184 創立七十周年を記念して? 師・戸田先生の思い出

 戸田先生は、厳しく指導された。「人事と金銭は、絶対に正確にして、問題を起こしてはならない」と。

 ともあれ、「組織を利用し、皆から顰蹙を買うような問題を起こす幹部は解任せよ」と叱咤なされた。

 組織を利用し、自分中心主義で増上慢になり、純真な方々を騙し、攪乱しゆく幹部がいたとすれば、断固として皆で追放すべきだ。そうしたことを指導し、会員を守りながら、広宣流布への指揮を執っていくために、会長があり、幹部があり、役職が存在しているのだ。

 皆の正しい和気あいあいたる幸福と団結のために、生きがいある信心の追求のために、深化のために、幹部はいるのだ。その根本の使命と心を、絶対に忘れてはならない。戸田先生は、「学会に傷をつけた者は除名せよ!」「破廉恥の幹部は、必ず辞めさせよ!」と厳命された。「不正に黙って耐えることが不正なのである」とは、インドの大詩人であるタゴールの言葉である。

 戸田先生は、峻厳であった。朝の出勤についても、遅刻を厳として戒めておられた。「朝が勝負である。職場に遅れて来て、上司に叱られるような人間は、偉くなれない。特に、新入社員として信用を積んでいくためには、誰よりも朝早く出勤するべきだ。掃除をしたり、整理をして、上司や先輩を迎えるくらいの気概と懸命さがなければ、偉くはなれないこれ人生の出世の第一歩だ」現実の社会で勝っていくために、先生は、一つ一つ、具体的な要諦を教えられたのである。ある時は、烈火のごとく一喝なされた。「青年は絶対に嘘をつくな!蛇のような目をして、平気で嘘をつくのは、青年でなくして、畜生である」それはそれは、厳しかった。

 御書の研鑚についても、「一行一行、拝しながら、『その通りだ。まったく、その通りだ』と深く拝読していくべきだその上に立って、意味がわからないところは、謙虚に、真摯に解釈するようにすべきだ。御書の拝し方は、上っ面だけで、さもわかったふりをしながら、軽々に読み流していくようでは、断じてならない」と。「剣豪の修行」を思わせるがごとき、厳格なる行学の鍛錬こそ、学会の名誉ある伝統なりと打ち込まれたのである。

 ある青年が、ある会合で、「故郷へ錦を飾りたい。まだ自分は錦がないけれども、どうしたらいいか」と質問した。それまで微笑んでいた先生は、途端に激怒し始めた。「広宣流布のために戦う姿が、学会の幹部をしていることが、最高の錦だ。あらゆる次元からみて、これ以上の錦はない」皆の心に、パッと太陽が差した。

 自信と希望をもちながら、先生の弟子であることが、最高に尊いことを知った。そしてまた、広宣流布という全人類の幸福のために、全世界の永久の平和のために、戦い抜いている我々の創価の世界が、どれほど偉大なものかが、胸深く突き刺さった。その場には、確かに、世間体を考え、虚栄に目が眩み、師の言葉に悔恨の思いを抱いていた者もいたかもしれない。

 自分の胸のなかで、優柔不断に、虚飾の名声に左右されながら、自らの心を繕いながら、薄っぺらな心根でいた者もいたであろう。見栄の心を、実体のなき、信念のなき、霧のような心を、その生命の闇を追い出せ!卑しき輩は、身を震わせながら、這いつくばって、自分自身の真情を眼前に見る思いであったにちがいない。

 先生は、こうも語られた。「約束は守るものだ。青年の最高の修行は、約束を守ることだ。要領が良くて、すぐ約束しては、すぐに約束を破る青年は、大人になれない。信用されない。敗北の道をゆくだろう。貴重な青年時代で、それを学び、信用を積むことが、最大の財産だ」

 戸田先生が、一度、ぜひ語り合いたいと言われていた、インドのネルー首相は、獄中から愛娘に書き送った。

 「人生は、豊富で、多彩なものだ。そこにはたくさんの泥沼や、湿地や、ぬかるみがあるがわりに、また大海があり、高山があり、雪と氷河があり、そしてすばらしい星空(ことに監獄では!)があり、家族や、友人の間の愛情があり、共通の大目標のためにはたらく人たちの同士愛があり、音楽があり、書物があり、思想の帝国がある」(大山聡訳)と。長い一生にあって、つまらぬ泥濘に足をとられてはならない。常に晴れ晴れと、爽快なる生命の勝利の前進を、貫き通していくべきである。先生の厳愛の御指導は、すべて、そのための珠玉の智恵の言々句々であった。

 私たちの師である戸田先生からは、幾つかの遺言があった。その一つに、「第三代会長を守り抜け!三代を守り抜いていけば、広宣流布は達成できる」とあった。現在の首脳も、その遺言は、皆、知っている。戸田先生の亡きあと、一年ほどたつと、第三代会長を推薦する声が、澎湃とわき起こってきた。それは東京、埼玉から始まり、全日本列島をはじめ、世界に散っていった同志からも。「早く、第三代を擁立すべきだ!」との声が、怒濤のごとく轟きはじめたのである。

 当時、学会の最高責任者としては、理事長の小泉隆さんが、その責に就いていた。三回忌も終わり、このときが第三代会長の推戴のときであると、彼は決意していたようだ。それまでは、戸田先生が急逝された直後の後片付け等々、さまざまな面での安定と、今後の飛躍への準備の時間が必要であったのだ。

 戸田先生は、生前、すでに、未来の世界広宣流布についても、細々と遺訓を留めてくださっている。たとえば、「将来、海外の国々にも、多くの会員が誕生し、聖教新聞の特派員が派遣される時代が来るであろう。また幹部が、頻繁に指導に行くようになるかもしれない。その際、厳重に注意しなければならないことは、その国々の方を最大に尊敬することである。

 島国根性で、すぐに威張り散らして、忌み嫌われる日本人になってはならない。その国の方々から信頼されなければ、負けである。敗北である。海外には心して行くように。また、海外から来日する同志は、くれぐれも温かく、親切に迎えるように」と、言い残されていた。まことに、こまやかな御指摘であった。しかし、そのなかに、重大な指針が凝結していた。無用な摩擦や反発など、決して招いてはならない。

 どこまでも、その国に貢献し、礼儀正しく誠実に、友情を結ぶことである。私は、この戸田先生の心を心として、祈りに祈り抜きながら、「世界への道」を開いてきた。また、我が同志も、私と共に懸命に戦ってくれた。だからこそ、百六十三カ国・地域へ、対立も、紛争も、弾圧も乗り越えて、平和と幸福の連帯を広げることができたのである。

 有名な「御義口伝」には、法華経に説かれる「師子吼」の深き意義について、「師とは師匠 授くる所の妙法・子とは弟子 受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり」(御書748)と仰せである。創価学会は、永遠に、この師弟の「師子吼」を轟かせながら勝ち進んでいくのである。