法悟空/53 会場提供者に感謝



――三世に輝く「福徳の大宮殿」――

 

 今年もまた、新しき人間主義の波が、広く社会を潤した、大勝利の一年であった。

 その運動の源泉となってきたのが、”生命のオアシス”ともいうべき座談会であった。

 私は、この”金の家””銀の家”の、会場提供者の皆様に、心より御礼申し上げたい。

 わが家を、会場として提供してくださる方々のご苦労は、筆舌に尽くしがたい。

 駐車や駐輪、勤行や学会歌の声の響きなど、ご近所への気遣いも容易ではない。

 また、ご家族みんなの理解と協力が必要である。

 参加者を温かい笑顔で迎え、様々な配慮をしてくださる提供者の皆様方を、諸仏諸天も、大賛嘆されているにちがいない。

 小説『新・人間革命』第六巻「加速」の章では、福岡の”ドカン”地域と呼ばれた一帯を舞台に、庶民の蘇生のドラマをつづった。

 掘っ建て小屋のような家がひしめき合うこの地域でも、力強く、座談会が開かれていた。

 会場提供者は、倉庫を改造した家に住み、細々と鮮魚店を営んでいた班長ご夫妻。

 来る人の大半は裸足であり、畳は取り替えても、すぐに泥まみれになった。しかし、このご夫妻は、文句一つ言わず、同志のために尽くし抜いてくださった。

 三度の食事にも事欠く人のために、魚の粗(あら)を煮ては振る舞い、風呂までも勧めた。

 ”ドカン”のメンバーのなかで、最初に自分の家を持ったのが、この夫妻であった。

 皆が「御殿が建った」と、わが事のように喜んでくれた。なかでも、「あんたの家で座談会を開いてくれたお陰で、信心に励み、生き抜くことができた。本当にありがとう」との言葉が、忘れることができないという。

 法華経の随喜功徳品には、仏法の話をしている会場で、座を詰めて座らせてあげるだけで、功徳があると説かれている。

 ましてや、会場自体を提供してくださる功徳は、無量無辺であると言ってよい。

 山梨県・石和(いさわ)町の笛吹(ふえふき)川沿いに建つ個人会館の提供者・中川千恵子さんも、その功徳を実感されているお一人である。

 中川さんのご主人の公之甫(きみのすけ)さん(故人)は、戦後、衣類の行商から身を起こし、衣料品店を営むまでになるが、病に倒れ、生活は困窮を極める。

 夫妻は、一九六一年(昭和三十六年)に入会。以来、座談会の会場として自宅を提供し、弘教も毎月、実らせていった。

 ご主人も健康になり、商売も着実に軌道に乗っていった。

 六七年(同四十二年)、私は中川さんのお宅を訪問した。

 「誰よりも、幸せになってください」

 こう申し上げると、目を潤ませ、地域広布への誓いを語っておられた。この時、地域に広布の波動を広げるために、皆が気がねなく、自由に使える、個人会館を建てようと決意されたそうである。

 学会に何かしてもらうのではない。学会のために何をするかである――それが、ご夫妻の決意であり、哲学であった。

 二人は懸命に働き、真剣に祈った。

 そして、訪問から十五年後の八二年(同五十七年)、三百五十人が集える個人会館を建設。見事に決意を実現された。

 ご主人は、その後も、病を乗り越えるなど、信心の実証を示され、今から八年前に、八十一歳で亡くなられている。

 千恵子さんは、八十四歳になるが、矍鑠(かくしゃく)として会場を守り、幸せを満喫しながら、後輩たちの激励にあたっておられる。

 この十月、私は、長年の献身に対する感謝の意を込め、句を贈らせていただいた。

 「幸薫れ 笛吹川の 中川城」

 牧口先生も、ご自宅の一階の八畳間と六畳間を活動の拠点とされた。

 戸田先生は、事業が窮地に陥り、学会の理事長を辞任することになってからも、厳然と、ご自宅で座談会を開かれている。

 その時、生命論について語られた言葉が、今も鮮烈に、私の胸に焼きついている。

 私も、独身時代には、狭い一間のアパートで、座談会を開いた。四、五人も集まれば、いっぱいになってしまう。集って来てくださる方々に申し訳ない思いがしてならなかった。

 しかし、座談会は意気軒昂であった。私は、粗末な部屋であっても、現代における法華経の会座であるとの思いで、懸命に法を説き、折伏に励んだ。

 結婚後、しばらくして、大田区の小林町の一軒家に移ってからも、わが家は、座談会場として使っていただいていた。

 子供たちにとっては、それが、学会の世界のすばらしさを、肌で呼吸する、絶好の機会となっていったようだ。

 会場として使用される同志の家は、仏道修行の宝処であり、人材育成の道場である。地域広布の灯台であり、民衆勝利の大法城である。

 私は、深い感謝を込めて、会場提供者の皆様方に、日々、題目を送らせていただいている。

 ――三世に輝く、福徳の大宮殿たれ。ご一家に栄光あれ。ありがとう。本当にありがとう。

1998年12月16日(水)掲載