第三代の誉れ 勝利と栄光の大山脈 私は勝った!正義の旗を天高く  池田大作



邪悪な戦争が
多大の犠牲と
被害をもたらしたのは
数え切れないことである。
これは厳然と
歴史が証明している。

昭和二十年の八月十五日
この終戦の日
私は十七歳であった。

長兄は
出征軍人として
ビルマに派遣されて
戦死した。

二男も 三男 四男も
中国に派遣されて
軍人として終戦を迎えた。
三人の兄弟は
追われるように
やせ衰え
貧窮した姿で帰ってきた。
敗北の姿だった。

働き盛りの息子たちを
次々に奪われた
父は大病をしていた。

母の名前は「一(いち)」。
「一番 大事な息子を
 四人も戦地に取られた」と
一人で小さくなって
泣いていた。

長兄の戦死の公報が
届いたのは
昭和二十二年の五月──
悲しみに打ち震える
母の後ろ姿が
あまりに可哀想であった。
辛くて
励ましようもなかった。
私自身も
結核との戦いが
続いていた。

いまだ城南の一帯は
空襲の傷跡が残り
はとんどが灰燼に帰していた。
防空壕も点在していた。

二度目の終戦記念日
迎える前夜の
八月の十四日──
自宅近くの糀谷の友人宅で
仏法の哲学の会合があると
同級生に誘われた。
戸田城聖先生をお迎えした
その座談会は
大変に心を打たれた。
強く胸に響いた。

偉大なる戸田先生!
二年間
軍部権力と戦って
牢獄に入った師子!

戦争中に信念を貫き
弾圧されたのは
正しい人である。
こう私は直感した。
深く思った。
この人についていくことは
正しいことである。
正義であると確信した。

それから十日後
私は入信した。
十九歳である。
昭和二十二年の
八月二十四日のことであった。

この日から
私の本格的な
信念の人生が始まった。
正義のために戦い抜きゆく
青春であることを誓った。

悔いのない青春!
歴史を創る青春!
わがままな青春より
厳格な仏法に殉ずる青春を!
確固たる信念のなき青春より
仏法の哲理と智慧を胸に抱いた
誇り高き栄光の青春を!

私の師・戸田先生は
いつもいつも
読書を勧めた。
「青春時代は
 良き本の読書と一緒に
 生き抜く時代だ。
 大作!
 今 どういう本を
 読んでいるか」と
幾たびとなく聞かれた。
鋭かった。
常に反省することが
多かった。

ある時 私は
戸田先生から
「今日は何を読んだか?」と
聞かれ
古代ギリシャの作家
 プルタークを読んでいます」と
お答えしたことがある。

すると戸田先生は
さらに質問された。
「その中の
 記憶している言葉は何か?」
私は多少
間違っていると思ったけれども
一文を申し上げた。

戸田先生は
「だいたい いいだろう」と
領かれた。
先生の座右にも
プルターク英雄伝』が
置かれていた。

プルタークの洞察は深い。
「妬みは、
 性格や人柄が
 徳や名声にまで開花した
 すぐれた人に、
 とくに襲い掛かる」

「『気弱さ』という病は
 多くの災いの原因と
 なっているのだから、
 鍛錬によって
 叩き出すことを
 試みなければならない」

戸田先生は
常に名著の一節を
引かれながら
厳しく指導された。
青年よ 師子になれ! と。

あまりにも尊い
思い出であり
師弟のありがたさを知った
充実の一日一日であった。

師の好きだったブラジルの
十九世紀の
大文豪アシスの箴言
忘れることはできない。
「真実の友人を持つことこそ
 幸福である」
今でも
その通りであると信じている。

わが師と語り合うと
私の生命に
包みきれぬほどの哲学を
詰め込んでくださった。

そこには
生きる力
生きる智慧
戦う勇気
勝利への信念
栄光の讃歌があった。

懐かしい
強く優しい心の
恩師であった。
このような
師になりたい!
私は深く誓った。

人びとを
勝利の人生に
導きゆく力!
若き人びとの
素晴らしき成長を
開きゆく源泉!

私は
師のようになる!
熱い決意と
不退の信条が
込み上げてくるのであった。

あの師の
眼差しの輝きを
永遠に忘れることはない。
あの鋭き
知性の眼光が
私の人生を
強く飾ってくださった。

「いかなる時代にあっても
 いかなる社会にあっても
 永遠の勝利の根本土台は
 第三代にある」
これは
あまりにも有名な
恩師の言である。
いな
真実の峻厳な方程式で
あるかも知れない。

第三代への記別は
私の父母
妻の父母は当然ながら
学会の元老である
牧口門下で
戸田先生にお仕え申し上げた
小泉 和泉 柏原 辻等の
最高幹部が明確に知っていた。

師をお護りし
私はまったく無実の
選挙違反の容疑で
被告の身になっていた。
長い長い
裁判が続いていた。

その裁判の終結
祈り待っておられた
戸田先生は
私の勝利を大確信されながら
第三代の厳護を言い残して
霊山へ還られた。

「第三代会長を守れば
 広宣流布は必ずできる」
「第三代は一生涯
 会長として指揮を執れ!」
これは
恩師の絶対の遺言であった。
皆が生命に刻みつけた
最大の遺訓であった。

それは
昭和三十五年の五月三日。
火曜日であった。
前夜の雷雨は
清々しく晴れ上がり
この朝
鮮やかな虹もかかった。

雲ひとつない
五月晴れの青空のもと
墨田区両国の日大講堂
第三代会長の就任式が
行われたのだ。

この日 私は
大田区の小林町の
小さな小さな家から
妻の母が呼んでくれたタクシーで
会場へと向かった。

出発前
私は一首を詠じた。

 負けるなと
  断じて指揮とれ
   師の声は
  己の生命に
   轟き残らむ

日本中の各地から
二万人の創価の同志が
欣喜雀躍と
駆けつけてくれていた。

壇上の真上には
恩師・戸田先生の遺影が
厳粛に掲げられ
左右には
先生の二首の和歌が
大書されていた。

 いざ往かん
  月氏の果まで
   妙法を
  拡むる旅に
    心勇みて

 一度(ひとたび)は
  死する命ぞ
    恐れずに
  仏の敵を
   一人あますな

戸田先生の形見の
モーニングに身を包んだ私は
不二の弟子として
広宣流布の一歩前進を
宣言したのである。

この日の決意を
私は日記に記した。
「恩師の喜び、目に浮かぶ。
 粛然たり。
 生死を超え、
 今世の一生の法戦始む。
 わが友、わが学会員、
 心から喜んでくれる。
 将らしく、人間らしく、
 青年らしく、
 断じて広布の指揮を」

その夜
家に帰ると
妻がこう言って迎えてくれた。
「きょうからわが家には
 主人はいなくなったと
 思っています。
 きょうは池田家の葬式です」

いわれなき冤罪による
裁判は四年半に及び
私が会長になっても
引き続いていた。
出廷は二十三回を数えた。

したがって
私の人生は
厳しい裁判と
厳しい会長としての任務に
没頭された。

辛かったが
未来には
勝利 勝利への
晴れがましい希望の山脈が
続いていた。

裁判も当然勝った。
昭和三十七年の一月二十五日
晴れ晴れと
無罪判決を勝ち取ったこの日は
完全勝利を一心不乱に
祈り抜いてくださった
関西婦人部の日となった。

第三代会長の指揮による
学会の前進は
拍車をかけて
発展に発展の連続となった。
日本中に渦を巻いた。
世界中に
隼(はやぶさ)の如く拠点を創った。

第三代に就任以来
妻は一周年の五月三日も
二年目も三年目も
「ああ命があったのか」との
思いで迎えてきた。

もともと医者から
三十歳まで生きられないと
言われていた私である。
ましてや
創価学会の会長職は
戸田先生も七年にして
幕を閉じられた激務である。

妻が初めて赤飯を
用意してくれたのは
更賜寿命して迎えた
会長就任八周年の
五月の三日であった。

あの昭和五十四年
四月二十四日──
第三代会長の辞任の
記者会見を終えて
自宅へ戻ったときも
妻は いつもと変わらぬ
微笑みで迎えてくれた。

「これで
 世界中の同志の皆さんの
 ところへ行けますね」
「自由が来ましたね」
「本当のあなたの
 仕事ができますね」と。

ともあれ
十八世紀イギリスの詩人
ロバート・ブレアは謳った。
「おのれの持ち場を保ち、
 最後まで
 それを守りつづける者こそ
 真の勇者である」

私の青春時代には
少々 遠い詩人であったが
この詩は
私の魂から
決して離れることはない。

我らの
世界広宣流布の前途は
あらゆる三類の強敵を
打ち破って
明確に広々と
緑の樹々と明るい花々に
彩られてきた。

そして
希望の朝日に照らされ
荘厳な夕日に包まれながら
一日一日と意義深く
全日本に
そして全世界に
広がっていった。
広布の勝利の旗は
天空高く
たなびき始めた。

私は胸の中で
「勝った!
 広宣流布の電流は
 世界中に流れた」と
奥深く
満足の心境であった。
永遠に残る
偉大な歴史の出発点を
築き上げたからだ。

私は勝った!
私には
何の後悔もない。
宗祖が
三世十方の仏菩薩が
慈愛の瞳を輝かせながら
見つめてくださっている。

   

   二〇〇八年四月十日

   広布第二幕 第七回 全国青年部幹部会を記念して

            桂冠詩人
            世界桂冠詩人
            世界民衆詩人