各部代表研修会(5)

戸田先生「最後の勝ちをば 仏にぞ祈らむ」
日本中が刮目した「大阪の戦いの大勝利」
観念ではない計算でもない 強き信心が行動を生む

 「まだまだ暑い日が続く。
 インドの詩聖タゴールは綴った。
 「ひたむきに急ぐそよ風のように、生命と若さをもって世界のなかに飛び出していきたい」(森本素世子訳「ベンガル瞥見」、『タゴール著作集第11巻』所収、第三文明社
 風は止まらない。
 風は動き続ける。
 広布に生きる我々は、あるときは爽やかにそよぐ涼風のように、あるときは鮮やかな旋風のように、生き生きと、人々の心に希望を広げてまいりたい(大拍手)。
 一、ロシアは、偉大な文学者を数多く生んだ大地である。なかでも私が愛読したのが、トルストイだ。創価大学の記念講堂には、トルストイのブロンズ像がそびえている。
 『戦争と平和』は、昨年、新しい翻訳が発刊された(岩波文庫、全6巻)。トルストイ人気は衰えない。
 この訳業を成し遂げられたのは、創価大学名誉教授の藤沼貴(ふじぬまたかし)博士である。藤沼博士は、日本トルストイ協会の会長も務めてこられた。
 創価大学は、立派な先生方に集っていただき、学生を薫陶していただいている。創立者として、これほどうれしいことはない。
 トルストイは、「あなたに起こる全ての出来事は、真実の精神的な幸福へとあなたを導くものであることを知り、信じよ」と訴えた。
 精神の巨人トルストイのごとく、すべてを自身の糧としていく原動力こそ、我々の信心である。
 ロシアの文豪ショーロホフ氏との出会いについては、これまでも何度か語ってきた。ロシアのロシュコフ前大使、ベールイ大使など、多くの方々とも、氏の文学の魅力について語り合ってきた。
 氏は私に言われた。
 「運命とは何か? 大事なのは、その人の信念です」
 ショーロホフ氏が代表作の一つ『人間の運命』を発表されたのは、1956年(昭和31年)。
 この年、私は大阪の天地に立っていた。

 決戦の朝の電話
 一、昭和31年の大阪の戦いは、「"まさか"が実現」と日本中を驚かせた。勝てるはずがないといわれた関西が勝ったのである。そして、負けるはずのない東京が敗北した。
 決戦の日の朝、5時ごろ。関西本部の電話が鳴った。受話器を取ると、それは東京の戸田先生からの電話であった。
 「大作、起きていたのか」
 先生は、驚かれたご様子であった。
 「関西はどうだい?」
 「こちらは勝ちます!」
 私は、即座に答えた。戸田先生は、「東京はダメだよ」と、残念そうに言われた。
 当時、私が負けることを望み、苦しむことを望む、嫉妬の人間もいた。
 しかし、東京が負け、関西が勝った。あのとき、私が負けていたら、戸田先生は敗北の将となっていた。関西での勝利によって初めて、日本中に創価学会という名が通ったのである。
 当時の関西本部は、小さい建物だったが、まるで広宣流布の軍艦のように、勢いよく揺れていた。

 「大阪の戦い」にすべてが要約
 一、広布の戦いは、観念ではない。計算でもない。
 努力、また努力だ。「絶対に勝つ」という祈りだ。
 真剣な祈りは、必然的に、行動を伴う。行動しない祈りは遊びである。
 ここを間違えては、絶対にならない。「動く」のだ。「ぶつかる」のだ。だから大阪は勝ったのである。
 あの戦いに、全部、要約されている。
 要領や計算ではない。真剣勝負で、だれが見よつが見まいが、人の何百培、何千倍も戦う決心で動くのだ。
 「翌年の4月、再び大阪で、参院選補欠選挙があった。
 東京の幹部が、戸田先生に進言して、急に支援が決まった。
 私も、関西の同志も、疲れ切っていた。
 しかも、東京から応援に来た幹部の何人かは、遊び半分だった。そのために歩調が乱れた。皆の心が合わなくなった。戸田先生は、無責任な幹部を厳しく叱られた。
 私が負けた戦いは、この、ただ1度である。
 この時の悔しさを忘れずに、関西は、私とともに、常勝の歴史をつくりあげてきた。
 私は、その後、幾千万の友と、日蓮大聖人の仏法を根本に、平和・文化・教育の大波を世界に広げてきた。
 今でも私は、あの日々を、ともどもに大阪で戦い抜いたすべての方々に、題目を送っている。

 「高慢は無知と比例する」 
 一、傲る心は、人を腐らせる。この、傲慢と戦う心について、御書と箴言を通して学びたい。
 若き日の愛読書であった『プルターク英雄伝』には、数々の人生訓がちりばめられている。そのなかに、アレキサンダー大王を描いた、次の一節がある。
 「アレクサンドロスは自分で鍛錬したばかりでなく他の人々にも勇気を養うための激しい練習をさせるに当たって危険を冒した。
 しかし友人たちは富と尊大(そんだい)のためにその頃は既に遊惰(ゆうだ)で閑な生活を欲していたから、彷徨(ほうこう)や行軍を億劫がり、そのうち次第に大王を誹謗し悪口を言うようにさえなった」(河野与一訳、岩波文庫。現代表記に改めた)
 大王の真意を、友人たちは、近くにいるにもかかわらず、歪んだものの見方によって曲解し、逆恨みしたのである。
 御義口伝では、自分の欠点を隠して、よく見せようとするのが増上慢であるとの、妙楽大師の言葉を引いておられる。
 〈「疵(きず)を蔵(か)くし徳を揚(あ)ぐは上慢を釈す」(御書718ページ)〉
 "男は高慢から馬鹿になる"とは、ドイツの文豪ゲーテの言だ(『箴言省察』)。
 数多くの看護師を育成したナイチンゲールは、自戒を込めて記している。
 「いったい私たちの高慢心というものは自分の無知と正比例しているとは思いませんか?」(湯槇ます監修・薄井坦子他編訳『ナイチンゲール著作集第3巻』現代社
 アメリカの教育哲学者デューイは、国家を悪用する役人について述べている。
 「これら(=役人)の権力は私的利益へと向けられることもある。そのとき、政府は腐敗し、恣意的なものとなる。
 故意にわいろをとったり、私的な栄光と利益のために例外的に権力を用いたりすることは論外としても、高い地位につけば、精神が鈍り、振舞が傲慢になり、階級の利害や偏見に執着するようになる」(魚津郁夫編『世界の思想家20 デューイ』平凡社
 一方でデューイは、官職に就くことによって、視野が広くなり、社会的関心が旺盛になる面も指摘している。
 そして、いずれにしても、「市民の絶えざる監視と批判」が不可欠であると論じるのである。
 傲り高ぶる人間は、いつの時代にもいる。傲慢の生命とは、戦い続ける以外にない。
 イギリスの詩人ミルトンは綴った。
 「(悪徳)が弁じ立てるのに/(美徳)がその高慢をうち砕く弁舌を/もたないのは私にはがまんができませぬ」(加納秀夫他訳『世界名詩集大成(9)イギリス篇1』平凡社
 傲慢は、勢いのある言論で打ち倒すのだ。

教育哲学者デューイ 権力の悪用への警鐘
高い地位につくと振舞が傲慢になり利害に執着する

 若々しい生命で悠然と勝ち進め 
 一、「師子吼」の意義について、御義口伝には、「師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり」(御書748ページ)と説かれている。
 すなわち、師匠と弟子とが、ともに心を合わせ、広宣流布の勝利へ、正義の声をあげるのだ。
 これほど正しく尊い、強い声はない。「百獣」を打ち破る、王者の声である。
 また、大聖人は「此の経文(=法華経)は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり鷲のごとし」(同1310ページ)と仰せである。
 戸田先生は、創価学会は宗教界の王者であると宣言された。
 牧口先生と戸田先生、戸田先生と私も、この「師子吼」「王者の声」で、すべてに勝ってきた。 私と青年部も、同じである。
 若々しき生命の青年部の皆さんは、師子王のごとき、大鷲のごとき尊き存在なのである。
 「王者の中の王者」の風格をもって、我らの道を、何ものにも左右されず、悠然と、厳然と、勝ち進みゆくことだ。
 
 「悩める人々のために闘おう」 
 一、あるとき戸田先生は、草創期の学生部に対し、厳愛の指導をされた。
 「もしも一緒に仏法の真の探究者になるというのなら、私の本当の弟子になりなさい。他所から来て聴いているというような態度は、実によくないぞ!」
 戸田先生が逝去なされた直後に、私は日記に書いた(昭和33年6月19日)。
 「勝たねば、恩師が泣く」
 「悩める人びとのために、闘おう」
 「最高に尊き信心の結晶──。地味にして着実な努力をやりぬくのだ。限りなく、どこまでも。これが、われらの革命の軌道なのだ」
 また、この10日後、私は、学生部の第1回総会に出席した。
 日記には、次のように書いている。
 「午後一時──目黒公会堂にて、第一回学生部総会」
 「恩師の精神を、ただ叫び続けて、この生涯を送ろう」
 幾たびも、激流を乗り越えた。私は、若き日の誓いのままに、叫び続けてきた。結果を残した。今も、寸分も変わらぬ思いで進んでいる。
 昭和32年の12月。学会は、戸田先生の生涯の願業であった、75万世帯の折伏を達成した。
 この師走、戸田先生は、私に一首の和歌をくださった。

 勝ち負けは
  人の生命の
    常なれと
   最後の勝をば
    仏にぞ祈らむ

 これが、先生からいただいた、最後の和歌となった。
 断じて勝て! 最後に勝て!──これが、創価の師弟を貫く誓願である。勝利こそ、師匠への報恩だ。
 次は、青年部、学生部、未来部の諸君の番である!(大拍手)
 (2007・8・16)