185 創立70周年を記念して?

 七十周年の「創立の日」を前に、師・戸田先生の「人間学」、また「生命学」の一端にっいて、引き続き、紹介させていただきたい。

 「性格」という命題にっいて、先生は言われた。「人間の性格というものは、直らない。川の流れる道筋が変わらないように、性格も大きくは変わらない。運命的に決まっている。しかし、泥水の川も清らかな流れに変わるように、性格も、濁りを落とし、清浄にすることができる」と。

 そのためには、どうすればよいか。妙法を朗々と唱えながら、人のため、社会のために尽くしていくことであると、先生は教えられた。正義の中の正義の行動によってこそ、その人に流れる生命は清々と浄化され、豊かに水かさを増していくからである。

 「広宣流布」という究極の大目的に向かって無我夢中に動いていけば、自然のうちに、性格の悪い面などは冥伏し、良い面が躍動してくるものである。たとえば短気な人は、悪に対する怒りを燃やせばよい。内向的な人は、思慮深さを皆のために光らせればよい。

 せっかちな人は、そのスピードで善の前進を加速すればよい。この一生、自分は自分らしく、伸び伸びと持ち味を発揮しながら、自らの偉大なる人間革命の花を咲かせゆく。ここに、「桜梅桃李」の仏法と人生の世界がある。「人間は、自分を良く見せようとするものだ。誰でもその癖がある。ありのままの姿でいきなさい。私は、自分の卑屈さを直すために努力したものだ」とも、戸田先生は率直に語られた。

 人びとを窮屈な型にはめようとする偽善の宗教者とは、まったく異なる、無作の人間教育者の実像が、そこにはあった。「人から何回も注意されながら、時が過ぎれば、角が取れ、どんな人でも良くなり、収まる所に収まるものだ」これも、先生の人生哲学であった。だからこそ、忠告してくれる先輩や同志が大事なのである。いわんや、弟子の成長を願う師の叱陀が、どれほど有り難いか。

 人の性格をよく見抜いて、その個性がいい方向に向いていくようにリードするのが、真実の指導者である。「どんな立派な人間でも、短所がある。また、どんな癖のある人間でも、長所がある。そこを活かしてあげれば、みな、人材として活躍できるのだ。人を見て、その人にあった働き場所を考えることがホシだ」とは、先生の将軍学である。 

 先生は、夫婦や家庭教育にっいても、公正な判断をしながら、見守り、指導していかれた。「たとえば、夫が百点の人望や人格があっても、妻が愚かであれば、五十点になってしまう。反対に、夫が五十点くらいしか評価されない存在であっても、妻が聡明であれば、夫を八十点、九十点まで光らせていくことができる。

 ゆえに、妻の女性としての生き方、夫婦のあり方、社会とのつながりを、誠実に、賢明に、心していかねばならない。そして、その妻を百点満点にしていくのが、信心であり、学会の指導である。これは、夫の側についても同じである」と。さらに先生は、婦人部に対しては、「金銭にルーズでは、家庭を立派に建設できない。月給が少ないからといって、いつも愚痴をこぼしていても仕方がない。毎日、家計簿をつけていきなさい」と、それはそれは毅然として、指針を示された。

 家計簿をつけていくうちに、何か無駄はないか、節約の余地はないか等々、全体的に、計画性、生活性ができあがっていく。私の妻は、今でも家計簿をつけ、戸田先生のおっしゃる通りに実行している。その家計簿は、一家の宝となっている。

 ある時は、戸田先生は、男性の心情を代弁されるように話された。夜は、夫婦喧嘩をしてしまうこともあるだろう。しかし、朝、夫が出勤する時は、社会に向かって戦いを開始する時であるがゆえに、にこやかに送り出してもらいたい。朝は、怒ってはいけない。出掛ける前に、決して夫婦喧嘩はしてはいけない」こういう人の心の機微に触れた指導をしてくださった。

 また、戸田先生いわく、「子どもの信心は、母親で決まる。母は、本然的に愛情があるからだ。子どもは、母親からどんなに厳しく言われても、その温もりと慈しみを、自ずから感じている。信心などにっいて、父親がやかましく言うと、子どもは反発する。父親の場合は、母親のような慈愛でなくして、ある種の残酷性を感ずるからだ」と。

 戸田先生は、創価学園創価大学の創立を展望しつつ、こうも論じておられた。「宗教教育は必要ない。押しっけられると、幅が狭くなってしまうからである。

 しかし、心の問題を忘れて、教育はありえない。ゆえに宗教性は必要である。知識偏重、科学一辺倒で、宗教性というものまで否定してしまえば、もはや、いい人間教育はできない」信仰する、しない、信仰させる・させないは、あくまでも個人と家庭の次元の問題である。

 ただし、社会全体においても、「生命の尊厳」や「人格の尊重」や「暴力の否定」など、精神の滋養は、どうしても不可欠となる。その意味において、日本の教育界に、いま切実に要請されているのも、この確固たる宗教性であるといってよいだろう。

 ある日、ある時、戸田先生は、遠くを見つめるように語られた。「将来は、世界平和のため、広宣流布のために、海外に、多くの方々が行くであろう。その時に、仏法の話や学会の話を、短兵急に切り出して、相手に、一体、何のために来たのかと反感を招くようであってはならない。

 心と心の交流、友情の拡大、異なる文化の理解を育む“人間主義の対話"が大事である。その意義を違えた感じを与えては、決してならない。特に、女性がいる場合は、『竹取物語』のかぐや姫の話をするとか、清少納言の『枕草子』や、紫式部の『源氏物語』等々を語っていくような、聡明な、平和的な、文化的な会話のもっていき方をするべきだ」千五百人を超える世界の知性との私の対話は、この戸田先生の指導の実践の記録でもある。

 御書のなかに、「先日御物語の事について彼の人の方へ相尋ね候いし処・仰せ候いしが如く少しもちがはず候いき」(一四四八ペ一ジ)という一節がある。わかりやすく言えば、大聖人は、一人の弟子からの報告について、別の人にも確認された。すると、その報告通りであったとの仰せである。

 戸田先生は、この御聖訓を拝されながら、鋭く指摘された。「さまざまな報告がある。しかし、その報告が正確であるか。感情であるか。悪意であるか。非常に、即断は難しい。したがって、一方的に聞いてはならない。その実態はどうであるかということを、必ず念頭に置いて。

 正確なる判断をもつように、智慧を働かせなければならない」と。ともあれ指導者は、「近視眼」であってはならない。「遠視眼」であってもならない。常に「正視眼」で、すべての物事を見るように、心がけなければならないとは、牧口先生以来の学会の指導であり、実践の原理である。

 創価学会の「創立の日」は、そのまま、初代・牧口先生の「殉教の日」でもある。「正義の学会を弾圧し、迫害し、愚弄した権力者は、永久に忘れてはならない。とともに、善良な学会人を苦しめ、嘲笑い、侮辱してきた権力者を、断じて許してはならない。“仏法と申すは勝負を先とし”である。厳しき因果の実相を、明確に見抜き、そして圧倒的な創価の完勝をもって、末法万年尽未来際への鑑としていくべきだ」これが、「十一月十八日」のその日を迎えるたびに、激昂しながら叫ばれた、戸田先生の遺誠である。