創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る
使命を自覚すれば希望と勇気が生まれる
一、素晴らしき青春の詩を紹介したい。
「私は幸福だ
わが優しき友よ
かくも純粋で
調和に満ちた君の声が
私の夢を
揺りかごのように
揺らしながら歌う時
私は幸福だ
私は幸せだ」
「人生のために
君がより良き人間に
なることを私に約す時
私は幸福だ」
これは、大科学者であり、豊かな詩心をあわせ持っていた女性マリー・キュリー(1867〜1934年)が記し残した詩の一節です。
私と妻の「夢」は、創価教育の創始者・牧口常三郎先生、そして戸田城聖先生の「夢」を実現することであります。
その最大の「夢」の一つが、女性教育の殿堂たる創価女子短期大学の創立でありました。
この短大の麗しきキャンパスで、「正しき人生」「革福の人生」「勝利の人生」へと、「誉れの青春」を乱舞しゆく皆さん方を見守ることが、私と妻にとって、何よりも何よりも幸福なのであります。
春夏秋冬、励ましを贈りゆく像
「わが創価女子短大の「文学の庭」には、キュリー夫人の像が立っています。
背筋を凛と伸ばし、真摯な探究の眼差しで、手にした実験のフラスコを一心不乱に見つめています。
うららかな桜花爛浸の日も、激しい雷雨の日も、寒風の吹きすさぶ木枯らしの日も、そして白雪の舞いゆく日も、学び勝ちゆく姿で、わが短大生の向学の春夏秋冬を励まし続けてくれています。
この高さ2・5メートル、台座1・5メートルの像は、アメリカの気鋭の彫刻家ジアノッティ氏が、1915年の写真をもとに渾身の力を込めて制作されたものです。
第1次世界大戦のさなか、放射線治療班を組織して、負傷兵の看護に奔走した時期のマリー・キュリーの姿です。
この像の除幕式が行われたのは、1994年の春、4月4日。
寄贈してくださったブラスナ一博士ご夫妻と一緒に、私と妻も出席いたしました。
式典に参加した短大生の皆さん方の、あの晴れやかな喜びの笑顔が、私は本当にうれしかった。
マリー・キュリーは、1867年の11月7日生まれ。
「創価教育の父」である牧口先生が生誕したのは、1871年の6月6日ですから、ほぼ同世代になります。
私の恩師・戸田先生も、牧口先生と同じ時代を生きたキュリー夫人の足跡に格別の関心を寄せられ、模範の女性として最大に賞讃されていました。私が短大にキュリー像を設置した淵源も、ここにあります。
私の行動の一切の起点は、師への報恩であり、師の構想の実現であります。
恩師のもとで、若き日に編集長を務めた雑誌「少年日本]に「キュリー夫人の苦心」と題する伝記を掲載したことも、懐かしい。
令孫との出会い
一、この像の除幕から4年後の1998年の秋、短大生の代表が、来日していたマリー・キュリーの令孫で、核物理学者でもあるエレーヌ・ランジュバン=ジョリオ女史とお会いする機会がありました。
短大のキュリー像のことを申し上げると、それはそれは喜んでくださったといいます。
今回は、この像の前でゆったりと懇談するような思いで、講座を進めさせていただきたい。
ノーベル賞を受けた初の女性
一、改めて申し上げるまでもなく、マリー・キュリーは、人類史に輝きわたる屈指の大科学者です。
1903年には、ノーベル物理学賞を受賞しました。〈夫のピエール・キュリー、フランスの物理学者であるアンリ・ベックレルと共同受賞〉
これは、女性として最初の受賞となりました。
さらに初の受賞から8年後の1911年には、ノーベル化学賞を単独で受けています。
二つのノーベル賞を勝ち取ったのも、彼女が初めてです。
しかも、その人格は、そうした"世評の風"によって、いささかたりとも左右されなかった。かのアインシュタイン博士も、「名のある人々のなかで、マリー・キュリーはただひとり、その名声によってそこなわれなかった人物である」(ビバリー・バーチ著、乾侑美子訳『キュリー夫人』偕成社)と感嘆しておりました。
だからこそ、時を超え、国を超えて、民衆から、彼女は深く広く敬愛されてきたのです。
最も好きな歴史上の人物
一、これは、フランスの友人が教えてくれたのですが、5年前(2003年)にフランスの調査会社が、ヨーロッパの6カ国(ドイツ、スペイン、イギリス、イタリア、フランス、ポーランド)の街角で、「最も好きなヨーロッパの歴史上の人物は誰か」と尋ねるアンケートを行いました。
イギリスのチャーチル首相や、フランスのドゴール大統領など、錚々たる歴史の巨人の名前が挙がりました。
そこで、6000人の通行人が一番多く筆頭に挙げたのは、いったい誰であったか?
マリー・キュリーその人であった、というのです!
2006年の11月、フランスでは、「マリー・キュリーの記念コイン(20ユーロの金貨・銀貨)」が発行されました。
これは、1906年の11月、彼女が亡き夫ピエールに代わり、女性で初めてパリ大学の教壇に立ってから100周年を記念して、作成されたものです。
さらにまた、昨年には、パリ市内を走る地下鉄の一つの駅が、改装オープンに当たり、「ピエール・エ・マリー・キュリー駅」と夫妻の名前が付けられました。これは、3月8日の「国際女性の日」にちなんだものです。
マリー・キュリーという存在は、その夫ピエールとともに、今も生き生きと、人々の心のなかに生き続けているのです。
波潤万丈の生涯
一、それは、今から36年前(1972年)の4月30日の朝のことです。
20世紀最大の歴史家トインビー博士と、私が対談を開始する5日前のことでありました。
私と妻はフランスの友人とともに、パリ郊外のソーにある、マリー・キュリーの家を訪ねました。
3階建ての赤い屋根の家。そこには銘板が設置されており、1907年から1912年の間、マリー・キュリーが暮らしたことが刻まれていました。
この家で暮らした期間は、マリーにとって、最愛にして不二の学究の同志である夫ピエールを亡くした直後に当たります。
そしてまた理不尽な迫害など、幾多の試練を乗り越えていった時期でもあります。
さらに、1910年、「金属ラジウムの単離」に成功し、翌年、ノーベル化学賞の栄誉が贈られたのも、この家で過ごした時代のことでした。
私は家の門の前に、しばし、たたずみ、マリー・キュリーの波瀾万丈の生涯に思いをはせました。
──生まれた時は、すでに外国の圧制下にあった、祖国ポーランドでの少女時代。
幼くして、最愛の母や姉と、相次いで死別した悲しみ。
好きな勉強がしたくても、許されず、不遇な環境で、じつと耐え続けながら学んだ青春時代。
親元を離れ、大都会で、貧苦のなか、猛勉強に明け暮れた留学の一日また一日。
女性に対する差別もあった。卑劣な嫉妬や、外国人であるゆえの圧迫もあった。
さらに、愛する夫との突然の別れ。そして戦争、病気......。
絶望のあまり、生きる意欲さえ失いそうになることもあった。
けれども、彼女は、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
断じて屈しなかった。絶対に負けなかった。
順風満帆の人生などない。むしろ困難ばかりです。
マリー・キュリーの偉大さは「悲哀に負けない強さ」にある。
そして、苦難を押し返していったのです。
私は、妻と一緒に並んで歩いていた、フランスの清々しい創価の乙女に語りかけました。
「私は、マリー・キュリーの偉大さは、二つのノーベル賞を取ったということより、『悲哀に負けない強さ』にこそあると思う。
順風満帆の人生など、ありえない。むしろ困難ばかりです。
それを乗り越えるには、自分の使命を自覚することです。そこに希望が生まれるからです」
あの時、瞳を輝かせ、深くうなずいていた彼女も、気高い使命の人生を、鋼鉄の信念の夫とともに、希望に燃えて歩み抜いてこられました。
今では、3人のお子さん方も、その父と母の使命の道を受け継いで、立派に社会で活躍しております。
戦う勇気、耐え抜く勇気を!
一、マリー・キュリーは青春時代、友人への手紙に、こう記しました。
「第一原則、誰にも、何事にも、決して負けないこと」(スーザン・クイン著・田中京子訳『マリー・キュリー1』みすず書房)
「決して負けない」──これが、彼女の一生を貫いた金剛の一念です。
この一点を定めた人生は、強い。
私の妻のモットーも、「勝たなくてもいいから、負けないこと」「どんな事態、状況になっても負けない一生を」です。
戦時中、特高警察の監視のなか、堂々と正義の信念を叫び抜く牧口先生の師子王の姿を、幼き日の妻は、自宅の座談会で目の当たりにし、生命の奥深くに焼きつけました。
そして、そのあとを継がれた戸田先生を人生の師匠と仰ぎ、「負けないこと」を鉄則として、黙々と使命を遂行してきたのです。
アインシュタイン博士は、マリー・キュリーを追憶する一文の中で書いています。
「まったくの知的な作業の面で彼女が何をなしとげたか、ということ以上に、おそらく、ひとつの世代そして歴史の一時代を画するものとして重要なのは、その傑出した人格の内面的な質ではないでしょうか」(高木仁三郎著『マリー・キュリーが考えたこと』岩波書店)
彼女の傑出した人格の特質──。それは、第一に「負けない勇気」であったといってよいでしょう。
「勇気」がなければ、どんなに人柄がよくても、人々を守ることはできない。
偉大な使命を果たすことはできません。
戦う勇気!
恐れない勇気!
そして耐え抜く勇気!
この勇気を、マリー・キュリーは、いかに鍛え、いかに奮い起こしていったのか。
私と妻にとって、最愛の娘の存在である創価女子短大生、また創価大学、アメリカ創価大学の女子学生、さらに、創価学園の女子生徒の皆さん、そして、すべての創価の女性に、万感の期待を込めて、お話ししていきたいと思います。
短大は創価三代の夢の結実
「女性の世紀」のリーダーに!
また、短大を受験してくださった皆さんは、全員が、一生涯、短大姉妹です。
試験だから、どうしても合格・不合格はある。しかし、短大という場に来て戦ったこと自体は、厳然と生命に残る。それは、生涯、消えない。
ですから、何があっても、朗らかに、生命の王女としての誇りを持って、堂々と「誉れの青春」を生き抜いてほしいのです。
私ども夫婦は、創価女子短大を受けてくださった皆さん全員の勝利と幸福の人生を、真剣に祈っています。
一、マリー・キュリーは、19世紀から20世紀への転換期を、あの像の姿のごとく、毅然と頭を上げて、胸を張って生き抜きました。
皆さん方もまた、学び勝ちゆく晴れ姿で、20世紀から21世紀への転換期を生き抜き、不滅の歴史を創り残していただきたい。
皆さん方こそ、人類の希望と光る「女性の世紀」の旭日のリーダーだからです。
向学の乙女が花の都・パリへ
一、フランスと北東ヨーロッパを結ぶ交通の要衝が、花の都のパリ北駅です。
私も、このパリ北駅から急行列車に乗って、5時間かけて、オランダの首都アムステルダムへと旅した思い出があります。25年前の1983年6月25日のことです。
私たちが乗る「北極星号」は夕刻に出発し、途中、停車したベルギーのブリュッセルでは、わざわざ待ってくれていた同志とともに、ホームで記念撮影をしました。
次のアントワープ駅でも、わずか1分の停車時間でしたが、同志と窓越しに心を通わせあったことが、今も胸から離れません。
──時代は19世紀の終わりに遡ります。
1891年の11月の早朝、パリ北駅のプラットホームに列車が到着しました。
長旅に疲れた多くの乗客とともに、一人の若い女性が、荷物を抱えて降り立ちました。
ポーランドのワルシャワから、3日間、ずっと4等車で揺られてきたの
ですから、くたびれていないわけがありません。身なりも質素そのものでした。
初めての大都会。まったく見知らぬ人々。不安がないと言えば嘘になるでしょう。
しかし、その心には、熱い熱い向学の魂が燃え盛っていました。
この乙女こそ、若き日のマリー・キュリーなのです。
私の胸には、その誇り高き「第一歩」の足音が、寮生をはじめ、親元を離れて私の創立したキャンパスに集ってくださった学生の皆さん、そして留学生の皆さん方の決意の足どりと重なり合って、響いてくるのです。
この時、彼女は23歳。女学校を卒業してから、すでに8年が経っていました。今であれば、大学を卒業している年頃です。一家全体の家計と学費の問題など、留学できるように環境を整えるまで、それだけの年月が必要であったのです。
学生生活にあっては、いわゆる浪人や留年、休学など、さまざまな事情で、人より年数がかかる場合もある。
しかし、人と比べて、くよくよすることはない。人生の戦いは長い。途中の姿で一喜一憂することはありません。
最後に勝っていけば、よいからです。青春の生命に失望などない。
もちろん、お父さんやお母さんには、よけいな心配をかけないように、努力を重ね、賢明な選択をすること。そして、必ず喜んでもらえる自分自身になって、親孝行をしていくこと。
この一点は、絶対に忘れてはなりません。
人と比べるな くよくよするな 最後に勝てばいい
他国の支配下での少女時代
一、ここで、留学に至るまでのマリー・キュリーの歩みをたどっておきたいと思います。
マリーがポーランドのワルシャワに生まれたのは、1867年11月でした。日本では、江戸幕府の終焉となる大政奉還が行われた、明治維新の時代です。
ともに優れた教育者であった父と母のもと、5人きょうだいの末っ子として誕生しました。生まれた時の名前はマリア・スクウォドフスカ。3人の姉と一人の兄がおり、「マーニャ」との愛称で呼ばれていました。
このワルシャワの生家のすぐそばには、ポーランドSGI(創価学会インタナショナル)のマルケピッチ婦人部長のお宅があります。
このお宅では、いつも明るく、地域の座談会が開かれ、平和と革福への実りある語らいが広がっております。
マーニャが生まれた当時、愛する祖国ポーランドは帝政ロシアの支配下にありました。ポーランド語の看板を通りに掲げることも許されない。ポーランドの歴史や言葉を教えることも厳禁。人々は不自由と屈辱の生活を強いられていたのです。
マーニャが通っていた学校にも、視学官が頻繁にやってきては、教育内容を厳しく監視していました。
もしも、自国のポーランド語で話したりすれば、自分だけでなく、両親にまで危険が及んでしまう。そんなひどい状況だったのです。
しかし、そうした環境であったにもかかわらず、マーニャの心が卑屈になることはありませんでした。
それは、思いやりにあふれた、温かな家族の絆があったからです。
お父さんは大変な勉強家で、人に教えることが大好きな人物でした。最新の科学に通じているとともに、何カ国語も話すことができました。
お母さんも、20代で女学校の校長を務めるなど、まことに教養ある女性でした。マーニャは、この父母を、心から愛してやまなかったのです。
世の中は暗い。つらいことも、たくさんある。けれども、家に帰れば、安心できる。何があっても家族で励まし合い、守り合っていける。
そうした和楽の家庭をつくっていくことが、社会の最も大切な基盤であり、平和の原点となるでしょう。
そして、何といっても、娘である皆さんの聡明さと、明るい笑顔は、家族を照らす陽光であり、和楽を築く大きな力です。
「家族のものが互いに結び合っているということは、ほんとうにこの世での唯一の幸福なのですよ」(エーヴ・キュリー著・川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)と、マリー・キュリーはのちに、姉への手紙に綴っています。
家族の結合は、ともに人生の試練に立ち向かっていくなかで、深まり、強まり、そして永遠性の次元にまで高められていくものです。
愛する家族の死を越えて
一、マーニャは、まだ10歳のとき、思いもよらぬ悲しみに襲われました。
最愛のお母さんが、結核で亡くなってしまったのです。42歳という若さでした。
じつは、その2年前には、病弱だったお母さんに代わって家事を切り盛りしてくれていた、一番上の優しいお姉さんも、チフスに感染して亡くなっていました。
相次ぐ家族の死去に、一家は打ちひしがれました。幼いマーニャは、こらえきれず、部屋の隅に座って涙を流すこともあったようです。
幼くして、家族を亡くすことは、一番、深い悲しみです。しかし、マーニャは、のちに自ら打ち立てた「第一原則」の通り、「決して負けなかった」のです。
「苦しみなしに精神的成長はありえないし、生の拡充も不可能である」(北御門二郎訳『文読む月日(上)』筑摩書房)とは、自らも幼くして母を亡くした、ロシアの文豪トルストイの言葉です。
創価学園の草創期、お母さんを亡くした中学生に、私は語ったことがあります。
「人生には、必ず、越えなければならない山がある。それが、早いか、遅いかだけなんだよ。
深い悲しみをかかえ、大きな悩みに苦しみながら、それに打ち勝ってこそ、偉大な人になれる。偉人は、みんなそうだ。
だから、君も、絶対に負けずに頑張るんだ」
その通りに、彼は、わが母校を"母"とも思いながら、大きな山を、学園生らしく越えていきました。
一人の勝利は、亡き家族の勝利であり、一家の勝利です。
そして、苦難を乗り越えた前進の足跡は、未来に生きゆく人々に、計り知れない勇気と希望を贈っていくのです。
(つづく)