54 宗教革命の旭日


 「第九」――。
 それは、「苦悩を突き抜けて歓喜へ!」と叫んだ、楽聖ベートーベンの心の雷鳴である。
 万人を兄弟として結び合う、気高き永久の賛歌であり、たくましき民衆の凱歌である。
 十二月十二日、伝統の創価大学「第九」の演奏会を、今年もまた鑑賞させていただいた。
 一九九〇年(平成二年)十月三日の、あの忍苦より勝ち取った、東西ドイツの統一を祝い、勝利の歌として演奏された曲も、この「交響曲第九番」であった。



 「第九」の「歓喜の歌」を、ドイツ語で歌うことは、「外道礼讃」であり、キリスト教の礼讃である――日蓮正宗宗務院から、「お尋ね」と題するこんな文書が、学会本部に送られてきたのは、そのドイツ統一の年の十二月半ばのことであった。
 本部幹部会で、私が「歓喜の歌」を大合唱していこうと提案したことへのクレームである。
 この「お尋ね」は、言ってもいないことを言ったとして難詰するなど、強引に、私に、「謗法」「法主誹謗」のレッテルを張ろうとするものであった。
 学会は、対話を求めたが、彼らは、卑しく、深く隠れて、それには応じなかった。
 そして、年末、宗規の変更を理由に、突如、私の、信徒の代表である法華講総講頭を罷免したのである。
 彼らの狙いは明白であった。
 私を切り捨て、学会を壊滅させ、宗門の衣の下に、会員を、奴隷のごとく服従させることにあった。



 日顕宗では、法主と大御本尊は「不二の尊体」などと、およそ日蓮大聖人の教えとは異なる邪義を振りかざしていった。
 法主を頂点として、僧侶を「上」、信徒は「下」とする支配関係をつくり上げようと画策していたのである。
 それは、「皆宝塔」「皆仏子」との、人間の尊厳と平等の原理を示された、大聖人の正法正義を破壊するものであった。
 また、人間性の発露である芸術・文化を色分けし、差別することは、あのナチスが行った愚行と同じであり、人間性そのものを否定する”火刑”でもあった。
 これらを放置しておけば、日蓮仏法は、人間の抑圧のための幻怪の宗教になる。
 しかも、法主日顕による禅寺の墓の建立をはじめ、宗門のおびただしい謗法行為、葬儀や塔婆供養をめぐる金儲け主義、遊興等の腐敗・堕落の実態が、次々と明らかになっていった。
 日蓮仏法の正義が、踏みにじられていくことは、広宣流布のために、絶対に許せない。
 世界の民衆のため、人間のための仏法である。大聖人の大精神を守れ!
 私たちは、決然と立った。
 ここに、宗教革命の新しき旭日は昇った。



 一年後の九一年(平成三年)十一月二十八日、日顕宗は、正法正義のままに戦ってきた創価学会を、破門にしたのである。
 なんたる狂気か。彼らの仮面は剥がれ、地獄の使いの正体を現したのだ。
 しかし、わが創価の同志は、微動だにしなかった。法主日顕の狂態は、御書に仰せの、第六天の魔王が「悪鬼入其身」となって、仏法を滅ぼさんとする姿そのままであったからだ。
 学会は、広宣流布を推進してきた、仏意仏勅の使命の団体である。その学会を破門にした宗門は、信心の血脈を自ら断ち、戦時中の、あの、大聖人に唾吐く、大謗法にまみれた濁流へと戻った。
 それは、また、学会にとっては、信徒支配の日顕宗の嫉妬と陰湿な鉄鎖から解き放たれた、「魂の独立」でもあった。



 以来、七年の歳月が流れた。
 仏法の勝負は、そして、因果の理法は、あまりにも厳然としていた。
 破壊の狂団と化した日顕宗の衰退は、誰の目にも明らかである。ただ、かわいそうなのは、その邪悪に気がつかず、騙されている檀徒の人びとである。
 世界中に広がりゆく、わが広布の同志の、歓喜スクラムを見よ! 功徳に満ちあふれた、はつらつたる生命の、希望の歌声を聞け!
 日蓮仏法より発する、創価の新しきヒューマニズムは、国境、民族を超えて、人間を結び、新世紀の希望の光として、世界の称賛を集めている。
 人間と平和の哲学を求める世界の指導者の、千客万来の学会の姿こそが、われらの正義の、多宝の証明ではないか。



 人間として無残このうえないのは、僧侶の権威に媚びへつらい、大恩ある学会を、同志を裏切っていった徒輩である。
 ラテンアメリカ解放の父・ボリバルは語っている。
 「忘恩は、人間がなしうる最大の犯罪である」
 初代会長の牧口先生は、よく言われていたそうだ。
 「反逆者の末路は、苦悩と醜態の歴史を、醜く残すだけだ」と。
 第二代会長の戸田先生の指導も、峻厳であられた。
 先生は、一面、すべてを包み込むように、広々と、おおらかであられたが、一生の土台をつくる青年時代の行動については、非常に厳格であり、特に、物事の肝心要については、火を吐く気迫で追及された。
 ――ある弟子が嘘をついた。すると、「青年のくせに人を騙し、嘘をつくのか! お前はキツネになったのか!」と激怒された。
 厳父そのものであった。
 また、組織を巧みに泳ぎ渡るような、策略のうまい青年に対して、こう断言された。
 「お前の人生の最後は惨めだ。真実に生き抜こうという姿勢がない。その心は、邪悪であり、最後は、汝自身が苦悩するであろう」
 断じて退転などさせまいとする、大慈悲の指導であった。
 いつの時代でも、師をもつことは、ありがたいことであると、心から思う。
 さらに、戸田先生は、反逆者に対しては、「卑劣な敗残兵など放っておけ。学会への反逆は、大聖人への師敵対だ。その仏罰の最後の姿を見ればわかる」と、よくおっしゃっていた。

 人道とは、悪と戦い抜き、その根を断ち切ることだ。
 新世紀の大空に、勝利の三色旗は翻り、「歓喜の歌」は高らかにこだました。
 さあ、創価の世紀の、新しき年の、大行進が始まった。