西日本・教育本部・学術部合同研修会(下)

釈尊の言論闘争の舞台 舎衛城

 「日蓮大聖人は「日本国は一向に法華経の国なり例せば舎衛国の一向に大乗なりしが如し」(御書440ページ)と仰せである。
 「広宣流布」を現実に大きく進めた一つのモデルに「舎衛」の地が挙げられる。
 ここにお集まりの関西をはじめ、中国、四国、九州、そして沖縄の皆さま方も、現代において、それぞれの地域で、広布の前進の堂々たるモデルを示してこられた。
 きょうは、その皆さまとともに、釈尊在世の"仏法の広がり"を象徴した「舎衛」の広宣流布について学んでおきたい。

 舎衛の三億
 一、釈尊は、広大なインドの大地を、歩きに歩いて大法を弘めた。その中でも、最も頻繁に足を運び、最も長期間、滞在したのが、「舎衛」であった。
 大乗の論師・竜樹の「大智度論」には、有名な「舎衛の三億」が説かれている。仏に緑することの難しさを誓えたものである。
 すなわち、舎衛には「9億」の家があった。〈「1億」は、「10万」に当たるとの説がある〉
 25年にわたる舎衛での化導によって、このうち3億は、釈尊を見たことがある。
 もう3億は、釈尊を見たことはないが、釈尊のことを聞いたことがある。
 さらに残りの3億は、釈尊を見ることも聞くこともなかったという。
 それほど釈尊に緑の深い国土にあっても、"仏を見ることも聞くこともなかった人々"が、まだ3分の1いた。
 しかし見方を変えれば、そうした中で25年間、法を私めることによって、釈尊の存在が、国土の中に浸透していたともいえよう。

 庶民の都に拠点 
 一、「舎衛」とは、インドにあった大国コーサラ国の都城である。
 交通の要衝であり、商業活動が盛んな、貿易の中心地であった。
 釈尊は、多くの人々が集まり、行き交う、活発にして賑やかな"庶民の都"に拠点を定めた。そして、人々の中に勇んで分け入って、法を説いていったのである。
 当時は、「王舎城」を中心とするマガダ国と、この舎衛城を中心とするコーサラ国が、インドの「十六大国」の中で、ずば抜けた二大強国であった。
 釈尊の弘教と人材錬磨の大拠点として、マガダ国には「竹林精舎」があった。
 コーサラ国には「祇園精舎」があった。
 地理的に見ると、コーサラ国は、マガダ国の西北に位置する。
 あえて、日本の学会の方面になぞらえれば、マガダ国が「東京」はじめ東日本なら、コーサラ国は「関西」はじめ西日本ともいえようか。
 ご存じのように、私は、いち早く、大阪、関西という"庶民の都"を広宣流布の重要拠点に定めた。
 昭和26年(1951年)、第2代会長に就任された戸田先生に、私は進言申し上げた。
 「日本の広宣流布の未来を考えた時、庶民の都・大阪にこそ、最も早く支部を建設するべきです」
 東の東京に対して、西には商都・大阪がある。ここに、広宣流布の一大拠点を築くのだ。
 そうすれば、西日本はもとより、日本列島の全体に、ひいては世界へと、広布の波動が広がっていくに違いない──。
 これが私の確信であり、決意だったのである。

 行為によって人は高貴になる 
 一、釈尊の舎衛での弘通は、渦巻く怨嫉との戦いであった。
 もともと、この舎衛の一帯は、バラモンをはじめ外道の勢力が強く、釈尊たちに反感をもつ人間も多かったようだ。
 釈尊は、バラモン教の階級制度に対して、「四姓(しせい)平等」を高らかに説き、それゆえに激しい抗議にあったが、その地が、ここ舎衛であった。
 経典には、釈尊たちがこれらの外道を論破していったことが記されている。
 そして、有力なバラモンが、次々と釈尊に帰依していった。
 舎衛を舞台に、釈尊は、「敵を味方に変える」大闘争を繰り広げていったのである。
 法華経に説かれる通り、悪世末法において広宣流布しゆく人々への嫉妬と迫害は、釈尊在世とは比較にならない。
 その中で、わが学会は「敵を味方に変える」勇気と智慧、誠実と忍耐によって、世界に妙法を広宣流布してきた。
 経文に照らして、こがどれほど偉大であるか。皆さまの功徳がどほど大きいか。計り知ないのである。
 一、釈尊が、舎衛で法を弘めていた時のことである。
 釈尊は、当時の最下層の民衆が着る「カサーヤ」という衣を着ていた。
 その姿を目にした、最上位の階層であるバラモンの男が、釈尊を侮蔑して言った。
 「賎しい奴よ、そこにおれ」
 しかし、釈尊は怯まない。
 「バラモンよ。あなたはいったい賤しい人とはなにかを知っているのですか?」と問い詰める。 そして、"賎しい人とは次のような人である"と、明晰な論陣を展開していったのである。
 「怒りやすくて恨みをいだき、邪悪にして、見せかけであざむき、誤った見解を奉じ、たくらみのある入」
 「偽りを語る人」
 「悪事を行なっておきながら、『誰もわたしのしたことを知らないように』と望み、隠し事をする人」
 「自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人」
 「ひとを悩まし、欲深く、悪いことを欲し、ものおしみをし、あざむいて(徳がないのに敬われようと欲し)、恥じ入る心のない人」
 「目ざめた人(ブッダ、)をそしり」「その弟子(仏弟子)をそしる人」
 そして、釈尊は有名な言葉を発した。
 「生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのでもない。
 行為によって賎しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」
 〈中村元訳『フッダのことば──スッタニパータ』岩波文庫
 いかなる権威にも屈しない。
 地位や肩書などには、目もくれない。
 いかなる行動をしているのか──その一点で、釈尊は人を評価した。
 これが仏法の大精神である。
 人のため、法のため、広宣流布のために、来る日も来る日も戦ってくださる最前線の同志こそ、最も尊貴なのである。
 一、またある時、コーサラ国の王が、釈尊を軽んじて言った。
 「有名であり、名声あり、開祖で、立派な修行者であると、多くの人々に認められている修行者。バラモンたちがいます」
 「ゴータマさん(=釈尊)は、生れに関してはまだ若いし、出家修行に関してはまだ新参ではないか」と。
 釈尊は王を諌めた。
 「若いからといって見下してはなりません、若いからといって軽蔑してはなりません」
 〈中村元訳『ブッダ 神々との対話──サンユッタ・ニーカーヤー』岩波文庫
 新しき時代を開くのは、若き力である。
 昭和31年(1956年)、私が、愛する関西の同志と共に、あの「"まさか"が実現」の金字塔を打ち立てた時も、28歳であった。
 学会は、燃え上がる「青年の魂」で進んできたゆえに、ここまで大勝利してきた。
 青年を大事にする。青年を信頼する。青年を育てる──この勝利の法則を、決して忘れてはならない。
 一、日蓮大聖人は仰せである。
 「第六天の魔王が私(日蓮大聖人)の身に入ろうとするのに、かねてからの用心が深いので身に寄せつけない」(御書1340ページ、通解)
 御本仏の仏敵との御闘争は、生涯、止むことがなかった。
 広宣流布は、仏と魔との間断なき闘争である。
 舎衛城も、釈尊が「九横の大難」のうち、「栴遮女(せんしゃにょ)の謗(そしり)」「孫陀利(せんだり)の謗」を受けた地であったと伝えられる。
 〈「栴遮女の謗」とは、栴遮女が釈尊の子を身ごもったと誹謗した事件。「孫陀利の謗」とは、釈尊に近づいた孫陀利という女性が殺害され、それが釈尊の教団の仕業だと喧伝された事件〉
 発展する仏教教団を妬んだ外道が結託し、権力をも利用しながら、暴力や、デマという言論の凶器をもって、激しい迫害を加えてきたのである。
 しかし、正義の師弟の結合は、いささかも揺るがなかった。弟子たちも憤然と反撃した。やがて、真実は完壁に明らかとなった。
 釈尊の子を身ごもったと虚言を吐いた栴遮女は、人々から唾を吐かれ、地獄の苦悩の業火に包まれたとされる。
 また、孫陀利を殺し、その罪を釈尊に着せようとした外道たちに、時の王は厳命したという。
 「ゴータマ(釈尊)にもゴータマの弟子にも罪はなく、罪はわたしたちのものです」。そう言いながら、都を謝罪して回れ──と。
 〈前田専学訳『ジャータカ全集3』春秋社〉
 正邪の決着は、一分の妥協もなく、後世にとどめ残さなければならない。それが「破邪顕正」の大折伏なのである。
 一、昭和32年(1957年)、私は、最も宿縁深き関西で王難に遭った。
 全く事実無根の、あの「大阪事件」において、師匠・戸田城聖先生には一指も触れさせることなく、完璧にお守りし抜いたことは、ご存じの通りである。
 そして、その後の4年半の裁判を、不二の関西の同志とともに戦い、「無罪判決」を勝ち取った。(昭和37年1月25日)
 創価の正義の師弟が、尽未来際にわたって、いかなる陰謀にも絶対に負けない根本の因を刻んだのである(大拍手)。

 "あらゆる人を救います!"
 一、「大阪事件」の無罪判決の日「1月25日」は、わが「関西婦人部の日」である。
 いついかなる時も、苦楽をともにしてくれた、関西をはじめ西日本の婦人部の方々に、私は妻とともに、深い感謝を込めて、題目を送り続けている。
 一、舎衛においても、偉大なる女性の活躍の歴史があった。
 国王である波斯匿王(はしのくおう)とその妃は、釈尊を篤く信奉し、弟子となる。その国王夫妻の娘が、有名な勝鬘(しょうまん)夫人である。〈波斯匿王の夫人であったなどとする経典もある〉
 この勝鬘夫人は、喜んで釈尊の門下となった。
 「勝鬘」の名は、サンスクリット語で「すぐれた花飾り」との意味である。まさに、その名の通り、人々に歓喜と幸福の花をもたらす美徳を湛えていた。
 勝鬘夫人は、釈尊の前で、"あらゆる苦悩の人を救済し尽くします!"との気高い誓願を立てた。そして、その決定した一念のままに、人々を正法に導いていったというのである。
 釈尊も心から讃え、「普光和来」との成仏の記別を与えた。
 一、勝鬘夫人は、「師子吼者」──師子吼の人と呼ばれた。
 仏典(涅槃経)には、「師子吼」について、"師子を装うニセ者を打ち破る""人々の恐れを取り除く""眷属の威光勢力を増す""子どもたちに教え説く"等の力用が具わっていると説かれている。
 勝鬘夫人は宣言した。
 「和来の説かれた教えやおきてをないがしろにする性質のものたちを見たならば、けっして無関心ではすごしません」「こらしめるべきたぐいのものたちはこれを折伏し」ますと。(勝鬘経、高崎直道訳『大乗仏典第12巻』中央公論社
 まさしく、正義の師子吼を放つ創価の婦人部、女子部の姿と、見事に響き合っている(大拍手)。
 一、舎衛における釈尊の弟子では、「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」を寄進した須達(すだつ)長者もよく知られている。
 この大長老は、波瀾万丈の人生行路のなかで、釈尊の弟子として、堂々たる大勝利の軌跡を示していった。
 御書にも、「七度貧になり・七度長者となり」(1574ページ)と、須達長者について説かれている。
 すなわち、大富豪である須達長者の夫妻は、7度も貧窮のどん底を経験した。しかも、7度目は、最も苦しい境遇にあった。
 手元には5日分の米しか残っていない。その時、釈尊と4人の仏弟子が次々と訪れると、夫妻は喜んで5人に米を供養していった。
 この一番、大変な時に積んだ福運によって、夫妻は、全インド第一の長者となり、祇園精舎を造った。
 御本仏は、この伝承に言及されつつ、「これをもって、万事をわきまえなさい」(同ページ、通解)と教えておられる。
 須達長者は、貧しい人々には、何でも分け与えた。地域や社会の信頼も絶大であった。
 仏典には「友人が多く、仲間が多く、ことばが信用されていた」(『中村元選集第11巻』春秋社)と記されている。
 わが学会においても、西日本はじめ全国、全世界に"創価の須達長者夫妻"と讃嘆すべき、心美しき功労者の方々が、厳として、仏意仏勅の学会を、支え守ってくださっている。
 その方々のことは、私の生命の奥底から永遠に離れることはない。

 敵の末路を刻め 
 一、堤婆達多は、釈尊への嫉妬から反逆し、師敵対と破和合僧の大罪を犯した。しかし、企み
は、ことごとく失敗に終わり、無惨な敗残の姿を示した。
 大聖人は「法蓮抄」に「仏を憎み、怨をなして三逆罪に及んだ提婆達多は、五尺の人身のまま、大地が割れて地獄に堕ちた」(御書1041ページ、趣意)と記しておられる。
 さらに、極楽寺良観らと組んで迫害を加えた者の罰の現象について「我が身といい其の一門皆ほろびさせ給う」(御書1093ページ、趣意)と、厳正に教えておられる。
 広宣流布を破壊する仏敵とは絶対に安協してはならない。また油断してはならない。
 徹底して戦い、破折し、打ち負かして、その末路を歴史に刻んでいくことこそ、真の慈悲である。
 大聖人は、師子王は蟻の子を相手にする時も、獰猛な獣を相手にする時も「いきをひ(勢)を出す事は・ただをな(同)じき事なり」(同1124ページ)と仰せである。
 ナチスと戦ったドイツの大文豪トーマス・マンは「最後に勝利が確定するまで油断は禁物です」(森川俊夫ほか訳『トーマス・マン日記』紀伊国屋書店)と叫んだ。
 この断固たる闘魂、これでもかという執念なくして、正法正義の和合の世界を厳護することはできないのである。

最高の幸福法を全人類へ
「戦い続ける」ことが広宣流布
わが地域を広布のモデルに
 平和・文化・教育の大路線を進め

 舎衛に勝る拡大 
 一、釈尊は、舎衛の地で、長い年月をかけて大法を弘めていった。
 その偉大な人格に触れることによって、仏法流布が進んでいったことを知らねばならない。
 御聖訓に「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(御書856ページ)と仰せの通りである。
 とともに、「舎衛の三億」の譬えにあるように、釈尊が全魂を込めて法を弘めても、舎衛の3分の1の、3億の人々は、釈尊のことを見たことも、聞いたこともなかった。
 また釈尊は、広宣流布の進んだ舎衛においても大難に遭った。
 このことは、大きく広宣流布が進んでも、無認識や誤認識の人が、依然として存在することを示唆している。
 要するに、広宣流布とは、絶え間なき魔との戦いであることを、「舎衛の三億」は示しているといえよう。
 しかし、現代の日本を見る時、創価学会のことを、まったく見聞きしたことがないという人は、少ないのではないだろうか。
 これも、尊き同志の皆さま方が、日々、対話と友情を拡大してくださっているおかげである。仏法の人間主義の精神は、社会に、地域に大きく広がり、浸透している。
 それは、世界190カ国・地域に及び、「舎衛の三億」の譬えに照らしても、比べものにならないほど壮大な広がりとなった。
 悪世末法において、正法を受持し、弘めていくことが、いかに希有なことであるか──。
 日寛上人は「三重秘伝抄」で、舎衛の三億の譬えを引いておられる。
 ──たとえ釈尊と同じ時代に生まれ合わせたとしても、舎衛の3億の人々は、釈尊を見ることも聞くこともできなかった。
 いわんや像法、末法の、インドから遠く離れた辺境の日本で、どうして簡単に仏法に巡りあうことができようか──
 〈「縦(たと)い在世に生(うま)ると雖も舎衛の三億の如きは尚見ず聞かざるなり、況んや像末辺土(ぞうまつへんど)をや」〉
 私たちの実践が仏法史上、どれほどの偉業であり、壮挙であるか。
 まさに、仏教史、いな宗教史の奇跡とも言うべき大運動こそ、私たちの進めている「広宣流布」なのである。

 広宣流布は流れ 
 一、日蓮大聖人は、厳然と仰せである。
 「剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(御書1360ページ)
 「終(つい)には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」(同816ページ)
 「日本国並びに一間浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(同265ページ)
 仏法を万人へ、そして万人を、一生成仏という最極の幸福境涯へ──これが、大聖人の御心であられる。
 広宣流布の「流布」とは「大河のごとく流れ」「布のように布き広げていく」という意味である。全人類に向かって流れ、布き広げていくということである。
 これまでも、何度となく申し上げてきた通り、広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体である。
 何か特別な終着点があるものではない。「こうなったら広宣流布」というのは、譬えでは言えるが、決まった形のことではない。
 大聖人の仏法は「本因妙」の仏法であり、常に未来に広がっていく正法なのである。
 末法万年尽未来際のための仏法である。
 永遠に戦い続けることが、広宣流布に生きるということだ。
 一、広宣流布とは、形式的に人数が増えることではない。
 日本一国にとどまるものでも一宗教を国教化することなどでもない。
 社会の各分野に妙法の「慈悲」と「智慧」が生かされ、「生命の尊厳」「人権の尊重」「平和の文化」が輝く社会を創造していく。
 こうしたことも、広宣流布の具体的な開花である。
 広宣流布とは、最高の幸福の哲理、最高の平和の法理を、広めていく運動である。
 師から弟子へ、親から子へ、先輩から後輩へ。
 また、国を超え、階層を超え、あらゆる差別を超えて、広めていくのである。
 大聖人は仰せになられた。
 「日蓮の慈悲が広大であるならば、南無妙法蓮華経は万年のほか未来の果てまでも流布するであろう」(御書329ページ、通解)
 「今、日蓮が唱える南無妙法蓮華経は、末法一万年の衆生まで成仏させるのである」(同720ページ、通解)

 永遠の常勝の都 
 一、私たちには、末法万年の一切衆生を救い切っていける妙法がある。
 この日蓮仏法の大哲理を掲げて、永遠の「広宣流布の都」、永遠の「創価の常勝の都」を築き上げることが、人類の永遠の「平和と繁栄の都」を大建設することだ。
 そのためには、絶対に途絶えることのない、人材育成の流れを確立しておくことである。
 まず、今の青年群を、全力で、完璧に育て上げてまいりたい。
 一、折伏・弘教は根本の修行である。
 そのうえで、相手が信仰する、しないという次元を超えて、仏法への理解と共感を広げながら、ともどもに幸福な社会の建設へ、前進していくことが大切となる。
 それこそ、わが創価学会が、人類史上の先頭に立って切り開いてきた、仏法の人間主義を基調とする「平和主義」「文化主義」、そして「教育主義」の大路線である。
 私たちは「万年」の未来を目指し、「全世界」を舞台に、あらゆる次元で、壮大なる広宣流布の運動を広げているし、これからも広げていくのである。
 この最高無上の誇りを胸に、わが愛する地域に、方面に、永久に輝きわたる「広布のモデル地域」を創り上げてまいりたい(大拍手)。
 (2007・8・21)