永遠なる師弟の絆

青年よ 高邁な志を燃やせ!
共に広宣流布の大願に生きよう

試練に挑んで 人間は強くなる

 青春と
   人生 貫く
     大志かな

 札幌農学校(現・北海道大学)の初代の教頭であったクラーク博士は、開校式の式辞で、学生たちへ、エールを送った。
 「青年紳士諸君よ、高邁な志(ロフティ・アンビション)を!」と。
 北海道の天地で、日本の近代教育の発展に献身してくれた大功労者である。
 あの有名な「青年よ、大志を抱け!(ボーイズ、ビー・アンビシャス!)」は、博士が学生たちに最後に残した言葉とされる。
 どこまでも高く、どこまでも大きな「志」を!──博士の思いを受け止め、この北の学舎《まなびや》から多くの英才たちが巣立ち、世界へも雄飛していったのである。
 クラーク博士の銅像が立つ羊ケ丘の近くにある札幌創価幼稚園も、開園より、はや37年目──。
 未来を指さす博士の英姿に応えるように、わが宝の園児たちが、日々、強く、正しく、伸び伸びと成長してくれている。

大事業を成す覚悟
 クラーク博士はアメリカのマサチューセッツ農科大学学長であったが、1年間休暇をとって赴任する。
 訪日を前に、周囲から「日本で新たな学校を創設するには、二年は必要でしょう」と言われると、言下に否定した。「人が二年でやることは自分は一年でなし遂げて見せる」と。
 新しい挑戦への断固たる信念。ひたぶるな大情熱。博士自身、気高き大志を抱き、開拓魂を燃やしに燃やしたに違いない。
 魂の炎は伝播する。心から心へ点火され、必ず燃え広がっていくものだ。
 クラーク博士の日本滞在はわずか8カ月であった。それでも札幌農学校1期生に灯した博士の感化の炎は消えなかった。博士と直接会っていない2期生にも、その後の学生たちにも、博士の精神は脈々と継承されていったのだ。
 2期生の新渡戸稲造内村鑑三をはじめ、日本を代表する逸材が陸続と登場していったことは、歴史に薫る劇である。クラーク博士の「高邁な志」は、確かに、厳然と受け継がれていったのである。
 この9月1日に生誕150周年を迎える新渡戸翁は、わが創価教育の創立者牧口常三郎先生と深き交友を結ばれた。

8月14日の出会い
 クラーク博士は、札幌農学校の開校式で、次のようにも述べている。
 ──国が国である根本は人である。そして、人が人である根本は心である。人に心があるならば、どうしてその心を磨かないことがあろうか(磨くべきである)。
 この歴史的な開校式が行われたのは、1876年(明治9年)8月14日のことであった。
 北海道を大いなる成長の故郷《ふるさと》とし、「立正安国」の大志を抱かれた戸田城聖先生に私がお会いしたのは、奇しくも、その71年後の同じ日である。
 真剣勝負の出会いは、人の心を変え、生命を変える。さらに地域を変え、社会を変え、世界をも大きく変えていくのだ。
 東京・大田区内の座談会で、初めて戸田先生にお会いした時、恩師は47歳、私は19歳であった。
 私は、真っ直ぐに先生に質問した。
 「正しい人生とは、いったい、どういう人生をいうのでしょうか」
 戸田先生は、私の目をじっと見つめ、明快に答えてくださった。
 「人間の長い一生には、いろいろな難問題が起きてくる。人間、生きるためには、生死の問題を、どう解決したらいいか──これだ。これが正しく解決されなければ、真の正しい人生はない」
 初対面の一青年に、真剣に誠実に語られる大情熱の振る舞いに、私は「この人なら信じられる」と直感的に感じた。
 加えて先生が、戦時中に軍部政府に反対して2年間も投獄された、信念の平和の闘士であることも知り、直感は確信となった。
 10日後の8月24日、私はただ戸田先生を信じ、入信したのである。

人生変革の原点
 かのクラーク博士が学長を務めた大学は、現在のマサチューセッツ大学アマースト校の前身である。同校ゆかりのマサチューセッツ大学ボストン校から、私は2010年の11月、名誉学術称号を拝受した。
 その際、モトリー学長は授与の辞で、創価の師弟についても深く論及してくださった。
 「19歳の若き貴殿は、『価値創造』を意味する仏教在家団体・創価学会の指導者であられた、恩師・戸田城聖氏によって変革を遂げられます」
 崇高な社会貢献の大教育者が洞察してくださった通りである。稀有の師匠との出会いによって、私の人生は変わり、未来を大きく開いていただいたのである。
 モトリー学長は、光栄にも、多くの青年を勇気づける励ましとして、私の言葉を引用してくださった。
 「順風満帆に見える人よりも、厳しき試練に勇敢に挑み、粘り強く悪戦苦闘した青年のほうが、後になって光る。強くなる。はるかに偉大な歴史を残していけるのだ」
 使命深き青春は、困難も、また苦難も大きい。
 わが後継の青年たちは、労多きことを誇りとして、不撓不屈の挑戦を続けてくれている。
 「陰徳あれば陽報あり」(御書1178ページ、1180ページ)とは、厳粛なる因果の理法である。
 創価の青年たちが人知れぬ苦労を重ねながら勝ち開く未来が、どれほど栄光に輝きわたることか。私の心は希望に高鳴る。
        ◇
 我らの前途には、新しい大海原が広がっている。
 民衆詩人ホイットマンは謳い上げた。
 「さあ、もはやここにはとどまるまい、いざ錨を上げて船出をしよう」
 この心意気の如く、わが弟子たちは、一心に勝利の明日を見つめて、勇気凛々と、不二なる師弟の大航海を開始した。
 毎日、日本中、また世界中から、躍動する青年たちの前進の報告が届く。

若き生命が躍動!
 先日(26日)も、大阪、兵庫をはじめ、京都、滋賀、福井、奈良、和歌山と、全関西の各地で「常勝青年大会」が堂々と行われた。
 創価班、牙城会、文化班、鉄人会の大学校の友をはじめ、次の常勝を担い立つヤングの世代の目覚ましい成長も、詳細に伺った。
 私が60年前、24歳で関西広布への一歩を印した時と、ほぼ同年代の地涌の若人たちが、かくも澎湃と躍り出てくれており、頼もしい限りだ。
 大阪の大会では、病魔を勝ち越えた若き家族の体験発表が感動を広げた。
 ご一家の幼い長男を、「両眼性網膜芽細胞腫」という目のがんが襲ったのは4年前のことであった。
 命に及ぶ難病である。残念ながら眼球は摘出せざるを得ない。視力は失ったが、手術は成功し、医師も「前例がない」と驚く順調な回復を遂げた。
 よく笑い、明るく周囲を励ましてくれる、けなげな長男を抱きしめて、ご一家は信心を燃え上がらせた。
 「冬は必ず春となる」(御書1253ページ)との御聖訓を確信し、創価家族の励ましの絆を支えとしながら、毅然と前進されている。
 今回の常勝青年大会で、来月6歳になる長男は、両親と一緒に関西戸田記念講堂の壇上に凛々しく立ち、得意のドラムを力強く叩くとともに、語ってくれた。
 「ぼくは目が見えません。だけど、ぼくにも使命があります。人に勇気をあたえられる人になります!」
 そして希望の声を響かせながら、呼びかけたのだ。
 「ぼくも、がんばっています。だから、男子部の皆さんも、気合を入れてがんばってください!」と。
 講堂を埋め尽くした若人たちは涙と決意の笑顔を光らせ、大拍手で応えた。
        ◇
 日蓮大聖人は、烈々と仰せであられる。
 「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さは(障)りをなすべきや」(同1124ページ)
 どんな病気があろうとも、どんな困難があろうとも、絶対に負けない。必ず尊極なる仏の生命を輝かせ、これ以上ないという幸福を自他共に勝ち開いていけるのが、信心である。広宣流布の大願の道である。
 わが直系の青年たちは、人類に限りない勇気と希望を贈りゆく、この「正しい人生」の勝利の道を、私に続いて、強く朗らかに進み抜いていただきたい。

 師弟不二
  君も偉大な
   広宣の
  正義の大道
    歩む指導者

 クラークの言葉は大島正健著『クラーク先生とその弟子たち』(教文館)、ジョン・M・マキ著『W・S・クラーク──その栄光と挫折』高久真一訳(北海道大学図書刊行会)などを参照。「国が国……」は大島前掲書=現代文に改めた。ホイットマンは『草の葉(下)』鍋島能弘・酒本雅之訳(岩波書店)。

正義の師子吼で開け 新時代
誓い忘れず 黄金柱よ立ち上がれ

「たくましく 仏の力 今日の舞」

 広宣の
   聖教城に
     栄光あれ

 お陰さまで、全国の同志の尊き真心に支えられて、我らの聖教新聞は、民衆の言論の大城として、発展を続けている。
 聖教新聞を創刊することは、私が恩師・戸田先生から直々に託された使命であった。1950年(昭和25年)の8月24日。先生の事業が最悪の窮地にあった渦中である。
 その日、師は言われた。
 「一つの新聞をもっているということは、実に、すごい力をもつことだ。学会も、いつか、なるべく早い時期に新聞をもたなければいけない。大作、よく考えておいてくれ」
 この師弟で刻んだ“創刊原点の日”から8カ月後、戸田先生が第2代会長に就任される直前の1951年(昭和26年)の4月20日に、聖教新聞は誕生したのである。
 言論で広宣流布の新時代を開け──聖教には、師弟共戦の熱願が燃えている。いついかなる時代にも、勇気凛々と、正義の師子吼を放っていくのだ。
        ◇
 南米解放の大英雄シモン・ボリバルは、明年、生誕230周年を迎える。
 このボリバルが時代変革の最大の武器としたのも、新聞であった。
 「新聞とは新しい思想を伝える移動教壇」であり、新聞にこそ民衆を啓発し、教育する重要な役割があると考えていたのである。
 聖教新聞は、どの新聞にもまして、幅広い読者の方々が丹念に読み、真剣に学んでくださっている。これほどの誇りはない。

ペンは剣より強し
 100年前、中国の辛亥革命を言論闘争で鼓舞した闘士に、于右任《うゆうじん》という革命家がいた。実は、私が現在、対談を進めている経済学者の劉遵義《りゅうじゅんぎ》博士(香港中文大学・前学長)の母方の祖父君であられる。
 この于右任先生は、度重なる言論弾圧にも屈することはなかった。創刊した新聞が次々と廃刊を余儀なくされても、怯むことなく、新しい新聞を誕生させ続け、筆鋒鋭く悪を糾弾していったのである。
 于右任先生は、新聞記者こそ最も快活な人であり、「無冠の帝王」である、と自負されていた。
 この屹立した精神こそ、真の言論人たる闘魂の背骨でなくてはなるまい。
 「ペンは剣よりも強し」
 「声は砲弾よりも強し」
 まさしく新聞の力、活字・言葉の威力は、時代を動かす原動力なのだ。
 日蓮大聖人は、紙も十分にない法難の佐渡から、門下に御書を送られ、「心ざし」のある人びとは、寄り集まって一緒に拝読するように促しておられる。
 その「佐渡御書」には、「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(御書957ページ)と仰せになられている。
 聖教新聞は、この「師子王の心」を満々と漲らせて、どこまでも広宣流布の前進へ、世界平和の創出へと論陣を張っていくのだ。
 聖教の拡大に先駆してくださっている新聞長をはじめ全同志の皆様、そして、聖教を支えてくださっている配達員、販売店、通信員の方々をはじめ、全ての関係者に、私は、あらためて心から感謝申し上げたい。

不忘山の同志たち
 堂々と
  この人生を
    勝ちぬきて
  三世の宝冠
   誇りて かぶれや

 「8・24」は、黄金柱の誉れも高い「壮年部の日」である。
 思えば、1990年(平成2年)のこの日、私は東北の地にいた。
 標高1705メートルの名峰・不忘山を望む宮城・白石市の東北記念墓地公園で、尊き同志と本部幹部会に出席したのである。
 草創の頃、「不忘」の地の同志は石巻の組織に所属していた。会合に行く時は山道を5、6時間も歩いて白石に出て、列車で仙台、さらに石巻へと通った。帰りは仙台駅のホームで夜を明かし、翌朝、再び列車と徒歩で長き道をたどり、「不忘」に戻ったという。
 石巻の友も、幾度となくこの地に足を運び、弘教に勇んで挑戦しておられた。あまりにも偉大な、広布の開拓者たちである。
 この同志の不屈の行動によって、東北広布の道なき道が開かれてきたことも、この同志の金剛の絆によって、東日本大震災の苦難を耐え、乗り越えてこられたことも、私は「不忘山」の名の如く、決して忘れない。
 この1990年の東北訪問の際、墓地公園の周辺を視察していた私は、偶然、3人の壮年と出会った。地元の蔵王支部の方々であった。各種行事の無事故・大成功を、婦人部の皆様と共に、近くの場所で、陰ながら祈ってくださっていたのである。
 私は、3人と固い握手を交わし、感謝を込めて「白石の三勇士」と呼ばせていただき、再会を期した。
 4年後(1994年)、再び、この地を訪れた折、立派に広宣流布の拡大を成し遂げた友らと、晴れがましく再会を果たすことができたのである。
 誓いを忘れず──不忘の人生は荘厳である。
 この支部では、婦人部も壮年部も青年部も皆、本当に仲良き創価家族の絆で結ばれていた。
 その秘訣を教えてくれるかのように、婦人部の方が語っていた。「うちの壮年部は、みんな、親切で優しいんです」
 あれも、これも、壮年部が手伝ってくれました、と誇らしげであった。
 壮年が婦人部を守り、大切にする組織は、必ず発展する。喜びがあり、希望が広がる。

壮年は励ます力を
 壮年の「壮」の字には、「勢いが盛ん」「意気に燃えている」等の意味があり、ほかにも「元気づける」という意もある。「壮行」といえば、前途を祝し励ましを贈ることである。
 つまり自分だけでなく、周囲を励ます力を持つのが「壮年」とはいえまいか。
 青年を励ます壮年の言葉には、真心の思いやりがあり、心からの期待があり、経験を重ねた確信がある。
 石巻出身の作家・志賀直哉は言った。
 「築く。築くといふ事が大事だ。そしてそれをくづさぬやう、くづされぬやう、本物で築き上げて行く」
 我ら壮年は、自らが礎となり、石垣となり、柱となって、永遠に崩れざる人材城を築き上げ、青年たちに譲り託していくのだ。いかに時代が揺れ動こうとも、厳然と勝利へ指揮を執っていくのだ。これほど不滅の人生はない。
 「いよいよの心」を燃え上がらせ、私も壮年部の栄えある一員として、断固として戦い抜く決心である。
        ◇
 岩手県が生んだ世界市民である新渡戸稲造博士は、「如何なる手腕技倆あるものでも、最初の決心を継続して行ふものでなければ、決してその事に成功しない」と綴られた。
 そうだ。常に初心を忘れず、地道に粘り強く、戦い抜くことだ。その人が一番強い。最後は必ず勝つ。
 岩手でも、この夏、わが壮年部の友が一丸となり、聖教新聞の拡大に黄金の汗を流してくださった。ありがたい限りである。
 もちろん、壮年部の奮闘も、青年部の躍進も、その陰には、偉大な婦人部の懸命な祈りと真心の支えがあることはいうまでもない。

絶対に負けない!
 先日も、福島県いわき市を訪問してきた、東京の婦人部のリーダーの方がしみじみと語っていた。
 ──お会いした創価の母上は97歳。少しでもねぎらい、激励させていただこうと、声をかけると、
 「私たちは何があっても大丈夫。学会と共に、師匠と共に、絶対に負けないよ。あなたも体に気をつけて頑張ってね」と、反対に励ましていただきました。
 この方々こそ仏様なりと拝む思いでした、と──。
 幾多の悲しみも苦しみも勝ち越えてきた一人の母を、大聖人は「心の月くもりなく」「即身の仏なり」(御書934ページ)と讃嘆なされている。
 創価の母たちを讃えてくださっている御金言と、私には拝されてならない。

偉大な誓いの人生
 御書には、「一切の菩薩必ず四弘誓願を発《おこ》す可し」(424ページ)と仰せである。
 一切の菩薩は、等しく「四弘誓願」、すなわち四つの広大な誓願を立てる。大聖人も「肝要」と言われたその第一は、「衆生無辺誓願度」。「全ての衆生を生死の苦しみから救済し、成仏に導こう」との誓いである。
 19歳の私が師弟の道に飛び込んだ「8・24」の旅立ちから65年──。
 創価の魂は、世界の民衆の崩れざる幸福と安穏を築かんと立ち上がった「師弟共戦の誓願」にある。
 広宣流布という永遠の大願に生きる、我らの「師弟の絆」も永遠なのだ。
 わが師匠との出会いから始まった、「立正安国」への人道と平和の大闘争!
 師に誓った、聖教新聞の日本中、世界中への拡大!
 師弟共戦と異体同心の、盤石なる民衆城の構築!
 今この時に、不思議な宿縁の新入会の友も、続々と喜び勇んで躍り出ている。
 「魂の喜びは行動の中にある」──フランスの作家アンドレ・モロワが大切にした箴言である。
 三世永遠の「師弟の絆」で結ばれたわが同志よ、今こそ前進だ! 対話だ! 励ましだ!
 快活に動こう! この世の誓いを、尊き地涌の使命を果たし抜くために!

 たくましく
    仏の力
     今日の舞

 ボリバルの言葉はサルセド=バスタルド著『シモン・ボリーバル』水野一監訳(春秋社)。于右任は西出義心著『于右任傅 金銭糞土の如し』(書道芸術社)。志賀直哉は『志賀直哉全集 補巻6』 (岩波書店)。新渡戸稲造は『新渡戸稲造全集7』(教文館)。モロワは『初めに行動があった』大塚幸男訳(岩波書店)。
 (注)四弘誓願は「衆生無辺誓願度」「煩悩無辺誓願断」「法門無尽誓願知」「仏道無上誓願成」(御書425ページ)。