第10回 韓国 慶熙大学

築こう!正義が勝つ世界を
歴史を正視し友情の未来へ 誠実は天をも動かす



 「真理は必ず従う者があり、正義は必ず成就する日がくる」

 これは、韓国の大教育者・安昌浩先生の確信であった。

 十年前の十一月一日。

 晴れわたったこの日、創価大学の記念講堂の舞台で、韓国からの留学生二十三人と、創大ハングル文化研究会三十三人が、声を一つに、声を限りに歌い上げた。名曲「平和の歌」を韓国語で――。

 人間が戦争を征服できなければ 戦争が人間を征服するだろう……
 すべての人類が立ち上がり合唱しよう! 両手を高く上げて固く誓おう!
 君と僕 みんな出てきて 平和を築こう!

 歌が終わった。その瞬間、私と同時に立ち上がり、そして拍手を贈られた方がいた。

 韓国の名門・慶熙大学創立者・趙永植学園長であられる。

 趙先生は、学生に感謝を込めて手を振られると、両腕を広げ、私を抱擁なされた。

 “学園の母”と慕われる呉貞明夫人も、涙を光らせながら、私の妻と抱き合っておられた。

 趙学園長が作詩された、この「平和の歌」を、学生たちが自ら選んで披露したのだ。

 歌に先立って乱舞した韓国舞踊で、皆が打ち鳴らした五十個もの小太鼓は、留学生のお母さまがソウルから送ってくださったものである。

 揃いの民族衣装は、大阪にいた創大の卒業生が地域の民族学校にお願いしてくれ、快く提供して頂いた。

 まさに温かな真心で織り成された舞台であった。

 この折、趙先生に、創価大学から名誉博士号が贈られた。その祝辞で私は申し上げた。

 「本日、二十一世紀の韓日の友好にとって、はたまた、新世紀の若き世界市民の連帯にとって、歴史的な第一歩が本格的に踏み出されたと、私は宣言したいのです!」

 この二カ月前、創大の代表団が訪韓し、慶熙大学首脳と学術交流の協議を行った。

 その顔合わせの席へ、私は一篇の詩をお届けした。敬愛する趙学園長に捧げた「新しき千年の黎明」である。

 通訳の女性の朗読をじっと聴いていた首脳の先生が、こう語られたと伺った。

 ――かつて私の父は日本の憲兵によって投獄された。今まで日本への怒りがあり、交流にも反対であったが、韓国の心を、このように理解して頂いている。創大との交流に心から賛同したい、と。

 期せずして拍手が沸いたという。

 「至誠、天を動かす」とは、韓国の先哲の信念である。

文化と学術の大恩

 韓国は「文化の大恩の国」である。古代より稲作をはじめ、鉄器や青銅器、漢字や仏教など、日本が受けた文化の恩恵は枚挙にいとまがない。

 古代の教育機関「大学」の設置も、韓・朝鮮半島に続いた。七世紀、百済出身の渡来人・鬼室集斯が就任した初代の「学識頭」は、いわば日本初の“大学総長”である。

 渡来人の貢献を、明治期に西欧人技術者が果たした役割と重ねて感謝する声もある。

 だが、こうした文化の大恩を忘れ、日本は韓・朝鮮半島を幾たびも蹂躙した。忘恩極まる非道である。

 この痛恨の歴史を正視して、未来に向かって、誠心誠意、友好を結んでいかなければ、日本の真の繁栄はない。

 それが、恩師・戸田第二代会長の厳格なる遺訓であった。

 約二百年前の大哲学者である丁若■〈金に庸〉は言った。

 「学ぶとは、師匠から学ぶということである。師匠がいてこそ、学ぶことができる」

 一九九八年の五月十五日。この日は、韓国では「師匠の日」に当たっていた。

 弟子が師匠に、学生が教授に、感謝を捧げる、その日に、私は念願叶って慶熙大学を訪問した。

 壮麗なソウル・キャンパスは、瑞々しい緑の高凰山の麓に広がっていた。

 創立者の趙学園長は、一九四九年に設立の新興大学を、二年後に引き継がれ、今日の慶熙大学として、世界的名門に発展させてこられた。

 だが、出発の当時は朝鮮戦争(韓国戦争)の渦中で、土地は荒れ果てていたという。

 そこに、学園長は自ら先頭に立って、一本また一本、木を植え、花を植え、一つずつ石を置いて環境を整備した。

 自宅は修理もせず、古いままで、「そのかわり、学校だけは最高に立派な学校にするんだ」と。

 これが創立者の心である。

 「登竜門」と名付けられた正門を入ると、正面に壮大な塔が見えた。塔には「文化世界の創造」と、不動の「建学の精神」が刻まれていた。

 私の好きな韓国の格言には「精魂こめた塔が崩れるものか」とある。

聞け、道義の声を

 私が共に対談集を発刊したアメリカの未来学者ヘンダーソン博士も、慶熙大学世界市民育成の校風を高く評価されていた一人である。

 世界に開かれた慶熙大学の荘厳なクラウン・ホールで、私は名誉哲学博士の学位を拝受した。

 その授与式で趙学園長は、「これまで公式の席では話したことはありませんが」と前置きして語られた。戦時中、日本軍に学徒兵として徴兵されたことを、さらに抗日運動ゆえの獄中体験を……。

 そして、過去の歴史を乗り越え、新しき未来志向の韓日関係を築こうと呼びかけられたのである。あまりにも寛大なお心であられた。

 慶熙大学命名の日(一九六〇年三月一日)の淵源――それは一九一九年の歴史的な「三・一独立運動」にある。

 「独立万歳!」を叫んで行進する“声の革命”は、瞬く間に全土に広がった。

 残虐な弾圧にも、誇り高き民族の魂は不屈だった。

 不当に逮捕された女子学生は、「なぜ独立を求めるのか」との尋問に毅然と答えた。

 一、朝鮮の幸福。二、日本の幸福。三、世界の平和――この三つの大目的のために、独立をめざすのだ! と。

 普遍の「道義」に立って、侵略者の日本さえも救おうという気高き叫びであった。

 日本にあって、創価学会牧口常三郎・初代会長と戸田城聖・第二代会長が師弟の縁を結び、二人で教育と平和と正義の行進を開始するのは、その同時代である。

 私は、慶熙大学の式典で、決意を込めて申し上げた。

 「日本の偏狭な島国根性を増長させてきた大きな要因は、確固たる『哲学』の不在であり、また、『国家主義』の教育の歪みであります。ゆえに私は、『人間主義』の哲学と教育の連帯を、心して世界に開いてまいりたい」

 哲学不在の偏狭な精神の罪は深い。在日韓国・朝鮮人の方々への差別は、何と理不尽なことか。高齢者や女性への差別も、マスコミの人権侵害も、いじめの問題も、根っこはつながっている。

 趙学園長は叫ばれた。

 「永久平和のためには『価値観の基準』を変えなければいけません。『心』を変えれば、すべてが変わります。未来が変わります」

 「力こそ正義」の弱肉強食の世界に終止符を! 知性と人格を基調とした「文化世界の創造」を! そのために教育による「人間革命」を!――この点で、学園長と私は深く一致していた。

 この年の冬、慶熙大学の平和福祉大学院の俊英十九人を、創大に歓迎した。

 私は、その時、日本人の出席者を前に、あえて厳しく語った。大学院の一行が、前日、国会議事堂を見学したと聞いたからである。

 「戦前、日本の国会議事堂の建設には、多くの韓国の方々が動員されていたのです。

 私は、この席をお借りして、深くお詫び申し上げるとともに、傲慢な日本の国家主義とは永遠に戦っていくことをお誓いします」

 そして、三十四カ国の留学生も参加した「友好の夕べ」では、私も慶熙家族の一員となって、アリランの歌声の輪に入り、共に肩を組んだ。

 「近くに住む隣人は、いとこと同じ」(韓国の諺)

 地域にあっても、国際社会にあっても、隣人と仲良くすることが、どれほど大事か。

 人間として誠意を尽くし、もっと「知り合う」ことだ。「語り合う」ことだ。心と心を「結び合う」ことだ。

 世界の平和も、この身近な友情の一歩から始まる。

 昨年十二月、学園長のご次男である趙仁源博士が、慶熙大学の新総長に就任された。早速、お手紙も頂戴した。

 二〇〇九年の創立六十周年への堂々たる新出発を、趙学園長ご夫妻も、大変に喜ばれていると伺っている。

 「教育」の魂の連帯は永遠不滅である。この大道に続く後継者がいる限り!

 私は、趙学園長に献呈した詩に、決意を謳った。

 「兄の慶熙大学
 弟の創価大学
 いざ 我らは
 信義と友情の絆を固く

 …… ……
 ともに 共々に
 新しき千年の黎明を
 獅子奮迅と開きゆかなむ」

 趙学園長の雄渾の叫びを、私は青年に贈りたい。

 「志ある者は成し遂げ、努力する者は勝利を得る」

 「人間の意志は逆境を突き抜け、団結は奇跡を生む」

 ※安昌浩の言葉は、李光洙著・具末謨訳『至誠、天を動かす』(現代書林)、三・一独立運動での女子学生の話は、朴殷植著・姜徳相訳註『朝鮮独立運動の血史』(平凡社東洋文庫)参照