第11回 イタリア ボローニャ大学


「精神の自由」の大城を守り抜け!
創立900年 最古の学府は師弟の結合から誕生


 「わがともがらよ、兄弟たちよ、汝らの持場を守れ」
 イタリア・ルネサンス期の大詩人アリオストの叫びだ。
 人間の尊厳のために、断じて守り抜くべき場所がある。
 正義の栄光のために、断固と勝ち抜くべき闘争がある。
 九百年の歳月を越えて、人びとが守り、戦い、築き上げてきた「教育と英知の大城」――それが、西洋最古
の大学ボローニャ大学である。
     ◇ 
 世界中を旅してこられたトインビー博士に、私は「最も理想的な都市」を質問したことがある。
 大歴史学者が懐かしそうに思い起こされたのは、学都ボローニャであった。
 この都で、詩聖ダンテも、天文学者コペルニクスも学んだ。十四世紀、桂冠詩人ペトラルカは、ボローニャ
学で過ごした青春を回想している。
 「ボローニャは想像だにできなかったほど美しく、自由な街であった。学生は礼儀正しく、教授たちは教える
ことへの情熱に溢れていた」
 創立は、一〇八八年と伝えられる。
 その草創期、講義は、教会の一角や間借りの部屋などで行われた。広場では、学生たちが討論会を繰り広
げた。
 私が、このボローニャ大学を訪れたのは、一九九四年の六月一日であった。
 今日、街の人口約四十万人の四分の一が学生という。大学の規模は拡大したが、古い学都の雰囲気は変
わらない。
 赤煉瓦の家並み。市街の通りに沿って続く柱廊。ダンテが『神曲』に歌った、空へ伸びる斜塔も見える。
 総長室へ向かう廊下には、毅然たる若きダンテの像が置かれていた。「一二八七」と刻まれている。ダンテ
が在学していた年である。
 それは、日蓮大聖人の御入滅の五年後に当たっている。
     ◇ 
 「何代目の総長になられますか」
 私は、東京で初めてお会いした時、ロベルシ=モナコ総長に聞いてみたことがある(一九八九年四月)。
 「実は、はっきり、わからないのです。イタリア統一以後では三十代目ですが……」
 総長は笑顔で答えられた。
 「なぜ正確にわからないかというと、ボローニャ大学は民衆の中から自然発生的に生まれた大学だからで
す」
 優れた教師を探し、深き学問を求めて、ヨーロッパ中から学生が集い来り、そこに生まれた「人間の結合」
が、大学の淵源であったのだ。
 ボローニャに来た学生たちは、自らの権利を守るため出身地ごとに組合をつくった。
 「大学(ユニバーシティー)」の語源である「ウニベルシタス」とは、そもそも、この「組合」を意味した。
 いわば、「学ぼう」とする精神が、学生を生み、教師を生み、大学を生んだ。
 大学の実質をなすのは、この「学びの精神」である。

学生が主人の大学
 中世のボローニャ大学では、学生が教師を採用した。
 教師は、学生の許可なしに休講できない。授業料も学生と教師の交渉で決定。講義の時間や進め方でも、
約束を破ったり、一定以上の聴講者を集められなかった教師には、罰金が科せられた。
 学長(レクトール)も教師の代表ではなく、学生から選ばれた。その慣習は十七世紀初めまで続いたという。
 若き学生の向学の情熱が、大学の“主人”の座にあったのだ。
 それは、教師自身も高める学問の在り方であった。
 なぜか。真摯に学ぶ人がいるから、教える人もまた一段深く学べるからだ。
 学生あっての教師である。学生を下に見るような傲慢な教師は、自ら学問と教育を冒涜しているのだ。
 「小さい知識は人間に慢心を起させるが、大なる知識は謙虚な心持を呼び醒ます」とは、ロシアの作家メレ
ジコフスキーが綴ったレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉である。
     ◇ 
 「高貴なる精神よ、汝の大いなる志の企てを貫き通されんことを」(ペトラルカ)
 教師の家に住み込んで学ぶ学生もいた。
 学ぶ者も真剣、教える者も真剣だった。
 学生は、教師を「わが師」と慕った。教師は、学生を「友」と呼んだ。
 千載の風雪を勝ち越えてきた「世界の大学の母」――。
 この豊かな生命力の源は、師匠と弟子の魂の交流にあったといってよい。
 人間教育の根幹は、師弟である。「学びたい」という学生と、それに「応えてみせる」という教師の、火花散る
ような生命の触発である。
 私は、創価大学の第三回入学式の講演「創造的人間たれ」でも、こうしたボローニャの不滅の精神に論及
した。
 最も地道で、最も崇高な教育の営みありてこそ、全人類に奉仕する「全体人間」を育成できる。
 私も、恩師・戸田城聖先生に一対一で学び抜いた。師弟不二の「戸田大学」から、世界の対話へと打って出
た。
 この魂を受け継ぐ創価教育の学舎から、一千年先の未来まで、平和と正義の若獅子が育ちゆくことを、私
は祈る。
     ◇ 
 「われらは一陣の風に屈してしなう湖沼の葦にあらず」
 十三世紀、ボローニャの学生たちは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の横暴に対しても一歩もひかなかっ
た。
 また、政治の権力が介入すると、学生と教師は集団でボローニャを去り、別の街で学問を続けた。そこか
ら、イタリア各地に新たな大学も生まれていった。
 「リベルタス(自由)」。ボローニャ大学の旗には、こう誇り高く記されている。
 自由な精神こそ、学問の生命である。
 その意味から、私も、かねてより、教育権を、立法、行政、司法の三権から独立させる「四権分立」の構想を
提唱してきた。
 ボローニャ大学が中心になり、一九八八年の九百年祭の折に制定した「大学憲章」にも、「学問の自由」が
高らかに謳われている。
 わが創価大学も、その意義に賛同した世界四百三十大学の一つとして、「大学憲章」に署名したのであっ
た。
 さらに翌年、東京富士美術館で盛大に開催された「ボローニャ大学特別重宝展」も、格別の友情の結晶で
あったと深く感謝している。

12世紀に女子学生
 ボローニャ大学は、最も早く女性に門戸を開いた大学でもあった。
 草創のころ、女性の教師が大学だけでなく、市中、堂々と大衆の前で講義したという伝承もある。十二世紀
以来、女子学生を受け入れたとされ、十八世紀には、何人もの女性教授が誕生した。
 女性を大事にする――ここに、ボローニャ大学の発展の重要な源泉があったと直観するのは、私一人では
あるまい。
 ともあれ大学は、あらゆる蛮性と暴力に打ち勝つ「フォートレス(要塞)」である。
 「生命を尊重しないものは生命に値いしない」とは、レオナルド・ダ・ヴィンチの厳然たる宣言であった。
     ◇ 
 私がボローニャ大学を訪れたその日、四百年近い歴史を誇る壮麗な大講堂には、総長、副総長、各学部
長が一堂に会され、学生はじめ千人の賓客が集ってくださった。
 イタリアSGIの友や、創価大学の留学生の顔も、晴れ晴れと輝いていた。
 席上、私は、ボローニャ大学名誉博士の証しである「ドクター・リング」を拝受する栄に浴した。証書には、
ラテン語で「平和を再興し、守り、人びとに人生の向上を促す不断の尽力に対して」と記されている。
 中世においては、博士号の授与式で金の指輪が贈られた。そこには「学問との結婚」という意味があったと
いう。
 授与式で、ロベルシ=モナコ総長はあいさつされた。
 「ボローニャ大学創価大学は共通の目的に向かっています」
 「私たち“兄弟”が力を合わせれば、必ず人類の課題を解決していけると確信しております」
 今こそ非暴力の世紀の構築へ、世界の大学が連帯し、英知を結集すべき時である。難問を克服してこそ、
価値創造であるからだ。
 私は、深いご期待に感謝しつつ、「レオナルドの眼と人類の議会――国連の未来についての考察」と題し
た、記念の講演で訴えた。
 「レオナルド・ダ・ヴィンチのごとき世界市民よ、出でよ!」――と。
 最後に朗読したのは、ボローニャ大学の卒業生ダンテが『神曲』に留めた、彼の心の師の励ましであった。
 「恐れるな」
 「ひるまずに、あらゆる勇気をふるい起こすのだ」
     ◇ 
 ボローニャの市庁舎の壁には、誉れ高き市民たちの肖像と名前が掲げられている。第二次世界大戦中、民
衆の抵抗運動パルチザンに殉じていった幾千の勇者の群像である。
 それは、牧口・戸田両先生が獄中闘争を貫いた同時代である。
 いざという時に、勇敢に奮闘した生命の栄冠は、永遠だ。
 イタリア統一の指導者マッツィーニは叫んだ。
 「人間性が向上し、新たに正義が勝利をおさめ、教育の道、進歩の道、道義の道において一歩前進するこ
とは、やがて、全人類に実りをもたらす大いなる一歩なのである」
 世界の大学も見つめる、人間性と正義の勝利へ、我らは今日も一歩を踏み出すのだ!

 ※引用・参考文献
 アリオストの言葉は『アリオスト 狂えるオルランド脇功訳(名古屋大学出版会)。ペトラルカは順に『ボロー
ニャの大実験』星野まりこ著(三推社/講談社)、『世界文学全集4』河島英昭訳(講談社)。ダ・ヴィンチは順
に『神々の復活』メレジュコーフスキイ作・米川正夫訳(岩波文庫)、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』杉浦明
平訳(岩波文庫)。ボローニャ大学の学生の言葉は『中世イタリアの大学生活』G・ザッカニーニ著・児玉善仁
訳(平凡社)。ダンテは『筑摩世界文学大系11』野上素一訳(筑摩書房)。マッツィーニは『人間の義務』の英
語版から。なお文中の傍点は引用者。
 ボローニャ大学の歴史については『大学の起源』C・H・ハスキンズ著(法律文化社)、『大学の起源』H・ラシ
ュドール著(東洋館出版社)、前掲『中世イタリアの大学生活』、『中世大学都市への旅』横尾壮英著(朝日選
書)等を参照しました。