196 信濃路を走る歓び(長野)



 彼は自転車に乗って、走りに走って、同志の家に向かった。その自転車は、もう古くて寿命が近づいているように見える。 しかし、彼は走った。 広宣流布のために走った。 友の激励のために走った。 同志の結束のために走った。

 ある時は自転車が動かなくなっても、上空を仰ぎ、天下一の詩人になったつもりで、清らかな心で、「我は幸福者なり。私は幸福者なり」と自負し、銀河の星々を眺めながら歩いたにちがいない。 ある時は懐かしき歌を歌い、ある時は威風堂々と、学会歌を口ずさみながら!

 私たちが進む道には、不気味な、夜半の道もあった。人影のない恐ろしい道もあった。 とくに、深夜に鬼押出しなど浅間山麓を通らねばならない時は、ひとしお怖かったと、ある婦人部の方が思い出を懐かしそうに振り返りながら、語っておられた。

 しかし、私たちのこの真っ暗闇の帰り道は、テレビのドラマで見る王侯たちが、威厳をもって家来を従え、立派な宮殿を肩をいからせながら歩いている道よりも、最高に優雅な道である。そして、偉大な仏道修行の正直な道であることを誇りとする。

 信心が嫌いだからと睨み付ける人もいるが、その感情の風は、自分自身に吹き返されていくことだろう。「認識せずして評価することは、最も高慢な邪智である」とは、先哲の叫びである。「広宣流布」という永遠不滅の平和のために戦う人を、眉をひそめて軽蔑する人間、また、身を震わせながら嫉妬の感情を剥き出しにする人間は、いずれ汝自身が諸天より厳しく見放される。

 正義の道を外れて、愚かにも邪道に迷い込み、最後は唆厳な試練に襲われるであろう。 私たちは、誇り高く、豊かな心で、堂々と、この夜の道を歩み帰る。 午前一時を回ってしまった時もある。しかし、誰人にも邪魔されない、この宝石のごとき命運の道は、厳密に私自身を永遠に仏にしてくれる、絶対なる信頼の道なのだ。

 長野の道。そして、長野の夜の道。霊鷲山に行く、なんと楽しき道か! なんと誇り高き道か!

  兎追いしかの山

  小鮒釣りしかの川

  夢は今もめぐりて

  忘れがたき故郷

 この「故郷」の詩も、信州の四季から生まれた。豊田村出身の高野辰之博士の作詞である。 奥信濃の長く厳しい冬を耐えに耐えて、ついに迎える春は、どれはど美しく躍動し、どれほど深い歓びに満ちているか。

 あの心弾む「春が来た」の歌も、「菜の花畠に 入日薄れ」の一節で始まる「朧月夜」の名歌も、信州育ちの博士だからこそ生き生きと謳い上げることができたのであろう。 信濃は、日本の心のふるさとといってよい。

 信越婦人部長の森本和子さんが、朗らかに語られていた。 「長野は、首都圏の人を対象にしたある調査で、日本で一番、移り住んでみたい地域の第一位です。また、男性の長寿日本一も長野です。 この詩情豊かな清き山河を、二十一世紀にも、私たちは厳然と守り伝えていきたい」と。

 「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清し」(御書三八四?)という「依正不二」の生命哲学は、いやまして光彩を強めている。

 全国の「地域広布の模範」の中には、長野の平谷村と浪合村の名前が光っている。 いずれも、県の南部、岐阜県との県境の山間にあり、わが同志が、言い知れぬ辛労を尽くされながら、広宣の拡大に戦ってこられた地域である。

 また、長野のある県副婦人部長さんは、六年前、圏婦人部長の役職を後輩にバトンタッチした。しかし、活動に向かう心は、いささかも引かなかった。 彼女は、題目をあげ抜いて、心に誓った。 「徹底して人に会おう。対話しよう。学会の正義を語ろう。これが私のライフワークだ!」 そのために「対話ビデオ」の活用を決意。いつも、車に「ビデオ付きテレビ」を積んで、日夜、長野の山河を駆け巡った。 一軒また一軒と、たゆむことなく足を運び、これまで、一緒にビデオを観賞した内外の友は、なんと三千五百五十人を超したそうだ。 「行躰即信心」が日蓮仏法である。広宣流布の勝利へ、祈っては動き、動いては祈る。その連続闘争のなかに、真実の仏道修行がある。

 長野には、人材育成の大いなる?母胎〃がある。 一九七七年(昭和五十二年)に、「信濃大学校」が開校。 新入会の方や、新たに信心に目覚めた友が入校し、学会の歴史、師弟の精神、広布の使命等を学んでこられた。 ここから約二十年間、三万人を超す大人材城が築かれた。

 なぜ、ここまでの人材の拡充が可能となったのか。 そこには、心こまやかにメンバーの面倒をみる布陣が組まれていた。 壮年部、婦人部、男子部、女子部などの各部に、本部や圏ごとに校長を設け、さらに教材(小説『人間革命』)の巻ごとに巻責任者(巻責)と呼ばれる指導担当者がついた。

 現在でも、この伝統は、「創価信濃大学校」として、脈々と受け継がれ、小説『新・人間革命』を、?クラスリーダー〃を中心に学び合っている。 ?校長〃といい、?巻責〃や?クラスリーダー〃といっても、ただ会合で話をしたり講義する存在ではない。むしろ、「家庭指導」と「個人指導」こそを、第一義とされているのである。

 八十五年前、インドの詩聖タゴールは、長野を訪問し、女子学生たちと、軽井沢の木漏れ日のもとで語り合った。名画のような?緑陰学校″である。 自らも学園を創立した教育者の彼は、記している。 

「教育は人生の永遠の冒険であり」「それは健康体の機能であり、精神的活力の自然の表現である」(三浦徳弘訳) 先輩が後輩を自分以上の人材にしようと願い、本気で育てていってこそ、組織は「永達の精神の活力」を得る。

 これが生命の道であり、その究極が「師弟」である。 師弟の道こそ、人生の最高峰に登る王者の道である。 私も、二十一年前(昭和五十四年)、長野研修道場を訪れて以来、この地で人材錬磨の歴史を刻んできた。 若き清水重臣・総長野長も、学生部時代から、この道場での研修会で、私が薫陶してきた一人である。

 長野は「教育立県」として、まことに有名である。 また、長野の方々は、大変に正直であり、誠実であられる。 しかも、ひとたび、正義の炎を燃やして、悪に対する闘争に立ち上がれば、人が変わったように、その闘志は凄まじい。

 私は思った。長野の人は、いざという場合の勢いと信念は、恐ろしいほど強靭であると。 フランス革命の思想の原動力となったルソーは言った。 「正しい人の雄弁は極めて勢い盛んな虐政をも怯えさせることができる」(安士正夫訳)と。

 正義の熱血漢であった四条金吾の領地も、殿岡(現在の飯田市内)にあった。 長野の方から、四条金吾みたいだと言われている位高勉・総長野総合長の地元である。 大聖人に送られていた由緒ある尊い殿岡米を、飯田大城県の同志は、折々に届けてくださる。深き真心に合掌しつつ、学会本陣の御宝前にお供えさせていただいている。

 「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(御書一一六九?)とは、四条金吾への御文である。 正義なるがゆえに、断じて戦い、叫び、勝ちまくれ! この師子王の心を燃え上がらせて、わが友は、今日も広布の信濃路を走りゆく!