No.74   

              
使命の大地 平和の島

不滅の「広布の炎」を赤々と

わが地域から日本一の金字塔を

 勇躍し
  今日も飾れや
      青春塔

 この5月22日、天空に聳え立つ「東京スカイツリーがオープンした。
 高さ634メートルの世界第一の電波塔は、信濃町のわが学会本部からも、よく見える。28日には、大きな美しい虹が懸かった。
 また、スカイツリーの展望台からも聖教新聞社創価世界女性会館、建設の進む創価文化センター等が見えると、タワーを擁する墨田区の友が教えてくれた。
 スカイツリーのオープンの日の聖教新聞には、地元の個人会場で、私が男子部の第1部隊長の当時から、お世話になってきた功労のご一家が紹介されていた。本当に懐かしい。
 記事にも出ていたが、常に温かく青年を迎えてくださっていた、下町の人情あふれるご両親に、当時、私は感謝を込めて申し上げた。
 「創価学会は日本一になります。その第一歩を、このお宅から、青年が開始していきます」
 墨田は、関東大震災東京大空襲で、幾多の庶民が犠牲になった悲劇の歴史が刻まれている。
 だからこそ、我ら創価の青年が、生命尊厳の仏法の旗を掲げて、この気取りのない愛すべき民衆の大地に、世界が仰ぎ見つめる、平和と安穏と栄光の金字塔を打ち立てるのだ!
 これが、すべてに「第一」をめざす我ら第1部隊の心意気であった。
 澄み渡る5月の青空のもと、恩師・戸田城聖先生が第2代会長に就任されたのも、直弟子の私が第3代会長に就任したのも、墨田の地であった。我ら地涌の大前進の起点である。
 スカイツリーの開業を祝賀する墨田区の「観光まちびらき」のイベントでは、11度の日本一に輝く、わが創価ルネサンスバンカードの友が威風も堂々とパレードを行ってくれた。
 汗だくになりながら渾身の名演奏を轟かせる若き楽雄たちには、沿道の区民の方々からも「素晴らしい」「日本一!」等々、賞讃の大喝采が寄せられたと伺っている。
 宿縁深き墨田家族が胸を張って、わが生命の宝塔を光り輝かせゆく晴れ姿が、私には何よりも嬉しい。
        ◇
 墨田区両国の日大講堂は、私が「日中国交正常化提言」をはじめ、立正安国の祈りを込めて、幾度も社会への発信を行った殿堂である。
 45年前の昭和42年には、沖縄の本土復帰を強く求めて提言した。
 美しき海と豊かな文化の宝島・沖縄。残酷な戦争に蹂躙され、戦後は米国の施政権下、政治の矛盾に翻弄され続けてきた沖縄──。
 その苦悩の歴史に思いを馳せ、私は沖縄返還を叫ばずにいられなかったのだ。
 民衆の苦渋と忍耐と苦闘の末に、遂に沖縄の本土復帰が実現したのは、5年後、昭和47年の5月15日であった。
 「沖縄よ/傷はひどく深いときいているのだが/元気になって帰って来ることだ」とは、返還の日を見ずに亡くなった沖縄出身の詩人・山之口貘氏の痛切なる願いであった。
 悲願の返還より、今年で40星霜──。
 わが胸に、沖縄の友と歩んできた平和の建設の日々が熱く蘇る。
 「ようこそ 沖縄のみなさん」──設営の同志の真心こもる巨大な横幕が千代田区日本武道館に掲げられたのは、復帰から2週間後の5月30日であった。
 この日、沖縄の代表が遠路、参加して、本土復帰の記念の意義も込めて、本部幹部会が開催されたのだ。
 席上、私は沖縄から勇み集った25人の同志や沖縄出身者の労苦を偲びつつ、皆の代表として、初代支部婦人部長と、病で亡くなった夫君の、あまりにも健気で尊い心を讃えた。
 「沖縄の人びとを幸福にしたい、沖縄を永遠の平和の島にしたい」──これが沖縄中を駆ける妻と見守り励ます夫が、生死を超えて共有した熱願であった。
 私は、夫妻の崇高な軌跡を紹介しながら、共に広布の決意に燃えて戦う沖縄の同志にエールを贈った。
 本土復帰の実現は、新たな出発なのだ。いよいよ、世界に輝く「幸福の島」の大建設が始まるのだ!と。
        ◇
一番苦しんだ人が一番幸福に!
本土復帰40周年 沖縄は民衆凱歌の宝土

 素晴らしき
  宝の島を
   つくらむと
  走りし日々は
    黄金《きん》の功徳と

 私が返還前の沖縄への第一歩を印したのは、会長就任直後の昭和35年の7月16日であった。
 乱世に民衆が苦しむなか、日蓮大聖人が「立正安国論」を提出されて700年という意義深き日である。
 「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」(御書31ページ)
 大聖人は、この世に崩れざる平和と幸福を築くことを、根幹の祈りとされた。
 蓮祖の民衆救済の御精神に照らして、私には一貫して変わらぬ信念がある。
 それは「一番苦しんだところが、一番幸せになる権利がある」ということだ。
 そして「一番苦労した人が、一番晴れがましく勝利することこそ、すべての人びとの希望となり、勇気となる」ということである。
 妙法には、国境も障壁もない。わが沖縄の友が宿命の涙を拭って勝利しゆくことは、人類を救済する広宣流布の先駆なのだ。
 到着の翌17日、私は、那覇市内での支部結成大会に臨み、烈々と訴えた。
 沖縄よ、広布先駆の息吹となりゆけ! 全学会の推進力と立ち上がれ!
 夕立がさっと上がって日が差したように、日焼けした尊き友の笑顔、また笑顔が決意に弾けた。
        ◇
 沖縄に
  勝利輝く
   歴史あり
  巌の如き
   信念 忘れず

 「悲惨に打ちひしがれようとも、その人びとには、希望がある。強い人びとには、信仰がある。善の人びとには、慈悲がある」とは、南米ボリビアの大詩人タマーヨの叫びである。
 このボリビアでも、沖縄出身の多くの先人たちが不屈の開拓に携わってきた。詩人の讃嘆は、沖縄に脈打つ負けじ魂と重なり合う。
 どんな苦難があろうと、どんな障害があろうと、沖縄の友は絶対に屈しない。
 「其の国の仏法は貴辺にまか(任)せたてまつり候ぞ。仏種は縁に従って起る」。(同1467ページ)
 この御聖訓のままに、自分自身が「希望の灯台」との決心で地域を照らし、幸福の仏縁を力強く広げてこられた。
 その誠実にして勇敢、そして粘り強い「三変土田」の信心と実践が、「宝の島」「幸福の島」「平和の島」へと転換させゆく実証となったのだ。
 私が対談したオーストラリア「シドニー平和財団」のリース理事長は、沖縄は「人間が平和を創造できるという“象徴の地”」と強調されていた。
 理事長は、私が撮影した写真を執務室に飾ってくださっている。
 写っているのは沖縄研修道場の「世界平和の碑」──そこには、かつて米軍のミサイル発射台があった。
 「発射台の上には、平和の象徴になるようなブロンズ像を建てよう!」
 私はそう提案し、発射台の廃墟は、あえて残した。それは、戦争の悲惨を忘れず、永遠の平和を築きゆく決意の表明でもあった。
 嬉しいことに、恩納村《おんなそん》の沖縄研修道場に近接する敷地には、今年の秋、沖縄科学技術大学院大学が開学する。世界最高水準の研究・教育機関として、各界から大きな注目を集めている。
 「恩を納める」という心ゆかしい名前を持つ天地より、新たな「創造」と「共生」の英知の光が、いやまして輝きわたることを、私たちは心から祈りたい。

心と心を結べ!
 沖縄の心は、青い海のように広々としている。
 「イチャリバチョーデー(出会えばみな兄弟)」という言葉はあまりにも有名だが、その後に続くフレーズも、また素晴らしい。
 「ヌーフィダティヌアガ(何の隔てがあろうか)」──人と人との間には何の壁もないのだと。
 琉球王国の時代、「万国津梁《しんりょう》」の誇りを掲げ、交易と文化交流の豊かさを誇った沖縄は、当時の中国から「守礼の邦」の尊号を贈られている。
 沖縄には、開かれた友情の心があり、鷹揚な寛容の心があり、さらに恩義を重んじる報恩の心がある。
 「ヂムグリサン(他人の苦しみは我が苦しみ)」
 この言葉も、同苦と慈愛の仏法の教えに、なんと深く共鳴することか。
 海を超え、49もの有人島が、仲睦まじく繋がり合っているのも、「一人を大切に」という思いが奥底に光っているからであると、私は思う。
        ◇
 「宝玉《たからだま》やてぃん/磨かにば錆す/朝夕《あさゆ》肝磨《ちむみが》ち/浮世《うちゆ》渡ら(宝石も磨かなくては錆びてしまう。朝晩心を磨いて、世の中を生きていこう)」
 このほど、県民愛唱歌に制定された「てぃんさぐぬ花」(鳳仙花)の歌詞の一節である。
 いい言葉である。まさに心を鍛え、心を磨き、心を込めて生きるのだ。
 私の沖縄訪問は17回を数える。沖縄での一日は「一年分」──私は、常にこの思いで戦ってきた。
 今を逃せば、いつ、また、来られるか分からない。いつ、会えるか分からない。
 一瞬一瞬が「一期一会」である。だからこそ、徹して友と会い、友と語り、友と動いた。だからこそ、思い出は、交響曲のように胸中に響いている。

♫万里の波濤 乗り越えて
 世界に挑む 雄叫びは
 沖縄健児の 大使命

 那覇市に建った沖縄本部の落成式(昭和37年7月)では、会場に入りきれなかった友のために、私が屋上に出て指揮を執り、「沖縄健児の歌」を一緒に歌った。
 私が小説『人間革命』の執筆を開始(昭和39年12月2日)したのも沖縄の中心地・那覇であった。
 本土復帰の日が近づく、昭和47年の1月、私は沖縄で2番目の宝城となるコザ会館(現・中頭文化会館)の開館式に出席した。
 当時、基地の街・コザ市(現・沖縄市)では、米兵による横暴な事件に市民の怒りが沸騰し、非常に緊迫した状況が続いていた。
 そこに私は訪れた。人心が揺れている時なればこそ敢然と行った。友と記念のカメラに納まった写真は、宝の一葉となっている。
 翌日には、古くから「てだご(太陽の子)」の街として名高い浦添市の同志たちとも、記念撮影を行った。
 会場の正面に、約2000個の真心のフラワーペーパーで「沖縄は底抜けに明るく前進します」との文字が鮮やかに浮かんでいた。この言葉の通り、沖縄の友は、民衆の連戦連勝の叙事詩を、底抜けの明るさで勝ち綴ってくれている。
 昭和49年には、念願の八重山宮古を訪問し、共に語り、共に歌い、共に舞いながら、皆様方と生涯忘れ得ぬ交流を結んだ。
 西暦2000年には、「戦争の世紀」といわれた20世紀にピリオドを打ち、沖縄から「平和の世紀」へと転換しゆく希望の祭典が行われた。宜野湾市沖縄コンベンションセンターでの「世界青年平和大文化総会」である。
 あの時、出演したメンバーの多くが、青年部の中核として、壮年・婦人部の若きリーダーとして活躍してくれている。青春の誓いに生き抜く闘争ほど、尊く偉大な勝利の人生はない。
 昨年末には「響け! 太陽の島から平和の歌声!」をテーマに、沖縄の“青年平和大会”が楽しく賑やかに開催された。

青年よ舞い踊れ!
 沖縄県では、「本土復帰40周年」の記念事業が、多彩に推進されている。
 その一つ「子や孫につなぐ平和のウムイ(思い)事業」の実施(本年4月〜2014年3月)は、戦争を体験した父母、祖父母をもつ子や孫などが戦争体験の記録を収集し、平和を愛する「沖縄の心」を世界に発信しようという企画だと伺った。
 戦争の記憶の継承、そして平和への誓いの継承──精神の後継は、まさに未来を照らす光である。
 わが創価学会にあって、その先頭に立つたのは沖縄の若人であった。青年部の反戦出版「戦争を知らない世代へ」の第1巻を飾ったのは、沖縄篇『打ち砕かれしうるま島』である。
 日本各地で大きな反響を広げた「沖縄戦の絵」の展示でも、毎年、沖縄で行う「平和意識調査」でも、青年の知性と奮闘が光る。
 平和のために行動を続ける沖縄の友と私の「師子王の心」は、スー(お父さん)やアンマー(お母さん)から、ワラビ(子ども)へ受け継がれている。
 沖縄は、人口比の青年の割合が日本一高い。青年の天地といってよい。
 青年が動けば、青年が叫べば、青年が輝けば、地域、そして社会が変わる。このモデルケースになる使命を、沖縄は担っている。
 また、奄美や九州の同志と一体のスクラムで、意気軒昂な大行進も麗しい。
 今から30年前の6月、私は祈りを込めて認めた。「沖縄広布の炎」──。
 うるま島に躍動する若き君たちよ! 心清き女性たちよ! 憧れの幸福島の地涌の同志たちよ!
 この「沖縄広布の炎」を赤々と燃え上がらせ、今再び、平和の旗を高く掲げ、偉大な民衆凱歌の先駆を切ってくれ給え! 広布模範の前進を断じて頼む!。
 そして、晴れ晴れと勝鬨を上げ、共に歓喜と和楽のカチャーシーの舞を、楽しく踊ろうではないか!

 虹かかる
  大海原の
   心もち
  広宣流布
   沖縄 築けや

 山之口貘の言葉は『山之口貘詩集』(彌生書房)。