265 広島の深き使命


師弟共戦で開け! 平和の世紀


 「此処が、この世が、私達の奉仕の場所であるのだ。  それ故に、この世に於ける奉仕を成し遂げるために、私達の全力が集中されねばならぬ」(八住利雄訳)――これは、ロシアの大文豪トルストイの信念の言葉である。

 二十世紀が開幕した一九〇一年(明治三十四年)の二月のことである。  アメリカ西部のオレゴン州で、後の二十世紀最大の科学者ライナス・ポーリング博士は生まれた。わが師・戸田先生が石川県に誕生して、ちょうど一年後であった。

 博士が十三歳で化学の世界に目を開いたころ、幼少期に北海道に移っていた戸田先生は、厚田村を出て、奉公先で大八車を引きながら、古今の書を読みふけった。  博士が牛乳配達や道路舗装の技師をしながら苦学したエピソードは、先生の苦闘の青春と重なり合うものがある。

 わが師と同世代を生きられたこともあり、私にはポーリング博士が慈父のようにも、「平和の道」の師のようにも思えてならなかった。  生前の博士と開催をお約束した「ライナス・ポーリングと二十世紀」展が、アメリカでの公開に続き、平和原点の地・広島で、国内初の巡回展が五日まで行われ、入場者七万人を超える大反響を広げた。

 会場は、被爆の歴史を刻印する旧日本銀行・広島支店であった。爆心地からわずか三百八十メートルにありながら、その堅牢な建物は原爆の猛威に耐え、被爆者の収容所にもなった。  焦土にぽつんと残り、いち早く、内部の窓口を各銀行で仕切り、業務を再開。広島の復興を金融面で支えた。

 原爆の地獄絵図。奇跡的な復興。この両方をつぶさに目撃した建物での開催であった。ポーリング博士も、ご存命であれば深い意義を感じ取ってくださったにちがいない。 広島と長崎への原爆投下こそ、科学の世界に没頭していた博士の目を平和運動に向けさせた原点である。

 昭和三十四年、博士は広島を初訪問。原水爆禁止を訴える世界大会で歴史的な「ヒロシマ・アピール」を発表した。  争いを正義と道徳によって解決する道を!」――博士は、広島から、平和の旋風を巻き起こそうとされた。

 私には、博士が、あの血色のよい、つやつやした少年のような頬に笑みをたたえ、この展示会を見守っておられたように思えてならない。



 私が初めて広島の地に立ったのは、昭和三十二年の一月二十六日である。後の「SGIの日」と同じであった。  この年は、核開発競争に、人間の良心からの警鐘が鳴らされた年でもあった。

 七月にポーリング博士は、核実験に反対する科学者たちと、有名なパグウォッシュ会議を開催した。 一方、九月八日に、戸田先生は青年への「遺訓の第一」として、「原水爆禁止宣言」を発表され、核兵器を「絶対悪」と断じられた。  科学者の知性、そして仏法者の英知が、共に核兵器という人類の敵に挑んだのだ。

 しかし、このあと、戸田先生のお体は、目に見えて衰弱していった。  それでも先生は、十一月二十日には、敢然と広島指導に向かわれようとしていた。  その前日、憔悴された先生に忍び寄る死魔の影を感じた私は、重苦しい心で学会本部への道を急いだ。

 応接間のドアを開けると、戸田先生はソファに、じつと身を横たえておられた。私は膝をつき、必死に、広島行きの中止を進言した。  先生はゆっくりと体を起こし、私の目を見すえた。  「御本尊様のお使いとして、一度、決めたことをやめられるか! 男子として、死んでも行く。これが、大作、真実の信心ではないか!」

 戸田先生は仁王立ちになっていた。私はこみ上げる鳴咽を抑えられなかった。  「原水儒禁止宣言」から、二カ月後のことである。  先生の被爆地・広島への思いは、いかばかりであったろうか。  核兵器という「サタン(悪魔)の爪」に破壊された広島へ、命と引きかえで出発する覚悟だったのである。

 だが、この翌日には、先生の病状は、歩行もできぬほどに悪化し、ついに広島指導は断念せざるをえなかった。  恩師は五十七歳。ご逝去の半年前のことであった。  生命を賭して、広島行きを望まれた、あの師の気迫は、生涯、わが胸から消えることはない。いな、それが、私の行動の原点になった。

 体が弱く、三十歳まで生きられないと医師に言われた私である。それ以降の人生は、師とお会いしていなければ、なかったかもしれぬ。  「詮ずるところは天もすてた諸難にもあえ身命を期とせん」(御書二三二?)  捨て身の覚悟なくして、どうして歴史を動かせようか。その覚悟で新たな波を起こしてこそ、真の弟子である。




平和の大使命ゆえか、わが広島の前進は、SGIの大河への発展と共にあった。

 昭和五十年の一月二十六日、グアム島でSGIは発足した。

 私は、その時、「全世界に平和という妙法の種を蒔いて尊い一生を終わってください」と呼びかけた。

 この意義深き年の本部総会の舞台が、広島であった。  私は核廃絶をアピールし、原爆慰霊碑に花も捧げた。  平和の大樹となるべき「一粒の種」を、広島に蒔いておきたかったのである。

 さらに昭和六十年の十月、発足十周年のSGI総会(初日)も、広島で行われた。  二十八年前、戸田先生は、広島行きを願われながら叶わなかった。いかなる運命か、その時の先生と同じ五十七歳の私が、広島にいた。  私にとって、広島は、師と共に平和の戦いを誓い、雄々しく弟子が立ち上がる?原点の都″である。




 「ライナス・ポーリングと二十世紀」展も、弟子たちの事で、師の偉大さを証明している展示会である。 全米で六十七万人が観賞した展示運動を支えてこられたのが、ポーリング博士を師と仰ぐ諮問委員の方々である。  いずれもー級の科学者や平和運動家である。諮問委員のなかには、ノーベル賞受賞者が九人もおられる。

 ハーバード大学の科学学部長であられたリブスコム博士(ノーベル化学賞受賞も、ポーリング博士の弟子を自認されている一人である。アメリカSGIのスタッフに、こう語っておられたという。 「人生の目的が大きくなるほど、師匠は必要です。師匠のように偉大な人生を生きると決めることで師の歩んだ高みへ自分を押し上げ、だれにも真似のできない偉業が開花していくのです」

 仏法の「師弟不二」の精神と響き合う言葉である。  師弟の道は、決して人間を型にはめ、窮屈な生き方を強いるものではない。むしろ自分らしい個性、才能、人格を完成させていく道である。  ?ポーリング門下生″ともいうべき方々の、世界最高峰の知性の開花が、そのことを雄弁に物語っている。

 博士が、遺言のごとく残された言葉は何であったか。  「もし、我々は何をなさねばならないかと問われたら、我々は人間生命のナンバー・ナイン(九界)、つまり菩薩界の精神に立って行動するよう努力するべきである!」  あらゆる人間苦を取り除くため献身した博士の人生は、まさに菩薩の精神に貫かれていた。この精神こそ、憎悪と不信の世界を転換するカギであると見抜かれていた。

 「この世から悲惨の二字をなくしたい!」と戦われた、戸田先生の御心と通じる。  ともあれ、すべては弟子の戦いで決まる。平和への大闘争も、また同じである。

 わが偉大なる広島よ、池田門下のわが弟子たちよ! 来る日も、来る日も、金剛の信心を光らせ、地涌の菩薩の闘魂燃ゆる「平和の闘士」となって、堂々と世紀の舞台に躍り出てくれ拾え!