全国代表者会議 上

女性を大切にそれが広布の第一歩
戸田先生 幸福は自分の信心でつくるもの


一、本日の代表者会議は、"家族"の会議である。ゆっくりと、懇談的にお話をさせていただきたい。
 皆さんの力、皆さんのおかげで、創価学会は、本年も偉大なる「5月3日」を迎えることができます。本当にありがとう!(大拍手)
 とくに、婦人部、女子部の皆さんは、広宣流布の前進の大きな原動力となってくださっている。深く感謝申し上げたい(大拍手)。
 戸田先生は「女性が責任感を持ち、鋭さを失わなければ、学会は大丈夫だ」と言われた。
 創価の女性の、さらなる活躍に、私も期待している。頼みます!
 さらに、戸田先生が、女子部に語った言葉を紹介したい。
 「幸福は、自分の信心でつくるものだ」
 「妙法という最高の価値観に立てば、人生の万般について、どういう選択・判断をすればよいかが、わかってくるものだ」
 婦人部、女子部を心から尊敬し、大事にしていかねばならない。男性の幹部には、このことを強く言っておきたい。
 日本は、男女の真の平等に程遠いという指摘もある。かりにも、女性に対して威張ったり、下に見たり、叱ったりするようなことがあってはならない。
 婦人部、女子部を大事にすることが、仏法の第一歩であり、広宣流布の第一歩である。
 男性は女性に誠実に接し、代わりに苦労を引き受けて、女性を守っていくくらいの心意気を持つべきだ。
 女性を大切にせず、それどころか見下すような者は、仏法上においても、人道上においても、正しい道に反している。 男性と女性がお互いに尊敬し合い、協力し合って、"創価学会は、本当に美しい世界だな"と言われるような、心と心のつながりをつくっていかねばならない。

 万代の発展へ
 一、私は、学会の将来を見つめ、先の先の先まで考えて、学会が栄えゆくための道を開いている。目先ではなく、未来の盤石な発展のために戦っている。
 最高幹部には厳しく言い、現場の第一線の皆様を大事にする。これが、牧口先生以来の学会の方程式である。それによって、学会は発展してきた。
 幹部が威張り、師弟の道を踏みにじり、自分勝手なことをするようになったら大変なことだ。これまでも、広宣流布尊い使命を忘れ、退転し、反逆していった輩がいたことは、皆さんもご存じの通りだ。
 そういう悪人には、断固たる態度で、厳しく言い切っていかなくてはいけない。悪を見ながら、知りながら、何も言わないのは、ずるい。卑怯である。
 今や、新しい時代が始まった。真実をどんどん口に出して叫んでいくことである。
 一、『赤毛のアン』で有名な、カナダの作家モンゴメリは綴った。
 「春四月は永遠に老いることはない」
 万物が、若々しく伸びゆく春が到来した。
 我々も、これでいきましょう! 立ち上がろう! 春とともに、生き生きと朗らかに前進しよう!(大拍手)
 一、インド独立の父・ガンジーは、「常に心の窓を開けておけ」と語っていた(ルイス・フィッシャー著、古賀勝郎訳『ガンジー紀伊國屋書店)。
 この言葉は、心を開いて、さまざまな民衆の意見に幅広く耳を傾けよとの戒めである。
 ガンジーの令孫であアルン・ガンジー氏と語り合ったことも懐かい。
 広布のリーダーもまた、心の窓を大きく開けて、人々の声を聞いていってほしい。
 建設的な声、学会のため、広布の前進のための声は、私心を交えず、公平に、積極的に取り入ていく。
 悩める声には、真摯に耳を傾け、そして、真心の励ましを贈っていく。一方、悪人の声、広布を妨げる声に対しては、断固として戦っていくのだ。
一、南アフリカ前大統領のネルソン・マンデラ氏とお会いしたことも忘れられない。
 氏は、アパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃のために、27年半にわたって獄中闘争を貫いた「人権の闘士」である。牢獄の中で、私の英文エッセーも読んでおられた。
 1990年2月に出獄され、その年の秋に日本を訪問された。その際、私に会うために、わざわざ信濃町聖教新聞社を訪れてくださったのである。
 ただ、民衆のために!
 ただ、人間のために!
 ただ、自由と平等のために!──
 その鋼鉄の信念で戦ってこられたマンデラ氏は、学会が進める民衆運動の真価を、深く理解してくださっていた。
 〈マンデラ氏は、名誉会長との会談で、こう語っていた。
 「名誉会長とSGI(創価学会インタナショナル)のことを聞いて以来、ぜひお会いしたいと願っていました。日本に来た以上、お会いするまでは帰れません!」〉

ガンジー 
 常に心の窓を開けよ 指導者は民衆の声を聞け

 「君の師匠はこの私だよ」
 一、青春時代、私は、師匠である戸田先生のために、すべてをなげうって戦った。
 先生が、事業の破綻で窮地に陥った時、多くの人が先生のもとを去っていった。
 手のひらを返したように、先生のことを罵倒する人間もいた。陰で罵る人間もいた。
 しかし、私は一人、命がけで先生を支え、苦境の打開のために働いた。
 そのために、夜学も断念した。給料が出ない時もあった。
 寒くなっても、シャツ一枚で過ごしたこともあった。
 しかし、そんなことは問題ではなかった。

勝利の5.3へ春とともに!生き生きと前進

師弟こそわが青春の栄光
世界一の英知の栄冠を恩師に捧ぐ
悪を許すな断じて戦え 青年部よ師子と立て!

 苦闘の最中の昭和25年(1950年)の8月24日、戸田先生は突然、学会の理事長を辞任することを発表された。
 私は愕然とした。
 先生が理事長を辞められたら、新しい理事長が私の師匠になってしまうのだろうか──。
 私は、その後で戸田先生のもとを訪れて、この一点をうかがった。
 先生は、厳然と言われた。
 「いや、それは違う!
 苦労ばかりかけるけれども、君の師匠は、この私だよ」
 私は、うれしかった。そして誓った。
 "断じて、戸田先生に第2代会長に就任していただくのだ!
 師弟の勝利の姿で、絶対に仇を討つのだ!"と。
 私の決意を聞かれた戸田先生は、本当に、うれしそうな顔をしておられた。
 そして一切の苦闘を師弟で勝ち越えて、昭和26年の5月3日、先生は第2代会長に就任されたのである。


 戸田大学の誉れ
 一、先生は私のために、亡くなる直前まで、毎朝のように個人教授を行い、万般の学問を授けてくださった。日曜も、先生のご自宅で勉強をした。
 "大作は夜学を断念してまで私を支えてくれた。その分、私が教えられることは、すべて教えてあげたい。すべて、大作に譲り残しておきたい"──そういう深いお心であられた。
 戸田先生と私は、師弟不二であった。
 私は日記に綴った。
 「先生の悠然たる姿。
 余りにも大きい境涯。
 未来、生涯、いかなる苦難が打ち続くとも、此の師に学んだ栄誉を、私は最高、最大の、幸福とする」(昭和26年1月7日)
 私は、誉れある「戸田大学」のただ一人の卒業生である。
 皆様を代表して、全世界の大学などからお受けした名誉学術称号は、230を超えた。
 この「世界一の栄誉」も、すべて、偉大な師の薫陶があったからである(大拍手)。

 牢獄まで一緒に
 一、戸田先生は、戸田大学での講義で、こう語られた。
 「私は、牧口先生の言う通りにやった。師弟の道というのは、そうでなくてはならないのだ」
 先生が、牧口先生に対して、どれほどの思いで仕えておられたか。
 牧口先生が来られると、あの豪放な先生が、土下座するのではというほど、かしこまっておられた。そう、うかがった。
 戦時中、軍部政府の弾圧を受けた時も、戸田先生は牧口先生とともに牢獄まで行かれた。大変な苦しみを受けられた。
 しかし、それでも先生は、"牧口先生の慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださった"と感謝しておられた。
 これが本当の師弟だ。
 私も、大阪事件の際、冤罪で逮捕され、牢に入った。恫喝を受けた。学会の民衆運動を押さえ込もうという、権力の陰謀であった。
 私は戸田先生と学会を守るため、わが身を犠牲にして戦い抜いた。
 あのインド独立の父・ガンジーも、インドの初代首相ネルーも、獄中闘争を経験している。本当に権力と戦った人間というのは、牢に入っているものだ。
 ともあれ、牧口先生、戸田先生、そして私。この「三代の師弟」があったからこそ、今日の学会がある。
 この峻厳なる師弟の精神を忘れたら、根本が狂ってしまう。
 万が一にも、師弟をないがしろにし、学会を自分の思う通りにしようというような人間が出たら、皆で戦うことだ。こうした悪人を絶対に許してはならない。
 「皆のため、会員のために、どこまでも尽くしていく。それが真の学会のリーダーだ。
 裏表があってはいけない。気取ったり、格好つけたりしては駄目だ。ましてや威張るのは、最低である。
 「あの人がいてくれて、本当にありがたい」「あの人と一緒にいると、元気が出る」──皆から、そう言われるような存在であってもらいたい。
 そして、師弟に生き、学会のために戦い抜いたという見事な歴史を残していただきたい。
 断固たる勝利の証しを打ち立ててもらいたい。

 「創価幼稚園」が世界で発展
 一、私はソ連のコスイギン首相と、昭和49年(1974年)9月17日、翌50年の5月訪日と、2度にわたり語らいを重ねた。
 首相は私に対して、「あなたの根本的なイデオロギーは」と問われた。「創価学会」といっても、当時の海外の人には、どんな団体なのかわからない。創価学会の実相を知りたいという、当然の質問であった。
 私は答えた。
 「平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です」と。
 〈コスイギン首相は、「この原則を高く評価します。この思想を私たちソ連も実現すべきです」と応じた〉
 宗教は、宗教の世界のみにとどまるものではない。必ず、平和、文化、教育へと波及していく。
 この点から見て、世界各地に創立された創価幼稚園もまた、大いなる人間主義の潮流のなかで発展してきた。
 その一端を紹介しておきたい。
 まず、札幌創価幼稚園は、コスイギン首相との2度目の会見の翌年、1976年(昭和51年)に開園した。これまで卒園生は6000人を超え、博士や教員なども数多く誕生している。
 香港創価幼稚園は1992年に開園。香港教育局から「最優秀幼稚園」に選定されている。
 シンガポール創価幼稚園の開国は93年。昨年11月には同園の女性教員(陳桂心(タンクイシン)さん)が、教育省の「2007年度 幼児教育最優秀教師賞」に輝いた。

戸田先生の指導 組織の発展はリーダーの成長で決まる

 また、95年に開園したマレーシア創価幼椎園はマレー語、中国語、英語の3カ国語教育を実施。2001年に開園したブラジル創価学園「幼稚園の部」も、ポルトガル語・英語・日本語の3カ国語教育を行い、どちらも世界市民を育む教育が賞讃されている。
 そして今月15日には、韓国「幸福幼稚園」が開園した(大拍手)。
 こうして、私は着々と手を打ってきた。外にも内にも、邪魔する者が多かった。しかし、ここまで真っすぐに、創価の世界を進展させてきたのである。

 何でも言い合える組織を!
 一、仏法を広宣流布する人を守り、応援していくことが重要である。
 何でも言い合える組織をつくることだ。大事なことを話せない、うわべだけの関係になれば、いい人の存在が死んでしまい、その価値が消されてしまう。
 かつて戸田先生は、若き友に対し、「青年部は、学会の後継者であり、筋金入りの人材である。恐れるな! 師子として堂々と生き抜け!青年諸君よ、大いに奮起しようではないか!」と期待を寄せられた。
 青年が大事である。
 また、どれだけ役職が上の大幹部であろうとも、悪ければ、糾さねばならない。私はこれを実行してきた。
 一、ある時、戸田先生は「会社経営に功績をもたらした者には、必ず『プラスアルファー』を付ける」とおっしゃった。
 学会もそうしなければならない。結果を出した人を讃えなければ、張り合いがなくなる。評価のはっきりしない、いわゆる."悪平等"になってはいけない。よく見てあげるリーダーになっていただきたい。
 一、戸田先生は語られた。
 「今の学会は、幹部の団結によって出来上がったのだ。これからも、第三代会長を中心に、幹部が力を合わせて広宣流布をやりとげよ!」
 またある時、私は日記に先生の指導を綴った。
 「仏法哲理の『源遠ければ、流れ長し』の御金言を引かれ、『幹部の自覚が根本である。一般会員の責任ではない。幹部の信心、成長で全ての組織の発展が決定されるのだ』との、厳しい指導が胸に残る」(昭和33年2月11日)
 戸田先生は、幹部に厳しかった。私も厳しくしてきた。
 皆さんの時代も、頼むよ!〈会場から「ハイ!」と返事が〉
    (下に続く)