8月24日の誓い

19歳の入信から64星霜──
我が人生「師弟の道」を貫けり

人類の平和へ! 正法正義の旗高く
後継の地涌の青年が世界に乱舞

 千万の
  同志と共に
      入信日

 わが地涌の友が歓喜踊躍して、広宣流布の使命の舞を舞いゆく、大いなるうねりの中で、8月24日の入信日を元気に迎えることができた。今年で64周年となる。
 日蓮大聖人は、法華経の会座に後継の誓願の陣列が集う姿を、こう仰せである。
 「四百万億那由佗の世界にむさしの(武蔵野)のすすき(芒)のごとく・富士山の木のごとく・ぞくぞく(簇簇)とひざ(膝)をつめよせて」(御書1245?)
 この御聖訓の如く、日本中、世界中で、新しい人材が勢いよく躍り出て、新しい力が満々と実りゆく感を覚える。
 未来部も躍進している。
 青年部も成長している。
 婦人部も躍動している。
 壮年部も意気軒昂だ。
 「8・24」は、わが「壮年部の日」でもある。
 多宝の同志も、若々しく奮闘してくれている。
 多事多難の時代にあっても、我ら創価の家族には、不敗の闘魂が漲り、いやまして温かな励ましがある。
 恩師・戸田城聖先生が喜んでくださる声が、わが耳朶に確かに聞こえてくる。
 「私は、偉大な良き弟子たちを持った。ゆえに幸せだ。永遠に勝利者だ」

師はご存じだった
 喜びに
  心躍らせ
   今日もまた
  広布の青春
     何と尊き

 日本の敗戦から2年後の夏8月。いまだ空襲の焼け野原が痛々しい東京・大田区の座談会で、永遠の師と仰ぐ戸田先生に、私はお会いすることができた。
 「いくつになったね」
 「19歳です」
 先生は旧知に向けた言葉で尋ねてくださった。
 じつは、先生は事前に、地域の方から、私のことをよく聞いておられた。
 兄を戦争で亡くしたことも、家を空襲で焼かれたことも、働いて父母を支えながら苦学していることも、ご存じであった。
 「わが地域には、こういう青年がいます」と、戸田先生につないでくださった地元の方々のことが、感謝とともに偲ばれる。
 今も、折伏の嬉しい報告を聞くと、紹介者の真剣な祈りと熱意はもちろん、一人の友の入会に至るまで、陰で支えてこられた創価家族の真心が思われる。
 まさに座談会は、仏の心が脈打つ会座なのである。
        ◇
 戸田先生にお会いした当時、私か親しい友人だちと学び合っていた一書が『ゲーテとの対話』(エッカーマン著)である。
 その中の一節に、「いつかは終局に達するというような歩き方では駄目だ。その一歩々々が終局であり、一歩が一歩としての価値を持たなくてはならない」とあった。
 このゲーテの言葉が、軍国主義と戦い抜いた戸田先生を師と仰ぎ、師弟の道へ思い切って一歩を踏み出す私の胸に響いていたことは確かである。その意味で、ゲーテも、私の背中を入信へと押してくれた一人であったと言えるかもしれない。
 そのゲーテをめぐって、今、私は、ドイツの世界的な学術機関ワイマール・ゲーテ協会顧問のオステン博士と対話を進めている。
 オステン博士も、「ゲーテ日蓮仏法の間には、非常に大きな共通点がある」と鋭く洞察しておられる。
 さらに博士は「人間は、手本から学ぶ存在である」と強調されている。博士の言われる「手本」とは、「師匠」の意義である。
 偉大な師匠から学び、師匠に続きゆく青春。その喜びと誇りは、オステン博士とも、そして大文豪ゲーテとも深く共有できるのだ。

人格を信じて前へ
 戸田先生との出会いから10日後の8月24日は、日曜日であった。当時の記録を繙くと、東京の最高気温は、この日、35・3度となっている。暑い暑い一日であった。入信の儀式の勤行は長くゆっくりで、慣れない正座も辛かった。今も苦しい記憶が蘇る。
 しかし私は、戸田先生の人格を信じて前へ進んだ。
 世情は騒然としていた。この翌日の朝刊には「収入だけで暮らせない家庭」が9割と、深刻な世論調査の結果が報じられている。
 厳格にヤミ食糧を拒否し、配給のみで暮らした東京地裁の判事が餓死するという衝撃的な事件が起きたのは、2カ月後である。
 地震や台風、浅間山の噴火など、自然災害も相次いだ。東西冷戦の対立が深まり、「核戦争」の危機も忍び寄っていた。
 戸田先生が座談会で「立正安国論」を講義され、訴えておられた通り、戦後の混乱の闇を照らし晴らしていくために、いまだ小さな学会であったが、我ら師弟は正法正義の旗を、高々と掲げていったのである。
 思えば、日蓮大聖人が、「立正安国論」を提出し、国主諫暁を行われた文応元年7月16日は、当時の西暦であるユリウス暦では、1260年の8月24日に当たっているようだ。
 戸田先生は、厳然と叫ばれた。
 「人間にとって大切なのは、いかなる思想を持ち、いかなる行動をしているかだ。ゆえに人類最高の思想を学び、人々の幸福のために行動している創価の青年は、どんな人に対しても、胸を張って、堂々と、わが信念を語っていくのだ」
 この立正安国の闘争が、19歳の8月24日から、私の一貫した青春、そして人生となったのである。

大難の嵐を越えて
 「如説修行抄」には、「此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし」(御書501?)と厳しく戒められた箇所がある。
 それは、「真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり」(同?)という大難への覚悟である。
 戦時中の法難で投獄された牧口常三郎先生に、愛弟子である戸田先生は最大の感謝をもってお供された。
 そのあまりにも崇高にして峻厳な師弟に、命を賭して続くのだ──こう私は、決心していた。
 ゆえに戸田先生の事業が最悪の苦境に陥り、他の弟子たちが悉く逃げ去ろうと、私の心にはいささかの迷いもなかった。
 私の入信満3年の日となる昭和25年の8月24日、戸田先生は学会の理事長を辞任する意向を発表された。悔しさに歯を食いしぼり、私は巌窟王の如く誓った。
 ──このどん底を何としても打開して、絶対に先生に第2代の会長に就任していただくのだ、と。
 聖教新聞の創刊の構想を先生と2人で語り合ったのも、同じ8月24日であった。広宣流布の未来を開く言論城、聖教の「創刊原点の日」だ。
 ともあれ、最も苦難の時にこそ、最も偉大な勝利の因が刻まれる。これが、変毒為薬の妙法である。
 この因果の理法に照らして、今、復興に向かって懸命に戦い続けておられる東北の被災地の同志に、必ず必ず大勝利の時が来ないわけがない。
 私も、小説『新・人間革命』の「福光」の章を書き進めながら、妻と共に、さらに強盛に祈り、題目を送り続ける日々である。

気高き福光の笑顔
 先日、東北のある分県の女子部のリーダーが、尊い真心のアルバムを学会本部まで届けてくれた。
 そこには、多くの乙女たちが、それぞれに「華陽宝冠賞」のメダルをかけた、じつに晴れがましい笑顔のスナップが並んでいた。
 7月の本部幹部会の折、代表として、この賞を授与された県の女子部長は、苦楽を共にする、わが県の女子部全員に頂いたと受け止めた。そして衛星中継の会場に集ったメンバーなど、一人ひとりに、この賞のメダルをかけ、写真を撮って差し上げたのである。
 家を流され、最愛の家族を失った友もいる。言葉にならぬ悲しみを乗り越えて前進する、いじらしい乙女たちである。
 「生命の栄光の勲章」「民衆の讃嘆の勲章」を胸に微笑むスクラムは、気高く神々しかった。
 アルバムには、「私たちの福光《ふっこう》しゆく姿を通し、全世界の人々に希望と勇気を送り続けて参る決意です」と綴られてあった。
 ここに、この64年間、師と共に、同志と共に、皆で創り上げてきた創価の世界の光彩がある。
 かつて、創価女子短期大学の第1期の卒業生の門出に、私は和歌を詠んだ。
 その一首を今、新たな期待と願いを込めて、華陽の乙女たちに贈りたい。

 青春の
  英智の朝日は
    昇りける
  嵐の時にも
    笑顔たたえて

ゲーテの言葉はエッカーマン著『ゲェテとの対話』亀尾英四郎訳(岩波書店)=現代表記に改めた。

人材連帯の大星雲を広げる誇り
さあ 地涌の大生命力で前進!

わが民衆の英雄・壮年部よ不屈たれ
ホイットマン
「男には根性がなければならぬ」

 仏勅の
  誇りも高き
   同志かな
  三世の使命の
    尊き地涌

 先日、山陽新聞に、岡山市で行われる「わたしと地球の環境展」に寄せた、私の一文を掲載していただいた。

星の道・人間の道
 その同じ紙面に、NASAアメリカ航空宇宙局)が公開した鮮やかな「二つの銀河」の写真が報道されていた。
 それは、地球から4億5千万光年離れた宇宙空間にある「初期段階の衝突銀河」──いわば二つの銀河の遭遇の映像である。銀河同士が接する衝撃は大きく、そこでは新しい星々が爆発的に誕生していく。
 この二つの銀河は、幾百万年を経て、一つへと融合していくという。
 星々は、それぞれの軌道をたゆみなく回転する。その活動によってエネルギーを漲らせながら、壮大な生生《しょうじょう》流転を繰り返している。
 この大宇宙のロマンをめぐって、私はブラジルの天文学者モウラン博士とも、縦横に対談を広げた。
 語らいの中で、「星に軌道がある如く、人間にも道がある」というのが、私たちの一致した点てあった。
 博士が力説された。人間の進むべき最も正しき軌道は何か。それは師弟である。
 日蓮大聖人は、御自身が一年また一年と重ねられた法戦の歩みを、「退転なく申しつより候事月のみつるがごとく・しほ(潮)のさすがごとく」(御書1332?)と仰せである。
 毎年毎年、8月24日を一つの起点として、地涌の人材の大連帯を、成長する大星雲の如く一段と広げてきたことは、私たち創価の師弟の誉れの歴史である。
 また、この日は、2001年、新世紀の人間主義の指導者を育成しゆく、アメリ創価大学(SUA)の第1回入学式が挙行された日でもある。
 本年は11期生が、希望に燃えて新出発している。

壮年・青年一体で
 あの8月24日──。
 19歳の青年の私が戸田先生のもとに飛び込み、正義と平和の闘争に踏み出した時、先生は47歳。まさに「壮年」──壮んなる働き盛りの師子であられた。
 「師弟不二」の共戦は、いわば「壮青一体」の共戦でもあったのだ。
 壮年の鍛え抜かれた力と、青年の疲れを知らぬ力とが絶妙に合致して、学会の金剛の強さが生まれた。
 この歴史の上からも、8月24日が「壮年部の日」と定められている意義は、誠に深い。
 この日を節として、全国、全世界の壮年部も、力強く前進してくれている。
 経済不況や円高など、壮年を取り巻く環境は、何重にも厳しい。日々、人知れぬ苦労の連続である。
 その中で一人ひとりの友を励まし、奮い立たせゆく対話を、地道に粘り強く積み重ねてくれている。青年のために、青年と共に汗を流しながら、新時代の拡大へ奔走してくれてもいる。その不撓不屈の闘魂に、私は最大の敬意を表したい。
 「男、最も確かな男には、根性がなければいけない」──アメリカの民衆詩人ホイットマンの叫びが、わが壮年部の心意気と重なり合って迫ってくる。
        ◇
 ホイットマンが、人間的にも思想的にも、大いなる成長を遂げたのはいつか。
 研究の第一人者であるケネス・プライス博士は、ホイットマンが40代の半ば、南北戦争で負傷した兵士たちのために、身を粉にして働き続けた2年間に焦点を定めておられた。

庶民の真っ直中で
 ホイットマンは当時を振り返り、こう語っている。
 「僕はあの野戦病院で、多くの仕事をこなしたよ。ある意味、あれが僕の人生で、最も真実なる仕事だったかもしれない」
 今の学会でいえば、ヤング壮年部の年代に、民衆の中に飛び込み、生と死の狭間で悩める人びとに、手を差し伸べていったのだ。
 プライス博士は、そうした経験によって「民衆の持つ力、可能性を深く感じ取ったホイットマンの確信は、いやがうえにも強まっていったのです。それは、詩のスタイルの変革のなかに、明らかに見て取ることができます」と洞察される。
 わが壮年部も、来る日も来る日も、庶民の真っ直中で一歩も退かずに、勇戦を続けている。
 だからこそ、人間として、信仰者として、正真正銘の実力を錬磨し、発揮していけるのだ。
 「ついぞ気落ちすることを知らず、断固として戦うことをやめぬ人間の魂」とホイットマンは歌った。
 この魂が誰よりも光る、人間の英雄、民衆の英雄たる、わが壮年部の同志よ、万歳! と、私は声高らかに申し上げたい。

混沌《カオス》に怯まず前へ
 64年前、あの最初の出会いの折、私は戸田先生に感謝を込めて、即興の一詩を捧げた。
 「夜明け前の混沌《カオス》に
 光 もとめて
 われ 進みゆく……」
 プライス博士は、この詩を通し、「一つの状況から、よりよき状況へ向かおうとする明白な希望」を感じ取ってくださった。
 博士は語っておられる。
 「混沌を前にして不安を覚え、歩みをとめてしまうか。あるいは、未来を信じて前へと進みつづけるか──その差は、自身の可能性に対する信があるかないか、にかかっております。
 さらに、善は必ず悪に勝つ、と信ずることができれば、また一歩、前進できるのです」
 深く、また温かなご理解をいただき、光栄である。
 法華経には、「地涌の菩薩」が登場する。
 敷衍すれば、いかなる混沌の世にあっても、人間生命の可能性を信じ、正義の勝利を信じ抜いて、民衆の大地に勇んで躍り出る希望の存在といってよい。
 重苦しい無力感や窮屈な閉塞感が漂う時代だからこそ、我らは地涌の生命力を呼び覚ましていくのだ。
 なお、この6月には、ホイットマン生家協会のウィリアム・ウォルター会長をはじめ先生方が、この大詩人の名前を冠する尊き「文学の英雄賞」を贈ってくださった。私は、この栄誉を敬愛するアメリカをはじめ世界192カ国・地域の同志と分かち合わせていただきたい。ホイットマンの雄々しき獅子吼を胸に!
 「試練が大きければ勝利も大きい」と。

師匠は弟子を信頼
 ホイットマンが若き弟子ホラス・トローベルに語った言葉が蘇る。
 「私は、いつもは表に現れない、忘れられたような陰の人びとに、大きな尊敬の念を持っている。
 結局は、そのような目立たない無名の人たちが一番偉いんだよ」
 誰が見ていようが、いまいが、人のため、法のため、社会のために、尊き汗を流しながら歩き、働き、戦う。正義を叫びに叫び、一人また一人と、平和の連帯を広げていく。
 その庶民に勝る「偉人」はいない。
 この庶民が勝つ時代、庶民が凱歌をあげる時代こそ、ホイットマンも夢見た未来ではないだろうか。
 その未来を、弟子のトローベルも、共に見つめていたに違いない。
 ホイットマンは彼に全幅の信頼を寄せた。
 「私はいよいよ君の若いはつらつたる肉体と精神に、私自身を任せようという心持ちになっている」
 「(その重要な理由は)君が私を理解しており、単に熱心だけでなく、権威をもって私を代表してくれることを頼めるからだ」
 トローベルが50代半ばのホイットマンに初めて出会ったのは、15歳の頃であった。そして交友を深めるにつれ、師匠の手足となって、喜び勇んで東奔西走した。さらに無数の悪口や無理解に晒され続けている師を支え、その真実を宣揚するために奮闘していったのである。
 “師のために”行動することを最大の誇りとし、誉れとして──。その誠実一路の生き方は、詩人の逝去後も全く変わらなかった。

共に「種」をまく
 ホイットマンの生誕100周年の日(1919年5月31日)、60歳になっていた弟子トローベルは、眼前に師匠がいるかの如く詩に詠んだ。
 「(私トローベルは)あなたと倶に今でも種を播いているのです、播いて播いているのです」と。
 これが師弟である。
 これが弟子の道である。
 私もまた恩師・戸田先生にお会いし、求めて弟子となって64年間、片時も先生を忘れたことはない。
 「師弟不二」の大道を、「常随給仕」の弟子の道を、まっすぐに歩み通してきた。そして今、従藍而青の弟子たちが続いてくれている。一点の悔いもない、我らの誇り高き大道である。
        ◇
 青年部の秋の教学試験(一級)に向け、真剣な研鑽の息吹も伝わってくる。
 教材の一つ「撰時抄」は、私も入信してすぐに拝読した重書である。
 「法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」(御書288?)
 この仏勅の通り、壮大な世界広宣流布の未来を開くために、私は全力で、あらゆる障魔を乗り越え、三類の強敵を打ち破ってきた。
 これからも、いやまして、創価の偉大な人材を育てゆくために! そして広布の尊貴な全軍が思う存分、勝利勝利の歴史を打ち立てていくために! 毎日毎日、仏法勝負の真髄に立って、祈り、戦い抜いていく決心である。あの19歳の誓いのままに!

 師弟不二
  仏法勝利の
   法理なぱ
  断固勝ち抜け
    勝ちまくれ

 ホイットマンの訳文のうち3、4番目は酒本雅之訳『草の葉』(岩波書店)、6番目は長沼重隆著『ホイットマン雑考』(東興社)〈=現代表記に改めた〉によった。トローベルは長沼前掲書。プライス博士の発言は聖教新聞2011年6月19日付「世界の論調」から。