第8回 創価大学の開学
「よしっ!」――四〇年前、何もない丹木の丘で池田会長は決然と立った。
あらゆる逆風、偏見、誤解にさらされ、創立事業は困難を極めた。
◆丹木の丘に池田会長が登った。
▼四〇年前の八王子で
冬枯れた丘に池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長が登ると、雑木林や黒い土がむき出しの耕地が見えた。
空では鳶が羽を大きく広げ、くるりと旋回している。
東京・八王子の丹木町。木漏れ日がまぶしい二月の午後であった。
ぽつんと小屋が建っている。落ち葉を踏みしめ、木々の間から丘陵地帯を見つめていた会長は、小さな椅子を出して、腰を下ろした。
周辺では最も高い丘だが、眺めは閑散としていた。樹林と農地がパッチワークのように点在している。自然こそ豊かだが、ほかには何もない。
“殺風景な場所だ。ここに本当に学生たちが来るのだろうか……”
同行した青年たちが不安を覚えるのも当然であった。
丘の斜面には、陸稲の畑も見えた。水稲も育たないほど土地はやせていた。
一九六六年当時の八王子である。市街から、舗装されていない道を通って、車で四〇分ほどかかる。
バサバサバサッ……。野鳥の羽音が響いた。
会長は、何ごとか考えをめぐらせていた。
*
丹木町の雑木林に囲まれた古い一軒家に、二〇人ほどの町民が集まっていた。よほどのことであった。結婚式か葬式でもなければ、これだけの人は集まらない。
「大学なんて、とんでもない。もめごとを持ち込まれたら、困る!」
口火を切ったのは、生まれてからずっと、この土地で暮らしてきた七十がらみの地主だった。
「そうだ、そうだ。デモや暴力沙汰が起きては、かなわん」
タオルを首に巻いた、何人もの男たちが、相槌を打つ。
「土地は売らない!」
「よそ者は入れるな!」
思い詰めた顔で眉間にしわを寄せている者もいる。一同は申しあわせたように頷いた。
*
どれくらいの時間がたったのだろうか。
丘の斜面には、小屋の影が長く伸びはじめていた。
「よしっ!」
池田会長の気迫に、後ろにいた青年たちは、びくりとした。
鋭い声であった。
何かに挑む合図のようでもあった。
▼設立審議会
池田会長が創価大学の設立構想を初めて発表したのは、一九六四年六月三十日である。第七回学生部総会の席上であった。
翌六五年の十一月八日、創価大学の大学設立審議会が発足した。
審議会の会長には、池田会長。
三七人の委員をもって発足し、同月二十六日、第一回の設立審議会が行われた。
建設候補地の視察・選定、建設計画の策定、研究・教育組織の基本構想の検討など、いっせいにスタートした。
まずは大学の場所を決定することである。いったい、どこに建設するのか。
会長は、立地の条件を次のように示していた。
自然が豊かなこと。土地が広々している。都心から離れた静かな場所。そして、富士が見えるところ――。
東京都下の詳細な地図を広げ、にらめっこする日々が始まった。
八王子市、町田市、多摩市など、大きく分けて七つの地域が候補にのぼった。
この地域の中から、さらにポイント地点をリストアップした。後は、しらみつぶしに現地を踏査するしかない。
設計担当者らが、一カ所一カ所、丹念に検分したが、条件に見合う土地は見つからない。
次第に焦燥感がつのる。候補地を書き出したリストには次々と×印がついた。
一九六六年が明けた。
東京の郊外・八王子には、前日の突然の大雪が深く残っていた。
悪条件の日である。視察チームは朝から気が重かった。路面は凍結し、黒い中古車が度々スリップした。
出直そうか、と何度も思った。
八王子は起伏が激しく、車は何度も立ち往生した。そのたびに車から降りて後ろから押した。
「ここでもない。次に行こう」
重い身体を引きずるように、最後の候補地・丹木町にたどり着いたのは、夕闇の帳が降り始めたころだった。
あえぐようなエンジン音を立てて、車は小高い丘を登った。
「さあ、ここはどうだ」
先に車から降りたメンバーが無言で立ちつくしている。小さなため息がもれている。
あたりを見渡した。
「いいじゃないか……」
何もない。しかし土地と自然は、いくらでもある。尾根沿いに歩みを進めると、彼方には、夕焼けに映える白雪の富士が、はっきりと見える。
条件通りである。
「すぐに戻ろう!」
彼らは車に飛び乗った。
その夜、信濃町の創価学会本部で、報告を受けた会長は「私が行ってみる」と即答した。
*
東京の西郊に位置する八王子の町は、変化の波にさらされていた。
国鉄(当時)は、一九六七年から八王子を経由する東京―高尾間に特別快速電車の運転を開始する。
中央高速道路も、調布―八王子間の開通が決まっていた。
日ならずして、新たな交通の要衝となることは明らかだった。
高度経済成長の時代。都下の地価は上昇を始めていた。数年のうちに、八王子の地価も高騰するだろうことは、十分に予想された。
そうなると、土地の買収は思うように進まない。
折から学生運動も過熱している。大学の誘致など、住民は大反対だった。
「どうしたものか……」。悩む審議会のメンバー。
池田会長は言った。
「住民が恐れを抱いているのは、大学紛争に対してであって、大学自体に対してではないはずだ」
地元住民の説得にあたった若手職員の弱気は次第に消えた。
「創価大学は、大学紛争を絶対に起こさない大学だ。教師と学生が一体の新しい大学である。そのことをきちっと説明すれば、必ず分かってくれる」
▼映写機を背負って
そんな思いを伝え聞いた、地元・八王子の創価学会員は、意外な行動に打って出た。
ある青年は、8ミリフィルムと映写機を背負い、反対住民の一軒一軒を回り始めた。
学会の意向でも強制でもない。八王子のいたるところで、青年たちが自発的に動き出していた。
「なに? となりのあんちゃんが、8ミリを持ってきたのか?」
即席の映写会が開かれると、地域の顔見知りが興味津々で集まってきた。
映写機がスクリーンに映し出したのは、学会青年部の体育大会や文化祭である。
生き生きとした表情は、ヘルメットをかぶり、タオルで顔を覆った学生と明らかに違う。はつらつと体操し、満ち足りた顔で合唱し、美しく乱舞している。
暗がりの中で、地元の古株が一人ごちた。
「別に怖くないな」
「平和の祭典か……」
「暴力宗教のうわさとは違うな」
映写が終わると、握手を求めてきた。
「お前ら、なかなかいいことをやってるな」
青年たちの真剣さが、住民の心を動かし始めた。ぽつり、ぽつりと、土地の買収に応じる人が出てきた。
これに、大学の担当者も勢いを得た。
それでも、地主のなかには、強硬に反対し続ける人もいた。一〇年間、毎週毎週、通い続け、やっと応じてくれた場合もあった。
また、土地は取得できても、簡単に転用できるわけではない。
その昔、丹木町をはじめ、加住町、谷野町、左入町のあたりは、加住村という農村だった。起伏が激しく、雨が降ると足元が滑る。田畑までの簡単な上り下りもできない。
そんな荒れた農地であったが、大学用地にするためには手続きがいる。「農地転用許可」を地元の農業委員会に申請しなければならない。
厄介な作業だった。
公図と呼ばれる図面の作成が非常に複雑である。集めた土地謄本は、積み上げると一メートルほどの高さになった。
小さな土地が多い。細かく入り組んでいる。書類づくりには時間がかかった。精神をすり減らす。終日、作業すると頭の芯がずきずきした。
こうした地域が開発される場合、とかく一部の政治勢力が目をつけてくる。反対運動と称して住民を巻き込み、体よく宣伝活動に利用することが多い。
だが、こと創価大学の建設用地取得にあたっては、その形跡がない。どうやら、当時、過熱していた学生運動に肩入れするので精一杯だったようだ。
騒然たる大学紛争の時代の間隙を縫って、土地取得の作業は進められた。
結果的に、農家の人々は大きな収入を得た。学生たちのアパート経営もできるようになった。何よりも町全体が若々しく、活性化された。最高の町おこしになった。
かつて一軒家に集結して怪気炎をあげた住民は語る。
「あの時は反対していたが、創価大学に来てもらって本当に良かったよ」
▼資金についての厳命
審議会の会計担当者は、ソロバンの玉をはじきながら、大きくため息をついた。
“どこから資金を調達すればいいのか”
大学建設には莫大な費用がかかる。
当時、学会本部は、日蓮正宗の正本堂や寺院の建設に力を注いでいた。
すでに創価学会の会員は三〇〇万人を突破し、新しい会館建設も急務である。
創価学園が完成してまもない時期でもあった。さらなる教育事業に振り向けるべき資金は限られていた。
しかも池田会長は、厳命していた。
「創価大学は、宗教活動ではない。ご供養のように学会員からお金を集める必要はない。また、集めてはならない」
「教育は私の事業である。必要な資金は言いなさい。私が作る」
一九六〇年代後半、小説「人間革命」をはじめ、執筆のスピードは一段と加速した。
書きに書いた著作の売上げは、創価学会本部経理局を通じて、大学側に寄付された。
そのほか、印税などの個人所得から、まとまった金額が、大学側の銀行口座に振り込まれた。
大学建設のニュースを耳にした最前線の会員からは、寄付が相次いだ。
現金書留に、丁寧な筆文字の手紙が添えられていたものもあった。
「わずかなお金ですが、創価大学のために使ってください。私たちには子どもがいませんが、創大生が私たちの子どもです」
◆「創大生は世界の指導者になってもらいたい」
▼どんなに手間をかけても
一級建築士は製図台の前で腕組みをしたまま考え込んだ。設計図面は真っ白である。
審議会の一員として、創価大学の設計を託されたものの、新しい大学像が浮かばない。
正門から伸びる並木道。正面に時計台。いくら頭をひねっても、平凡な絵になる。
行き詰まった彼に池田会長が提案した。
「図面を引く前に、まず世界の大学を見ておくといい」
周囲には「そこまでする必要があるのか?」との声もあったが、会長は妥協しない。
「創価大学では、学生が一流のものに触れることが大切だ。建物も同じだ」
一九六七年五月、担当者はハワイを皮切りに、海外大学の視察を開始した。
食堂や図書館、学生が語り合えるラウンジなど、贅沢な造りにしているキャンパスが多かった。反面、機能性に欠けているように感じた。
その分析を率直に伝えると、明快な答えが返ってきた。
「創大生には、世界の指導者になってもらいたい。どんな豪華な宮殿に入っても物怖じしない、堂々たる人物をつくっておきたい」
「だから創大はできる限り立派な建物にして、学生たちに日頃から慣れさせてあげたい。しかも、質実剛健で、長く使える建物でなければいけない。可能な限り研究してほしい。世界を見てらっしゃい」
ただの新大学ではないのだ。大過なく完成すればいいと思っていた彼は声を失った。会長の描く“創価大学像”は想像をはるかに超えていた。
彼は、視察しておきたい大学のリストを書き出してみた。
米国のカリフォルニア大学バークレー校。同大学ロサンゼルス校。マサチューセッツ工科大学。ハーバード大学。ニューヨーク大学。
欧州ではソルボンヌ大学。ロンドン大学。ケンブリッジ大学。オックスフォード大学。
世界に名だたる名門大学ばかりである。
思い切って、リストを提出した。
間髪入れず、一切が快諾された。
視察しながら設計案を考えていた彼は、何回も呼ばれた。打ち合わせは、数十回に及んだ。
後に、海外の学者が「自然の地形を生かし、建物はオーソドックス。堅実だが、世界で最も美しいキャンパスの一つ」と評したキャンパスの青写真ができた。
*
法人機構も一からの立ち上げである。
創大の開学前、すでに学校法人として「創価学園」があった。
同じ法人のなかで、創価大学をつくった方がいいという意見が大勢を占めた。何より準備が大幅に軽減される。
事務所の設立、事務員の雇用、理事の選出、理事会や審議会の運営、議事録の作成……。新法人の設立となれば、手間も人手も資金もかかる。
池田会長の考えは違った。
「新しい法人にしよう」
周囲は、真意をはかりかねた。
「今までのケースを見るがいい。高校を併設している大学を見ると、高校が大学の犠牲になっているか、大学が高校の犠牲になっている。そのどちらかだ」
創価学園も、大学も、絶対に犠牲にしたくない。
「だから、創価大学と創価学園は、財政的、組織運営的には別法人として、それぞれが主体性を持ったほうがいい」
「ただし教育については、あくまでも一貫教育でいく」
わが国では極めてまれな「手間のかかる方式」を貫いた。
▼「言論問題」の嵐
「開学を二年早めたい」。池田会長が強い意志を示したときも、設立審議会のメンバーは肝をつぶした。
一九六八年三月のことである。
もともと予定していた七三年の開学までなら五年ある。
それでも準備が追いつかない。それを三年に短縮するというのだ。
“そんな無茶な……”
スチューデント・パワーの嵐が吹き荒れる時代だった。
「一日も早く、紛争のない、理想的な大学を開学しよう。教育界を刷新する一翼を担うんだ。そのためにも、開学を急ごうじゃないか」
「戦さは、始まったら駆け足だ」。池田会長の持論である。
二年早めれば、七一年春になり、ちょうど卒業する創価高校一期生も迎えられる。
「それにしても余裕がなさ過ぎる」
関係者の率直な思いだった。
会長は、審議会と別に、「学校法人設立準備財団」を発足させた。 財団には、遊撃的な実働部隊としての役割も託された。
事務所は、学会本部近くの家屋の二階。三人の陣容でスタートした。 開学を早めたことで、思いもよらぬ暗礁が現れた。
一九六九年から七〇年にかけて学会を襲った「言論・出版問題」である。
第三代の会長就任から約一〇年。拡大と発展を遂げてきた学会が、初めて直面した社会との軋轢だった。
七三年の関学ならば、嵐はひと山越えていたはずだ。しかし七一年ということで、開学プロジェクトは、もろに乱気流の中へ突っ込んだ。
世間的な感覚でいえば、この事業は縮小か延期だろう。
それほど、池田会長は集中砲火を浴びた。
準備財団のメンバーは、何度も学会首脳の打ち合わせの場に呼ばれた。
学会本部に行くと「言論問題」の対応が協議されていた。待っている間も、ぴんと張り詰めたやりとりが続く。
その合間合間に、メンバーに声をかけた。
「大学はどうだ? 順調か? 私の大切な大学を頼むよ」
体調も崩していた。発熱があるのか、顔が赤い。
池田会長が創立した団体や機関は数多くある。公明党。民音。東洋哲学研究所。東京富士美術館。創価学園……。どれも上げ潮の時期に誕生している。
創価大学は、嵐の中で創立された。
▼難航した教員確保
老教授は侮りの色を、ありありと浮かべながら「ソーカ大学? 聞いたことありませんなあ」と首をかしげた。
一九七〇年。教員の確保へ本格的な交渉が始まった。 諸大学の教授や識者の間をかけずり回ったが、けんもほろろである。
専門課程の教員は、合計で四〇人が必要だった。そのほか、カリキュラム編成上、一般教育課程の語学系科目、理系科目、体育や音楽の教師が必要とされた。
「言論問題」の嵐が一段と吹き荒れ、環境は最悪。創大への認識も極めて厳しい。
「偏った宗教系は、ちょっと苦手でね」
名もない大学。それも批判を受けている宗教団体の大学……壁は厚かった。
礼を尽くしても門前払いが多かった。
たとえ前向きな回答をもらっても、定年後の再就職先に考えていたり、在籍中の大学で悪評が立っている教員もいた。
「創価大学は三倍の給与を出して教員を集めている」などという風評に踊らされている者までいた。
創価学会の内部でも人材が不足していた。“おっ、院長先生がいる”。調べてみると、マッサージ施術院の先生だった。
教員資格を有した学術部員も「まだ私は力不足」「新しい大学の教員はリスクが高いので」と尻込みした。
理想の実現が、いかに難事か。準備財団の担当者は、骨身に染みた。
建学の理念に共鳴し、教鞭を執りたいと希望してくれた場合でも、次のハードルが待ち構えていた。
他大学へ移るにあたっての「承諾書」を、各大学の任免権者、つまり国公立大学であれば学長、私立大学であれば理事長から得なければならない。
優秀な教員であるほど、大学は引き留める。“自由にモノを言えない大学だと聞いているよ”
学長が、事実無根の週刊誌のネタを鵜呑みにし、引き留めにかかった大学もあった。
▼会長は決して妥協しない
ことに困ったのは、法学部の教員だった。獲得ルートがまったくない。
「法学部は無理」。早々と白旗を揚げる気配だった。
池田会長は納得しない。
「すべては学生のためだ。大学は社会への寄付だ」
「大変だけど、法学部はつくるべきだ。挑戦してみようじゃないか」
斬新な提案もした。
「いい教員に来ていただこう。実社会で活躍され、学問的な力をもつ方もいるじゃないか。法曹界、マスコミ、金融界等で活躍する方も加えてはどうか。それが大学と社会の接点になるし、学生の学習意欲を高めることになる」
残念ながら、当時の文部省の基準が厳しく、数人の採用にとどまった。後日談になるが、規制が緩和された現在、各界リーダーを招いての「トップが語る現代経営」等の講座が成功している。
さらに提案した。
「青年は、あまり年が離れていない人の影響を強く受ける。親の言うことは聞かなくても、兄や先輩の言うことは聞く。よくあるケースじゃないか。教員の資格はないが資質のある若い人に、例えば、指導講師として、学生の面倒をみてもらってはどうか」
強く反対する教員がいたため、実現しなかったが、開学後、学生たちは、自由に講師を招くことのできる「自主講座」としてスタートさせた。
また、若手の教員を多く採用することも主張した。
一〇名ほどの助手を採用することになった。
文部省が定めていた大学設置の基準に、助手の人数は入っていない。つまり、助手は必ずしも集めなくてよかったのである。
“わざわざ、手のかかる若造を呼ばなくても……”。冷めた目で見る教員もいた。
しかし会長は、若い力を信じた。年下でも、敬意をこめて「先生」と呼んだ。
粘り強く人材を集めた。候補者と直接面談し、建学の理念を語った。その助手の多くが今は、教授となって、大学の中核を担っている。
なかには「私は請われたから、来てやったんだ」といばり、わがままを通そうとした老教授もいた。
「いずれ創価学会員でない教員は冷遇される」と他の教員をたきつけ、主導権を握ろうとたくらむ者までいた。
それでも、会長は辛抱づよく、一人ひとりと話し合った。ある老教授が質問した。
「そんなに何もかもやって疲れないですか?」
「疲れないといったらウソになります。疲れは、万年雪のように重なっています。しかし、その雪がやがて解けて全身にしみわたる時、歓喜に満つることを確信しています。だから戦いを止めません」
老教授は心を打たれ、創価大学の建学に力を尽くした。
また「創立者は金だけ出せばいい」と公言してはばからない経済学の教員がいた。だが、研究・調査で中国に行くと、どの大学の首脳・教員も「池田先生はお元気ですか?」と声をかけてくるのに驚いた。
真実を知るにつれ、態度を改めていった。
◆「油断するな。悪人も狙っている!」
▼悪人が狙っていた
「どうか創価大学を、よろしくお願いします」。就任予定の教員の会合が終わり、教員たちが帰り始めたとき、池田会長は建物の玄関に立ち、一人ひとりに丁寧に腰を折った。
その日も、ひととおり見送った後、準備財団の担当者に問いかけた。
「きょう来ていた教員だが、全員知っているのか。あの恰幅の良い方。どういう人なんだ?」
「都内の私立大学助教授で、期待している教員です」
彼の答えに、表情を曇らせ「ああ、そうか」。そして誰に言うともなく「あの人だけ、他の人と雰囲気が違う気がする」。
気になった担当者は、念のため所属大学に電話をかけた。
「そのような助教授は、うちの大学にはおりません」
受話器から聞こえてくる声に青ざめた。
机の引き出しから名刺を探し、そこに記された事務所の番地へ急いだ。人の住んでいない廃墟だった。
本人を呼び出し、問いただした。「申し訳ない。騙すつもりはなかったのだが……」。詐欺師は観念して両手をついた。
“助かった……”
胸をなで下ろした。人物眼の確かさ。開学にあたっての忠告を思い返した。
「油断するな。悪人も、鵜の目鷹の目で狙っている!」
*
絶体絶命の日限が迫ってきた。
一九七〇年九月三十日。文部省への申請の最終日である。
規定人数の教員を集め、耳をそろえて書類を出す。この日を逃すと七一年四月の開学は見送られる。
会長の執念が乗り移ったように、準備財団は働き、ついに目標の人数に届いた。
九月二十八日。北海道の大学からの採用予定者の書類に不備が見つかった。準備財団の事務局のメンバーが必死の形相で札幌まで飛び、とんぼ返りした。
締め切り前日。
完成した関係書類に、黒い表紙を付け、しっかりと紐でとじた。合計ダンボール六箱分になった。
池田会長は、文部省へ出向く代表を学会本部に招いた。彼らは、みなで深く祈りを捧げた。
やがて文部省から、審査がパスした旨の報告が届いた。
▼創立者の孤独
創価大学の設立構想に、社会の声は否定的だった。
池田会長と直接に会談した識者。大学計画に「それはいけない」と首を振った。
「危険です。学問というのは、冷静な目で『批判』することが基本的な性質です。当然、宗教に対しても批判的な物の見方が要求されます。下手をすると、創価大学は、『反学会の砦』になる危険性がありますよ」
現実的、具体的な意見である。すべてを聞き終わった後で答えた。
「おっしゃる意味は、よく分かります。大学が創価学会の前進を妨げる存在になるかもしれない。
しかし、私はそれでも、人材を育てたい。世界平和の、そして社会貢献の人材を、何としても作りたい。その一心で、私は教育に取り組むつもりです」
別の見方もあった。
創価学会が一気に勢力を拡大した時代である。
「創価学会が学生を使って何かしようとしている」
その運動の中に、自分たちと全く異なる、新しい勢力が台頭してくるのか。彼らにとって目障りでしかなかったのである。
外だけではない。学会内部にも反対の声が噴出していた。
創価学会の首脳は憂慮していた。
「社会に開かれた大学の建設は、創価学会を側面から攻撃する足場にもなりうるし、格好の標的になる。世間が学会に注目している今このときに動くのは得策ではない……」
教育にかける理想は、誰からも理解されていなかった。
四面楚歌。創立者は孤独だった。
*
知的な論調で知られるジャーナル誌も、創価大学は「一宗教のための大学」という先入観を隠さなかった。”学会幹部の養成学校”と椰揄する雑誌もあった。
宗教団体がつくる大学といえば、ふつうは宗教科があり、聖職者養成の専門機関が付属する。
創価学園生の中にも、創価大学を卒業して、僧侶になろうとした者もいた。その学園生に池田会長は諭した。
「僧侶になる必要はない。僕が、なぜ創価大学をつくろうとしているか、わかるかい」
答えられない少年に、噛んで含めるように続けた。
「将来、世界を舞台に、人類全体のために活躍する人物を輩出したい。この一点なんだ。一宗一派のためにやっているんじゃないんだ」
開学を控え、創大関係者と車に乗ったときのことである。車窓からキャンパスを見ながら話した。
「楽しみだな。創大は航空母艦と同じだ。次から次へと飛行機が飛び立つように、陸続と人材が雄飛していく。社会のため、平和のための人材だ。本当に楽しみだ」
▼学生寮の建設
最後まで紛糾したのは、学生寮の設置であった。
この当時、寮ほど毛嫌いされたものはない。大学紛争の中で、寮は必ず学生運動の拠点となり、大学当局の目が届かない巣窟となった。
多くの大学は、学生を分散させるため、寮を解体しようと動いた。
寮建設の担当者が、私立大学の事務局長たちに意見を聞くと、待ってましたとばかりに返ってくる。
「およしなさい。一度、寮を開いたら最後、どんな問題が起きても閉鎖できませんよ」
「うちは、本当は閉鎖したいくらいなんだ。それができなくて困っている」
もっともな意見だが、池田会長は違った。
「大切なのは人間の絆だ。寮が悪いわけじゃない。
英国の名門校は、全寮制の教育で人間を育ててきたじゃないか。
学生の自治に委ねた寮の運営が成功したら、大変な歴史になる。それが創価大学の人間教育の勝利になる」
開学後も、学生寮が完成すると、会長は何度も足を運んだ。寮生と将棋を指し、ソーメンを一緒に味わった。寮祭では血豆ができるまで太鼓をたたいた。
中国、ソ連の留学生を受け入れた時も、マルクス・レーニン主義が蔓延すると懸念の声があがった。
「留学生を大使だと思って誠意を尽くしていこう」
食事や生活環境まで細心の注意を払った。
帰国後、留学生は母校に感動を伝えた。モスクワ大学などの首脳が、創立者に全幅の信頼を置き、親交を深めゆく一つの要因にもなった。
▼開学への総仕上げ
うっそうとした雑木林が切り開かれていた。整地されたキャンパス予定地に、ひときわ高く、真っ白な校舎が現れた。
「一宗一派のためにやっているんじゃない」
緑の濃い丹木の丘を背景に、白亜の建物がコントラストを描く。
開学の日が迫ってきた。
土地の取得。校舎の建設。キャンパスの整備。教員の確保……。
創立者の陣頭指揮で、いくつもの壁を越えた。ようやく、ひと息つく担当者だったが、まだまだ甘かった。
思いがけない指示が飛んできた。
「伝統ある大学でも、創立時に、近隣と摩擦が起きたケースがある。場合によっては、紛争になっている」
「地域の行事に大学の代表が参加してはどうか。住民が自由に散策できるようにキャンパスを開放してもいい」
話は具体性を帯びてきた。
「近隣友好の集いを開催することも有意義だ」
「四月は桜祭り。五月は皐月祭り。豊かな大学の自然を生かした催しを開いてはどうか」
担当者はメモを取るのに精一杯である。
常に「あと一歩、もう一歩」の時、会長は最も厳しい。たとえば、大規模な行事であれば、その前日。海外指導なら、出発の直前。油断を徹底して排する。
採用する職員と個別に面接した。女子職員の両親に「池田でございます。娘さんを預からせていただきます」と電話を入れた。
大学の心臓部・図書館には、青春時代に愛読した個人蔵書を寄付した。「池田蔵書」と押印された手沢の書籍は数万冊におよんだ。
大学構内の道路。危険な死角ができないように自ら確認。
苦学生も多い。日本育英会の学資貸与を受けられない学生には、支援検討を準備させた。経済的に困難な学生すべてが、何らかの奨学金が受けられるよう、創価大学独自の奨学金制度が創設された。
郊外型の大学である。バイク通学も予想される。交通安全教育を徹底した。八王子警察署にもあいさつに行かせた。
何度も何度も大学一期生になる創価高校の代表と懇談した。彼らは大学建設の中核となるからだ。
大学関係者は、詰めの厳しさに瞠目した。
▼丹木の丘に春が来た
一九七一年二月、入学試験。
文部省の行政指導で、設立認可が降りるまで公式な学生募集は禁止されていた。わずか一カ月間程度の募集だったが、七八〇〇人以上が受験した。
その様子をメディアが報じている。
「新設校の第一の難点は学生が定員通りに集まるかどうか、といわれるなかで、平均競争率一六倍というのは驚異的な数字である。四十六年四月に新設され開校した四年制大学七校のなかでは抜群に難しいのが創価大学と言われた」
丹木の丘に春が来た。
約五〇万平方㍍(約一五万坪) の広大な敷地。
新鮮な若木の香りがする。彼方には白雪を抱いた富士の雄姿がある。
豊かな自然。広々とした土地。都心の喧騒を離れた静かな場所。そして富士が見えるところ――。
丹木の丘で粗末な椅子に腰をかけ、池田会長が眺めていた殺風景な地に、大学が生まれた。
白亜の校舎。体育館。厚生棟。学生寮。一対のブロンズ像。七五四人の新入生。
一九七一年四月二日、かくて創価大学は開学した。 (文中敬称略)