは挫折し、弱気になる。他のものは一そうたくましくなり、抱く信念はいよいよ堅固になる」と。
 あまりにも有名な言葉だ。
 そして、牢獄で強くなった勇敢なる人間こそが、無数の民衆に強く影響を与えていくと結論している。
 現在、私が対談を重ねているアルゼンチンのエスキベル博士(ノーベル平和賞受賞者)も、獄中での過酷な拷問に屈しなかった。
 その支えは、何であったか。「身体は拘束できても、精神を幽閉することはできない」「自由は、私自身の中にある。民衆の側に立って戦う決意や誓いに脈打つ」という確信であったと断言されている。
 だからこそエスキベル博士は、大聖人の「撰時抄」の一節に心からの共感を示されていた。
 それは、「王の権力が支配する地に生まれたのであるから、身は従えられるようであっても、決して心は従えられない」(同二八七ページ、通解)との御聖訓の一節であった。
 その精神を体現してきた、創価学会の歴代会長の闘争に、博士は感動し、感謝するとも語ってくださった。
 そして博士は、創価の青年に厳然と打ち込まれた。 青年が今、何をしているかで未来は決まる。人権を蹂躙する悪に対しては、迅速に反応し、断固と応戦せよ、と。
 ともあれ、「七月三日」を貫く師弟の歴史を、世界の良識は、正しく、深く、見つめているのだ。



 昭和十八年の七月六日、戸田先生は、師・牧口先生と共に、軍部政府の弾圧によって逮捕された。不敬罪治安維持法違反の容疑である。
 軍国日本は、国家神道を精神的支柱として、国民に神札等を強制しながら、戦争に駆り立てていった。
 「信教の自由」を奪い取り、正しき仏法を弾圧する黒い権力の横暴に対し、牧口先生はこれこそ亡国の原因なりと、明確に拒否したのだ。
 この大弾圧で、幹部二十一人が逮捕され、過酷な取り調べに次々と退転した。最後まで正義を貫いたのは、牧口先生と戸田先生だけであった。
 昭和十九年の十一月十八日――牧口先生は、信念を貫き通して、東京拘置所で獄死。七十三歳であられた。
 戸田先生は、獄中で一心不乱に祈り続けていた。
 若い自分に一切の罪が集まり、高齢の牧口先生は一日も早く、無事に釈放されることを祈り抜かれたのであった。
 これが、師弟の真髄である。
 しかし、年明け早々の一月八日、戸田先生は、取り調べの予審判事から、牧口先生の獄死を知らされた。
 戸田先生は、冷たい独房の壁に頭をぶつけながら慟哭し、一人決然と誓った。
 「今に見ろ。生きて牢獄を出たら、『巌窟王』の名前を使って、必ず、牧口先生の仇を討ってみせる!」 「巌窟王」とは、いうまでもなく、フランスの文豪デュマの傑作『モンテ・クリスト伯』の邦訳名である。
 陰謀で十数年も入牢させられた主人公ダンテスが、悪人に復讐するとともに、恩人に恩返しを果たす物語だ。
 いまだ愚劣な戦争が続いていた昭和二十年の夏、戸田先生は、巣鴨の東京拘置所から中野の豊多摩刑務所に移送され、未決囚のまま出所された。
 それが、七月三日であった。
 生きて獄門を出た戸田先生の胸中に燃えていたのは、巌窟王の一念であった。
 牧口先生は、広宣流布という、民衆の幸福の確立のために、一身をなげうって戦った大偉人である。多くの人びとから賞讃されても当然であるのに、どうして“国賊”のごとく迫害され、牢死しなければならなかったのか。
 戸田先生は誓った。
 ――金輪際、悪い黒い権力などを、この世において、のさばらせていくことは、断じてさせぬ。そのどす黒き権力の魔性の爪をもぎ取り、人びとがもれなく幸福に暮らせる正義の社会を築くのだ、と。
 これこそが真実の復讐であり、報恩であると、戸田先生は炎のごとく、全生命を燃やし始めた。
 そして、先生は断言された。
 「妙法の巌窟王の闘争とは、広宣流布することである」
 戦後の日本の民衆の姿は、大聖人が「世みだれて民の力よわ(弱)し」(同一五九五ページ)と嘆かれた姿そのものであった。
 そのなかで、誰が民衆に希望を送ったのか。誰が民衆に勇気を送ったのか。誰が民衆に哲学を送ったのか。誰が民衆に幸福を送ったのか。
 「一番苦しんだ人が、一番幸福になる権利がある」と、我らは叫び、人間のなかに飛び込んで、不幸な人びと、そして権力に虐げられた人びとと同苦しながら戦ってきたのだ。これが、わが創価学会である。



 昭和三十二年の七月三日、大阪府警から任意出頭を求められた私は、激流に飛び込むごとく、自ら大阪へ向かった。
 北海道からの乗り継ぎのため、いったん羽田空港に降り立つと、わが師・戸田先生が来てくださっていた。
 「もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」
 先生の目には、涙があった。痩せた私の体を、固く抱いてくださった。先生の体は熱かった。
 大阪府警に逮捕されたのは午後七時である。奇しくも十二年前、恩師が出獄された時と、同日同時刻であった。
 ――四月に行われた参院大阪地方区の補欠選挙で、残念ながら、学会員の一部に選挙違反が出た。検察は、それを、支援の最高責任者の指示による組織的犯罪だと断定して、私を拘束したのであった。全く事実無根の公職選挙法違反の容疑である。
 やがて身柄は、大阪拘置所に移された。
 常々、戸田先生が言われていた言葉が思い起こされた。
 「ひとたび、牢獄に入った場合、一生、出られないものと覚悟して戦え!」
 その決心なくして、信念の獄中闘争はできない。
 連日連夜、過酷な取り調べが続いた。
 大阪は、三十度前後の蒸し暑い日が続いた。
 私は潔白である。認める罪など、あろうはずがない。ところが、担当検事が陰険な本音を漏らしたのだ。 罪を認めなければ、学会本部を手入れし、戸田会長を逮捕――すると。
 既に体の衰弱が著しい先生が、再度の入獄という事態になれば、命にも及ぶ。
 やむなく私は、恩師をお護りするために、ひとたびは罪を認め、あとは法廷闘争で、逆転勝利を期す道を選択した。
 そして逮捕から二週間後の七月十七日、私は大阪拘置所を出所したのである。
 この間、大阪をはじめ関西の同志、また中国、四国など西日本の同志が、私の安否を心配され、旧関西本部が揺れ動くかと思うほど、連日、多くの方が駆けつけ、祈ってくださった。東京などからも、大勢、関西に来られた。
 陰に陽に共に戦ってくれた「異体同心」の尊き同志は、生涯、いな三世永遠に、私の生命から離れることはない。
 ――四年半後、裁判で、私の無罪が確定した。
 正義は勝ったのである。



 人間の本性は、ふだんはなかなかわからぬものだ。
 しかし、大難が起こった時、人は本性を露にする。 戦時中、牧口先生、戸田先生が逮捕・投獄された時、牧口門下の驚きよう慌てようは滑稽なほどであったという。
 日ごろは強信者ぶって、牧口先生の一番弟子であるかのように吹聴していながら、自分に火の粉が降りかかることをひたすら恐れる者もいた。
 そして、「私は牧口の弟子ではない。牧口の野郎に騙されていたんだ」と、口を極めて罵ったのである。 戸田先生が出獄した時も、辛うじて退転せずにいた幹部は怯え抜いて、病めるウサギのごとく穴居している状態であったという。
 大聖人は「おご(傲)れる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり(御書九五七ページ)と仰せである。 傲慢、虚勢、見栄っ張りは、大難に遭うや無様な姿をさらけ出すのが常である。
 ゆえに、戸田先生は、弟子たちに厳しく言われた。 「傲慢になるな。裏切り者になるな。また、裏切り者は断じて許すな!」
 先生は、出獄するや、自分が逮捕されてから、誰が、いかなる態度、行動をとったかを、克明に奥様に聞かれたという。
 峻厳な先生であられた。
 私が逮捕・勾留された時も、「これで、もう彼はだめだ」と勝ち誇ったように語っていた幹部もいたと聞いた。無責任な弁護士と一緒になって、冤罪の私に「有罪は免れない」と言った幹部もいた。
 そのなかで、「無実の先生を逮捕した権力が憎い。代われるものなら、私が代わりたい」と涙し、権力の魔性への戦いを誓った健気な同志もいた。私は胸を熱くした。
 御聖訓には「鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし」(同九五八ページ)と仰せである。
 いかなる試練にあおうとも、師と共に、同志と共に、広宣流布へ信念の闘争を貫き通していくことこそ、真の学会精神なのだ。



 インドの独立へ、「非暴力の抵抗」という未曾有の民衆運動を指導したガンジーは、「立派な運動はいずれも、無関心・嘲笑・非難・抑圧・尊敬という五つの段階を経るものである」と指摘した。
 運動の進展とともに、周囲から向けられる反応が変わっていくというのである。
 最初は無関心。その通りだ。
 次いで嘲笑。その通りだ。
 非難。その通りだ。
 抑圧。全く、その通りだ。
 そして尊敬――。
 一人ひとりの「信心即生活」「仏法即社会」の実践においても、この方程式は当てはまる。
 社会部や団地部の方々などの尊い体験を伺っても、職場や地域で、さまざまな圧迫をはね返して、信頼と尊敬を勝ち得ておられる。
 ともあれ、ありとあらゆる強敵の迫害の嵐を乗り越え、勝ち越えて、創価の三代の師弟は、平和と人道の輝ける大道を開いた。
 アルゼンチンの名門ノルデステ大学のトーレス総長は、神戸で行われた、私への名誉博士号の授与式の席上、こう語ってくださった。
 「創価学会は、国家権力の迫害を受けながらも、すべての困難を乗り越え、対話の重要性を強調し、全世界を舞台に『価値創造』の理念に基づく平和と相互理解の文化の構築を推進してこられました」
 世界が創価学会人間主義を賞讃する時代になった。
 ちっぽけな嫉妬の悪口など、風の前の塵である。
 「卓出した人物が、他から嫉まれたり、憎まれたり、謗られたりするのは当然である。むしろ名誉である」とは、ユゴーの達観であった。



 昨年の二月、私は、ベラルーシミンスク国立言語大学のご一行をお迎えした。
 ナチスの占領を打ち破ったベラルーシ独立記念日は、一九四四年の「七月三日」であった。
 戸田先生が出獄される、ちょうど一年前のことである。
 誠実な女性教育者であられるバラノワ総長は、感動の面持ちで言われた。
 「昨年(二〇〇四年)の独立記念日に、私たちは盛大に六十周年を祝いました。
 今年(二〇〇五年)の七月三日は、今度は創価学会の皆様が、戸田先生が世界平和の闘争に立ち上がった、出獄六十周年を祝う日ですね。本当に深い意義を感じます」
 その“出獄六十周年”を、私は赫々たるわが同志たちとの勝利で飾った。
 明年は、私の入獄より五十年を迎える。
 その明年七月を、いまだ、かつてない大勝利で飾ろうと、私が信ずる関西のわが弟子たちは、すでに新たな大行進を、威風も堂々と開始してくれている。
 これが、関西魂だ。
 これが、学会精神だ。
 輝く「人間勝利の世紀」は、いよいよ始まった!
 
 忘れまじ
   七月三日の
     この文字は
    師弟不敗の
       記なるかな

 七月三日の朝は、妻と御本尊に向かい、新しい誓いをもって、勤行し唱題する。
 そして、終わったあとは、二人で固い固い同志の握手をするのが、伝統になっている。
 恩師・戸田先生の御写真を見つめながら―一。