全国最高協議会(5)



8.24 入信60年 師弟は勝った!

恩師は語った最大の苦境で 「苦労ばかりかけるが、君の師匠は私だよ」

平和へ! 190カ国に希望の大法

一、広宣流布のための協議会、ご苦労さま!

 いよいよ、これからが大事である。私は、次の学会をつくるために全力を尽くしている。

 大切な学会の同志が少しでも元気になり、生き生きと戦えるように、あらゆる手を打っている。

 尊き友の前進の力になればとの思いを込めて、懇談的にスピーチを行いたい。

 19歳での出会い

 一、まもなく私の入信記念日である、8月24日が巡り来る。

 今年で、私は入信60周年を迎える。

 昭和22年(1947年)の8月14日。友人に誘われて参加した学会の座談会で、初めて戸田先生とお会いした。

 あの日の情景は、今も鮮やかに胸に焼き付いている。

 当時、私は19歳。

 戦後の混乱の中で、自分の進むべき道を必死に探していた。人生の師とすべき人を求めていた。

 “正しい人生とは何か”など、私の率直な質問に対して、先生は一つ一つ明快に答えてくださった。

 先生は戦時中、軍部政府と戦い、2年間の獄中闘争を貫かれた方である。

 その言葉には、深い信念が脈打っていた。確固たる哲学と人間性が光っていた。

 この人の言うことなら信じられる──私は、そう直感した。

 そして、その10日後に入信したのである。

 他方、妻の入信は昭和16年の7月12日。小学校4年生の時に家族とともに入信した。

 今年の7月12日で入信66周年となった。

 戦時中、妻の家では、牧口先生をお迎えして、特高刑事の監視のもと座談会が行われた。

 権力からの圧迫にも微動だにせぬ、師子王のごとき牧口先生の勇姿を、妻は幼い生命に焼き付けたのである。

 幼いころから学会の庭で成長した妻は、いわば未来部の"1期生"と言えるだろう。

 「二人は満点の弟子だった」

 一、仏典には、「六を以て具足の義と為す」と示されている。「六」という数には「具足」──すなわち“すべて満足して具わる”との意義がある。

 私が入信した時、学会員は実質、わずか500人から600人ほどであった。まったく無名に等しい教団だった。

 しかし、この60年間、あらゆる難を勝ち越え、今や世界190カ国・地域に広がる、人類の希望と輝く大盤石の創価学会となったのである。

 大聖人は「如説修行抄」で仰せである。

 「真実の法華経の如説修行の行者として師となり、その弟子檀那となるならば、三類の敵人が必ず現れるのである」(御書501ページ、通解)

 私と妻は、その覚悟で三類の強敵と戦ってきた。師匠・戸田先生を、命がけでお守りし抜いてきた。奥様をはじめ、先生のご家族にも最大の心を尽くした。

 先生の事業が挫折した時も、私は一切をなげうって先生を支えた。働きに働いて、莫大な負債を返済した。まだ20代の前半であった。

 夜中に突然呼ばれて、先生のもとへ駆けつけたこともあった。

 そして、弘教の戦いをはじめ、あらゆる広布の戦いで大勝利を収め、広宣流布の道を断固として開いてきた。

 先生は、本当に喜んでくださった。

 戸田先生はご逝去の前に、私と妻に、しみじみと語られた。

 「大作と香峯子は、本当に私に仕えてくれた。

 本当に私を護ってくれた。本当に広宣流布のために、命を賭して、戦い抜いてくれた。

 二人は、満点の弟子だったよ。俺の人生は、二人のおかげで大満足だった」

 そして今、この広宣流布の師弟の道を受け継いでくれるのが、わが青年部であり、わが未来部である。私はそう深く確信している。

 入信3周年の日

 一、昭和25年、私の入信3周年の8月24日も忘れ得ぬ日であった。

 この日の夜、突然、戸田先生が学会の理事長を辞任することが発表されたのである。

 私は愕然とした。

 その後で、先生のもとへ行って、お聞きした。

 「先生が理事長を辞められると、これから、私の師匠は誰になるのでしょうか......」

 先生は、ニコッと笑って言われた。

 「苦労ばかりかけるけれども、君の師匠は、この私だよ」

 当時、戸田先生の事業は最も困難な状況にあった。

 窮地に陥った先生を、罵る人間もいた。先生のもとを去っていった人も数多くいた。

 しかし、私にとって師匠は戸田先生お一人であった。

 どんな状況になっても師匠は師匠である。師の偉大さは変わらない──私は、この信念で戦い抜いたのである。

 言論戦の時代

 一、実は、この日の昼前、私は戸田先生とともに、ある新聞記者との会見に臨んでいた。

 先生の事業の破綻を察知した新聞が、悪意と無認識の報道を行ったら大変なことになる。それを何とかして食い止めようとしたのである。

 記者との交渉が終わった後、私は戸田先生と二人で歩きながら、語り合った。

 その際、先生は言われた。

 「言論の自由の時代だ。一つの新聞を持っているということは、実に、すごい力をもつことだ。学会も、いつか、新聞を持たなければならない。大作、よく考えておいてくれ」

 聖教新聞は、この8月24日の師弟の語らいから生まれたのである。

 広宣流布は、間断なき言論闘争だ。

 仏法の偉大さと学会の正義を、人々に教えていく。民衆を不幸にする誤った思想は、明快に破折する。

 「破邪顕正の言論紙」たる聖教新聞の拡大こそ広宣流布の命脈である。

 このほど、この聖教の拡大をさらに推進していくために、昨年、発足した「広布新聞会議」が新体制でスタートすることになった。 同会議の議長には原田会長、副議長に正木理事長、原田副理事長が就任した。

 また総合議長に秋谷栄之助、最高参与に青木亨、両氏が就いた。

 さらに各方面や県の「広布新聞会議」も、各方面長や県長らを中心に、さらなる拡大の推進に取り組んでいく。

 どうか、はつらつたる大前進をお願いしたい(大拍手)。

 ともあれ、重要なのはリーダーが拡大の先頭に立つことだ。

 信心の世界において偉いのは、だれか。

 それは広宣流布のために戦った人である。実際に、広宣流布を拡大した人である。

 自分は号令だけかけて、皆にやらせるというのは最低だ。結局、「上」が動く以外にない。

 組織がよくなるのも、悪くなるのも、リーダーで決まるのである。

 誇る者には大罰信ずれば大福徳

 一、思えば、私が入信して以来の60年間は、大難また大難の連続であった。

 民衆勢力の台頭に恐れをなした権力者による、不当な弾圧もあった。嫉妬に狂った坊主らの卑劣な策謀もあった。

 自らの欲望に負けて同志を裏切り、学会に反逆した輩も出た。

 しかし、広宣流布の和合僧団である創価学会に仇をなした者たちは、最後は皆、敗れ去った。社会からも相手にされず、哀れな末路を歩んでいることは、皆様がご存じの通りである。

 御聖訓には厳然と仰せである。

 「日蓮は世界第一の法華経の行者である。この日蓮を謗り、怨む者の味方になるような者は、世界第一の大災難にあうであろう」(御書266ページ、通解)

 また、大聖人は、過去に仏法を迫害した者たちが厳しい現罰を受けた例を引かれ、次のように仰せである。

 「小事ですらこうした現罰があったのである。いわんやこの迫害の大悪事に、どうして現罰がないわけがあろうか」(同1125ページ、通解)

 末法において、法華経の行者を迫害する者には必ず現罰がある。そう断言しておられる。

 大聖人は、こうも仰せである。

 「すでに、法華経の大行者を謗る者に大罰があるのである。どうして信ずる者に大福がないことがあろうか」(同1039ページ、通解)

 法華経の行者を誹誘すれば仏罰がある。そうであれば、反対に妙法に生き抜く人々に、絶大な福徳があるのは当然ではないか。

 そう明快に述べておられるのである。

戸田先生とつくった聖教新聞 リーダーが拡大の先頭に

 民衆勝利の歌高らかに 

 一、戸田先生は指導しておられた。

 「正義の学会を弾圧し、迫害し、愚弄した権力者は、永久に忘れてはならない。

 とともに、善良な学会人を苦しめ、嘲笑い、侮辱してきた権力者を、断じて許してはならない。『仏法と申すは勝負をさきとし』である」

 正義なればこそ、断じて勝つ

 非道の輩は断じて許さない!

 ──この決意で戦い抜いてこそ、勝利を得ることができるのである。

 "中央アジアゲーテ"と讃えられた、15世紀のシルクロードの大詩人ナワイーは謳っている。

 「善を軽蔑するのが悪人の本性だ。そんな者など相手にせず、遠ざけよ」

 私は、光栄にも、この大詩人の名前を冠したウズベキスタン共和国のナワイー市から、「名誉市民」称号の決定通知をいただいている。

 ナワイー市はシルクロードの要衝として栄えた街であり、目覚ましい発展を続ける近代都市でもある。

 創価大学の記念講堂の前には、ウズベキスタン共和国から寄贈されたナワイーの像が、学生たちを見守っている。

 我らもまた、「新しき友情の道」を生き生きと進んでまいりたい。

 民衆勝利の詩を、高らかに歌いながら!(大拍手)

 (2007・8・8)