221 神奈川 7月の深き縁




 「ひじょうによい結果を得たければ、みんなが奮闘しなければなりません。みんなが奮闘してこそ、大成功をおさめることができるのです」(堀川哲男・近藤秀樹訳) かつて読んだ、この一節が、今もって私の心を捉えている。それは、中国民主革命の先駆者であり、横浜を一大拠点とされた、孫文博士の言葉である。 博士は、「われわれが事をなすには、人に先んずべきで、人に遅れてはなりません」(同前)とも訴えた。

 七月三日は、我々、創価の同志が、忘れることができない記念の日である。 第二代会長・戸田先生が出獄した日であり、また弟子である私が、有り難くも入獄した日だからである。 自然に、この巡り来る七月は、正義の闘争である広宣流布の力が、いやまして速力を全開させていく、伝統の月となった。

 そして、この仏法正義の快進撃の新しい決意の前進は、一段と、師弟は不二である大精神が燃え上がる七月となってきた。

 私が会長を辞任した直後の、あの一九七九年(昭和五十四年)五月三日は大晴天であった。 しかし、創価大学の体育館で、時の法主を迎えて行われた佗しき総会は、出席者の多くの胸中に、その無念さと悔しさが、奥深く刻まれて残っているにちがいない。

 この時、出席した代表幹部にとっては、その心境のいかんによって、今日の結果が、勝利の人間になったか、敗北の人間になったか、さらに常勝の人になったか、陰険な人物に堕ちていったかが、決定された日であった。

 この厳しき因果の心の動きは、汝自身が一番知っていることである。 創価の真実の広布の英雄であったか、信心利用の卑怯なる臆病のニセ幹部であったかが、厳しく問われる瞬間であった。 正義に目覚めて戦った人は、未来は永遠に明るい。 邪悪に狂った人生は、未来は永遠に暗黒だ。

 この創大での総会を終えて、私が真っ先に向かったのは、横浜に新しく建設されたばかりの神奈川文化会館であった。

 戸田先生が「城外」と、自らの名前を残してきたことは、皆様もご存じの通りだ。 「城中」には、師である牧口先生がいらっしゃればいい。弟子は城の外に出て、あらゆる敵の大軍と戦うという意味で付けられた名前だ。

 私も、東京の本陣に帰らず、真っ先に「城外」である神奈川城に突進して、そこから新しい、いうなれば本門の法戦を、私の本懐として遂行しようと決意していったのである。 いくら同志が裏切っても、私自身の師匠である戸田先生との誓いは、絶対に私は裏切らなかった。

 それが、仏法の上からも、人間としても、最高の正しい生き方であることを、明確に知っているからだ。 「正義の旗」を一人掲げた 「名誉会長」としての初陣の地こそ、わが神奈川であったのである。

 その年の「七月三日」も、私は、あの山下公園の彼方、太平洋へ船出しゆく姿が目の当たりに見える、神奈川文化会館にいた。 この日、私は、中米コスタリカの大事な客であられる大学教授をお迎えした。そして、人類の未来を語り、平和を語り、文化を語り合い、論じ合い、価値ある歴史を留め始めたのだ。

 翌一九八〇年(同五十五年)も、「7・3」は神奈川だった。神奈川の友が、埼玉の同志と共に、記念の集いをもってくださった。

 さらに一九八四年(同五十九年)の七月も、私は広宣流布の誉れ高き大牙城といわれる神奈川文化会館に入った。ここが広布の本陣と決めて、さらなる戦闘を開始した。

 久方ぶりに三崎を訪問したのも、この時のことである。 なかでも、心情れわたる七月十日の神奈川の記念本部長会は、新たな歴史を刻む会合となった。 私自身の手で、各地域の広布の指導者の代表に「広宣流布の旗」を授与することができたからだ。 それは、横浜市神奈川区・中区・西区・保土ヶ谷、さらに旭区・磯子区・金沢の各区の旗の授与であった。 続いて、川崎市の川崎区の旗、幸区の旗、中原・高津・宮前・多摩・麻生の各区の旗!さらには藤沢の圏(ゾーン)旗を広宣流布の旗として授与させていただいたのだ。

 神奈川の全同志に、栄光の旗を捧げる思いで! 皆も、生き生きしていた。この人たちが、広宣流布の第一線で戦う真実の「地滴の菩薩」の先陣を切る、尊い方々であると思うと、熱い涙がこぼれるのを感じた。 私は、授与の際、一人ひとりに、「頑張ってください!」「万事、よろしく!」と声をかけながら、旗を渡した。 その時の晴れ晴れとした、気高き地涌の戦士の方々の英姿が、今もって鮮やかに胸に残っている。 「これで神奈川は大丈夫だ」と、私が深く確信する瞬間であった。

 それは、この三十年ほど前、一九五三年(昭和二十八年)の一月六日のことであった。 この日は、私の、男子部の第一部隊長の就任式であり、師匠・戸田先生から、部隊旗を、直接、授与された。 旗を手にした先生の目が、眼鏡の奥で鋭く光った。

 ?私と共に、生涯、広布に戦い抜くか!″ 師から、広宣流布の旗を授かる瞬間、わが心は炎と燃えた。 先生は言われた。 「この旗を、最後の戦いまで、高く振りかざしながら、奮闘せよ! 頼むぞ、大作!」 ともあれ、偉大なるわが師である戸田先生は、若き我々を最大に大事にしてくださった。その御高恩は永遠に忘れることはできない。

 私は、幾たびとなく綴ってきたが、私の持っていた詩集の土井晩翠の「星落秋風五丈原」の歌を、この部隊旗を拝受した折にも、歌い、お聞かせした。 先生はじっと目をつぶり、その歌の内容を心に響かせながら、深い思いを私たちに感じ取らせた。 先王の遺業を継いで戦ってきた諸葛孔明が、その途上に重病に倒れた晩年の苦衷を詠った名作である。

  祁山悲秋の風更けて

  陣雲暗し五丈原

  丞相病あつかりき

 歌い終わると、「もう一度!」、そしてまた、「もう一度、歌ってくれ!」と、幾たびとなく、先生は感慨にふけりながら、求められた。 そして先生は、目から、涙を流しておられた。

  成否を誰れかあげつらふ

 一死尽くしゝ身の誠

  苦心孤忠の胸ひとつ

 其壮烈に感じては

 鬼神も哭かむ秋の風

 思えば、先生は、軍部権力の弾圧で、獄中におられた時から、「旗持つ若人」を魂の底から探しておられたにちがいない。 ーあれから、私は、いかなる悪戦苦闘にも、一歩も退くことなく、戦って、戦って、戦い抜いて、断固と勝ってきた。 今、わが眼前には、新たな旗を持つ、若き神奈川の闘士が凛然と立ち上がっている。

一九九一年(平成三年)。あの我々が信じ、守りに守り、一身をなげうって財宝を供養してきた宗門は、わが学会を切り捨てた。それは学会、ひいては私に対する嫉妬であり、宗門自らが、倣慢と乱脈の陰険な巨悪の本性の牙を現し、さらけ出した姿であった。

 この年、私は、幾たびとなく、魂の輝く神奈川城で指揮をとった。 「さあ、これから、新しき創価ルネサンスである」と、私は叫んだ。 厚木平和会館での小田原の音楽祭にも、横須賀、川崎の文化音楽祭にも足を運んだ。 横浜・西区の講堂を訪れた日もあった。翌九一年(平成四年)一月には、鎌倉・湘南合同の合唱祭にも出席した。

 「いかなる困難に突き当たろうとも、これを耐え忍んで、乗り超える覚悟ーこれこそ、われわれを深く結びつけている絆である」とは、イギリスのチャーチル首相の名演説である。 悩乱法主が、いかなる陰謀と残虐な迫害をしようとも、正義に戦う創価の団結は微動だにしなかった。

 神奈川は、いよいよ猛然と戦い、二十世紀最後の十年を見事に勝ったのだ! 今、二十一世紀を決する、第二の「七つの鐘」も、相模原、大和、厚木、平塚などをはじめ、神奈川中のあの街、この街から、痛快に鳴り渡り始めた! 神奈川は新しき決然たる前進が、早くも始まったのだ。日本、そして世界の先頭に立って!

 アメリカ・ルネサンスの旗手エマソンは言った。 「女性は、もっとも鋭敏であるだけに、やがてどんな時代がくるかを示す最良の指標なのだ」(酒本雅之訳) 大聖人は、すでに七百年以上も前から、「男女はきらふべからず」と男女平等を宣言されている。

 学会もこの精神で「女性の世紀」を創り始めた。 その模範が神奈川である。 「行動するとはわたしにとって、わたし自身を変えること」(福井美津子訳) ーこのフランスの女性思想家シモーヌベーユの言葉を、私は贈りたい。 親愛なる神奈川の友よ! さあ、勇気だ、執念だ、不屈の闘魂だ、絶対の勝利だ! 七月の大空に、「正義と栄光の大旗」を、勝利、勝利と翻らせてくれ給え!

 七月三日、学会本部にて。