278 不二の旅立ち「8.24」2



日蓮仏法は、太陽の仏法である。

ゆえに、全世界の民衆を照らしゆくために、一閻浮提への広宣流布が、絶対に必要なのだ。これが御遺命であるからだ。ともあれ、大聖人は仰せであられる。

「仏法が日本の国に渡って七百余年の間、いまだ日蓮ほど、法華経のために諸人に憎まれた者はいない」 (御書1051ページ通解) 経文通りの迫害を誉れとなされた御聖訓である。

 そして、この大聖人の御出現から七百数十年――。我らは御書に寸分違わず、ある時は僧まれ嫉まれ、そして、ある時は弾圧されながら、世界百八十三カ国・地域への広宣流布を断行してきた。これこそ、創価の三代の師弟を貫く、我らの誇りである。

昭和二十四年の年頭より、二十一歳の私は、戸田先生の経営される出版社の日本正学館に入社し、雑誌『冒険少年』 『少年日本』の編集に携わった。

 私にとって、戸田城聖という人物は、「師」であるとともに、「主」であり、「親」の存在ともなったのである。?ソクラテスの存命中に生まれ合わせたことが、私の運命の最高の賜物です″――こう感謝したといわれる弟子プラトンの喜びが、私には何よりも深く共感できた。

 この殉教の大指導者のためならば、私はこの身を捧げることに、少しも逡巡はなかった。学会のために尽くそう!これが、広宣流布になるからだ。一年また一年、「8・24」を迎えるたびに、死身弘法の鑑であられた戸田城聖先生の大きな魂に包まれて、私の決意は、一段と燃え上がっていくのだ。

それは、昭和二十五年の八月二十四日のことであった。私の入信三周年の記念日である。 当時、戸田先生の事業は行き詰まり、最悪の苦境にあった。多くの人びとが先生を罵り、逃げ去った。そのなかを、私は一人、師に仕え、一心不乱に祈り、阿修羅の如く奮戦した。

 この日は、新聞記者との誠心誠意の渉外に当たった。悪意と無認識の報道を何とか食い止めたかったからである。 戸田先生と一緒に、虎ノ門の喫茶店で、記者と会見したあと、二人で日比谷公園の方へ出て、お堀端を見ながら、しばし歩いた。 「言論の自由の時代だ。一つの新聞を持っているということは、実に、すごい力を持つことだ。

 学会も、いつか、新聞を持たなければならない。大作、よく考えておいてくれ」 聖教新聞は、実に、この苦難の渦中の八月二十四日、師弟の対話から生み出された。 この夜、法華経講義を終えると、戸田先生の理事長辞任が発表された。

 

そのあとで、先生は、私に言われた。「苦労ばかりかけてしまうが、たとえ理事長を辞めても、君の師匠は僕だよ」 当時、事業の負債は、膨大な額に及んでいた。 あの剛毅な先生が、見るに忍びないほど憔悴されている時もあった。まさに先生は、生死の淵に立って、呻吟しておられたのである。 私自身、いつ倒れるかもしれぬ病身であった。

しかし、私は青春の闘志を烈々と滾らせながら、申し上げた。「先生、ご安心ください。断じて私が打開してみせます。先生に必ずや、会長になっていただきますから!」 私の全生命は、師匠の命を、何が何でも守り抜いてみせるという執念の塊であった。

 御書には、「師弟相違せばなに事も成べからず」 (九〇○ページ)と戒めておられる。 師弟が不二であれば、すべてを変毒為薬して勝ち抜いていける。 この秋霜烈日の時を、師弟不二で勝ち越えて、翌年の昭和二十六年の五月三日、晴れわたる青空のもと、第二代会長の歴史的な栄光の就任式を遂に迎えたのである。 

師匠を支えるために、私は夜学も、さらに大学への進学も断念した。しかし、その私に、大学者であられる戸田先生が、あらゆる分野の学識を、全力を傾注して授けてくださった。

未来を見据えて、戸田先生は、多忙ななか、毎朝、そして毎日曜に、万般にわたる教育をしてくださった。私は、今もって、その慈愛を噛み締めて感謝している。 このたび、五十五周年の「8・24」の意義ある日に、仏教発祥の天地インドより、名門ヒマーチャル・プラデーシュ大学のシャルマ副総長ご一行が来日くださった。

 同大学から、私への名誉文学博士号の授与のために、はるばると、お越しくださったのである。世界から百三十番目となる、この知性の宝冠を、私は、苦楽を共にしてきた、わが全学会員と分かち合いたいと心から願っている。

先日も、教育界の識者が、「世界の大学から、これだけの名誉称号を贈られている人は、当然、日本では、他に誰もいない。世界にも一人いるか、いないかである」と語っておられたようだ。その識者は賞讃と驚きをもって、常に悪意の悪口を浴びせられてきた私に対して、最大の賛辞を贈ってくださった。「一人の真実の味方がいればよい」とは、恩師の言葉であった。

日蓮を信ずるようであった者どもが、日蓮が大難にあうと、疑いを起こして法華経を捨てるばかりではない。かえって、日蓮を教訓して『自分の万が賢い』と思い上がっている」(同九六〇ページ、通解)これは、牧口先生が御書に赤線を引かれ、何度も拝されていた「佐渡御書」の一節だ。

 牧口先生ご自身が投獄されるや、愛し、信頼していた弟子どもに裏切られ、罵倒された。 獄中でそれを聞かれた戸田先生は、激怒した。「なんと卑怯な意気地なしどもか! そんなやつは、弟子なんかではない。牧口先生を利用した卑劣な利己主義者どもだ!」 先生は、ただ一人、「牧口先生の慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださった」と勇み立って、お供をされたのである。 臆病にして冷酷無慈悲な宗門は、牧口先生を「登山停止」「信徒除名」に処し、残されたご家族には、獄中の先生の退転を促すように勧めた。

大事な大事な時に、人の奥底の心の振動は、厳しくも明確に顕れる。人の心は、恐ろしいものだ。 戸田城聖先生のもとで、一時、理事長まで務めた矢島某も、後に豹変して、学会に弓を引いた。 戸田先生は、常に語っておられた。

 「心の卑しき人間、自己の利害だけに生きる人間、虚栄で自分を飾る人間。それらは、大事な時に、そのメッキが必ず剥がれる。今、やれ広宣流布だ、やれ折伏だと、勇んでいても、この心卑しき人間たちは、必ずといっていいほど、背信の邪悪な鎧を着て、反逆の炎と化して、真実正道の我らを罵倒し、苦しめるであろう」そしてまた、先生は、こうも達観しておられた。「卑劣な敗残兵など放っておけ。学会への反逆は、大聖人への師敵対だ。

 その仏罰の最後の姿を見ればわかる」 私は、この五十五年間、そうした人間模様を、明確に厳しく見つめてきた。仏法の厳然たる因果の理法は、精緻な科学も及ばぬ正確さであり、一分の狂いもない。学会と共に、「真実一路」「誠実一路」に生き抜いた同志は、一人ももれなく、勝利と栄光の人生を、真っ赤な太陽に包まれながら、見事に飾っておられる。