14=完 米カリフォルニア大学

 ロサンゼルス校(UCLA) バークレイ校(UCB)

人間主義の世紀を!弟子よ続け 学生の中へ そこに新しき創造




 「出かけよう、力づよく、伸びのびと」
 新世界の魂を謳い上げた、ホイットマンの詩である。

 私が世界の大学からの招請にお応えして、最初の講演を行ったのは、三十三年前。
 世界的な名門、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)であった。
 カリフォルニアの新しき風が吹きわたる、一九七四年(昭和四十九年)の四月一日
 ミラー副総長の案内で入った会場のディクソン講堂は、すでに、六百人ほどの学生や教授陣の熱気に包まれていた。
 壇上後ろに、講演テーマの「二十一世紀への提言」と、「講師 池田大作会長 創価大学創立者」と英語で書かれた横幕が掲げられていた。
 いよいよだ。
 私は、師匠二戸田城聖先生を思った。
 午後三時過ぎ、講演の第一声を放った。
 日本時間では、四月二日の午前七時過ぎ──恩師の祥月命日の朝であった。
     ◇
 講演で私は、大歴史学者トインビー博士との対話が、仏法の生命哲理を志向するものだったことを紹介しながら、「二十一世紀の人類の進むべき道」を語っていった。
 人類は、生命を手段化する「テクノロジー(科学技術)の世紀」を超えて、生命尊厳の「ヒューマニティー人間性)の世紀」へ進め!
 そのために、欲望に振り回される「小我」の生き方から、大宇宙の根本法に則った「大我」の生き方へ転換を!
 そして──「私は仏法に、人間の真の自立の道を発見し、『生命の旅』を開始いたしました。皆さんも、一人ひとりが未曾有の転換期に立つ若き建設者、開拓者として、『人間自立の道』を考えていただきたい」と訴え、一時間十五分の講演を結んだ。
 その瞬間、若き聴衆は、総立ちとなった。
 「池田会長は、我々に新鮮な感動と勇気を与える歴史的な講義をしてくれた」と語られるミラー副総長の声も、大拍手でかき消された。
 握手を求めて多くの学生が演壇に駆け寄ってこられた。“生きる意味”を探究する学生たちの共感が嬉しかった。
  ◇
 一九六〇年代の後半から七〇年代にかけて、アメリカの「自由」と「平等」の理想は陰りを見せていた。
 深刻な人種差別問題。泥沼化するベトナム戦争。罪なき民衆は戦火に疎開され、米国の青年たちも次々と戦場に送られたのである。
 なぜ、殺さねばならないのか! なぜ、殺されねばならないのか! 若者の血涙の叫びがあった。
 私も憂慮した。日本の青年や学生たちを前に、二度、ベトナム停戦を訴えた(一九六六、六七年)。
 一九七三年の一月一日付で、ベトナム和平の提言を、人を介してキッシンジャー大統領補佐官に託し、ニクソン大統領に届けもした。
 さらにまた、創価大学創立者として各国の名門学府を歴訪し、このUCLAで十一校目になっていた。

 大学から発信せよ 

 恩師は、私に託された。
 「仏法の生命尊厳の法理を、君が世界に知らしめていくのだ。それには『大学』が大事だ。世界の大学が仏法哲学の重要性を知れば、そこから新しい思想の潮流が起こるぞ」と。
 UCLAでの講演は、仏法の英知を世界に発信しゆく、戸田先生の直弟子の新たな挑戦の始まりであった。
 以来、モスクワ大学ハーバード大学等で講演を重ね、本年三月のイタリアの名門、国立バレルモ大学での記念講演(代読)で、三十二回の歴史を刻んだのである。
 大学での講演は難しい。簡単すぎれば最高学府にふさわしくないと言われ、難解すぎれば咀嚼していないと非難される。北京大学の三度目の講演の折に、そう申し上げると、場内に爆笑が広がった。
     ◇
 十九世紀半ば、金鉱発見に沸き返り、人々が押し寄せるなか、「次の世代の栄光と幸福のためには、金よりも、もっと大切なものがある」と、新たに築かれた教育の府が、カリフォルニア大学であった。
 一八六八年創立のバークレー校(UCB)が最も古く、UCLAが一九一九年に加わり、現在、十の系列大学を擁する。アメリカの州立大学の雄である。
 特にバークレー校は、一九六〇年代、学生たちが立ち上がり、公民権運動、ベトナム反戦運動の中心となった。先駆と自由の校風が脈打つ。

 核の魔性を喝破! 

 私が、サンフランシスコの対岸にある、このバークレー校を初訪問したのは一九七四年の三月八日。UCLAで講演を行う三週間前であった。
 ボウカー総長との会見を前に、大学で、妻と共に、卒業間近の二人の女子学生と会った。私の多忙を気遣ってくれる聡明な彼女たちに語った。
 「私は皆さんに会うために来たのです。夢を大きく持って、福智の勝利者に!」と。
     ◇
 第二次世界大戦中、バークレー校の科学者が米国のマンハッタン計画に関わり、原爆製造を進めた。その筆頭が、オッペンハイマーである。
 広島・長崎の惨劇後、罪の意識に苛まれた彼は言った。
 「(原爆は)われわれが育った世界のどの基準から見ても悪であります......」
 この核兵器の「魔性」を喝破されたのが、わが師の「原水爆禁止宣言」である。
 私は、バークレー校のキャンパスに立ち、人類の生存の権利を護り抜く若き英知の大連帯を、と胸深く誓った。
     ◇
 一九九三年(平成五年)の三月十五日、桜がほころぶバークレー校を再び訪れた。
 「バークレーで起きたことは、五年後に、必ず他のどこかで起きるとの確信で、いつも戦っています」とは、その時のチェン総長の言葉だ。
 「学生との対話」は、この総長の信念であられた。
 ──多忙を口実に「学生に会えない」理由など、いくらでも見つけ出せます。
 でも、それでは、最も大切な人間の対話と交流と知性の鍛錬の場としての大学の意義が失われてしまう。ゆえに、その必要性を感じた者が一人立って、小さくとも確実な実践をしていくのです──と。
 ここに、四十人を超えるノーベル賞受賞者を輩出した、驚異的なバークレーの伝統を見る思いがした。
 対話こそ新たな創造の力であり、新たな勝利の源だ。
     ◇
 この折、私が嬉しい再会を果たした学生の中に、同校の博士課程に学ぶエド・フィーゼル君がいた。
 彼は、初代のアメリカ男子高等部長として全米を駆け回りながら、翌九四年、経済学の博士号を取得する。
 「どれだけ偉い博士になっても、一庶民であることを忘れてはいけない。頭でっかちになってはいけないよ」
 彼が胸に刻み続けている、母の言葉である。
 そのフィーゼル君は、今、アメリ創価大学の教務部長として、創価学園創価大学第一期のハブキ学長と共に、世界市民育成の学府建設に尽力してくれている。
 偉大なる「母たちの願い」を胸に!
     ◇
 私がアメリカに第一歩を印したのは、第三代会長に就任した一九六〇年(昭和三十五年)の十月であった。
 その最終盤に訪れたのが、実はUCLAであった。ここに日本から一人のメンバーが留学していたのだ。
 美しいキャンパスを散策した。一番高い所に「学生寮」があり、強く印象に残った。
 以来四十余年──二十一世紀が開幕した二〇〇一年、カリフォルニア州オレンジ郡に、わがアメリ創価大学の新キャンパスが誕生した。
 私は構内の高い丘の上に「学生寮」を建てた。「学生第一」の心を込めて。
 「アメリ創価大学は、他の国やアメリカにとって模範に!」とは、バークレー校出身の大経済学者ガルブレイス博士の期待であった。
 すでに三期生が卒業したアメリ創価大学をはじめ、創価大学創価学園の同窓生たちが、このUCLAやバークレー、さらにハーバード、コロンビア、オックスフォード、ケンブリッジ等々、私が訪れてきた世界超一流の大学の大学院にも進学している。
 私が戸田大学の卒業生として切り開いてきた「世界の大学への道」に、わが後継の俊英が澎湃(ほうはい)と続いてくれているのだ。
 世界の民衆の幸福のため!キング博士は宣言した。
 「悪と妥協しないことで、私たちは、この世界と文明を変えることができる」
 「私たちは進み続けなければならない!」

 ※ホイットマンの言葉は酒本雅之訳『草の葉』(岩波文庫)。オッペンハイマーは河邉俊彦訳『オッペンハイマー』(PHP研究所)。キングはバークレー校での講演「非暴力の力」より