355 「創立の月」と学会精神



わが使命は勝利! 大東京

自身の偉大なる歴史を綴れ!



 「革命とは、人類の覚醒である」とは、中国革命の父孫文の有名な言葉である。

 彼は言い切った。

 「人びとが、自分を救えるものは自分しかいないと自覚して立ち上がれば、大きな力が生まれる。

 この目覚めた人民の大きな力があれば、いかに巨大な抵抗勢力があっても、打ち破り、勝つことができる」と。

 十一月は、わが創価学会の「創立の月」である。

 昭和五年の十一月十八日、牧口初代会長、戸田第二代会長の師弟によって、わが創価の城は、東京で誕生したのであった。

 「創立の月」とは、新しい歴史を“創る月”である。

 正義の師子が猛然と“一人立つ月”でもある。

 単なる過去を回顧する節目ではない。「創立の月」は、古い年表のなかに眠っているものでは決してない。

 広宣流布とは、瞬時の停滞も許されぬ、絶えざる創造と、戦闘の前進の歩みである。

 「創立の月」は、常に「今この時」にある。今の瞬間、瞬間を勝ち取ってこそ、次の五十年、百年にわたって崩れぬ、常勝の学会が「創立」されていくからだ!

 この十一月に、自分自身の新しい歴史を塗り替えていくのだ! 古い殻を破り、生まれ変わる月だ! 限界の壁を叩き割り、雄々しく一人立ち上がる月なのだ!

 約百年前、今の「文化の日」である十一月三日に、牧口先生が東京・北区の王子・滝野川方面に足を運ばれていたことが、新たに確認された。

 北海道から東京に出られて数年、女性の通信教育に先駆的に尽力された牧口先生は、「観楓会」と銘打ち、受講生たちと共に有意義な文化の催しを行われたのであった。

 ともあれ、「創立の月」である十一月は、本陣・大東京を舞台に、黄金不滅の学会精神の歴史が、幾重にも刻まれている。

 特に昭和三十二年の十一月八日、我らが東京で開催した秋季総会を、私は忘れることはできない。

 当時、学会は破竹の勢いで発展を続け、戸田先生が生涯の願業とされた折伏七十五万世帯の達成も、もはや目前となっていた。

 会場は、明るい秋の日差しに包まれていたが、戸田先生の顔色は青く見えた。ひどくお疲れのご様子だった。

 この日の総会には、新聞や雑誌などの取材陣が殺到していた。既に学会は、社会から、偏見に満ちた視線に晒されていたのである。

 しかし、わが師は、いつものように、悠然として、会長講演に立った。

 先生は学会の大発展の理由について、あれこれ詮索した、軽薄なマスコミ報道を、一刀両断された。

 「学会には信心がある。御本尊の功徳から、みな出たものじゃないか。それに気がつかないのだ!」

 「ただ信心が中心! 信心をやるんです。それさえ腹に入れたら、誰が何と書こうと、何を言おうと、驚くことなどは絶対にないだろう!」

 まさに、百獣のわめき声のごとき批判を圧倒する、王者の獅子吼であられた。

 「嘘をこっぱみじんに打ち砕け!」と、文豪ロマン・ロランは書いた。

 世間からどう見られようが、恐れてはならない。踊らされてはならない。学会には厳然たる信心があるのだ!

 それは、ここ本陣の大東京から、全同志に叫び残された戸田先生の遺言であった。

 この日が、わが師が生前に出席された、最後の本部総会となったからである。

 戸田先生は、一日に幾度となく、私を呼ばれて、暇さえあれば、信心のこと、人生のこと、将来の構想のことなど、様々な展望を語り、遺言されていた。

 不二の弟子にとって、師と共に、広宣流布の未来を語るひと時は、最高無上の幸福であった。語っても語っても、尽きることがなかった。

 しかし、先生は、この昭和三十二年の秋ごろから、学会本部におられる時も、二階の会長室には行かずに、一階の応接室のソファで身を横たえていることが多くなった。

 私は、衰えゆく師の身体に苦悩しながら、ご健康を懸命に祈りながら、師弟の対話の時間を宝としていった。

 本部総会から、一週間後の十一月十五日のことである。私は応接室で、種々ご指導をいただいた。

 師の目が鋭く光った。

 「ひとたび広宣流布の戦を起こしたならば、断じて勝たねばならない。戦いを起こして負けるのは、男として最大の恥である」

 その一言は、今もって耳朶を離れない。

 戦いを起こした以上、負けるわけにはいかない。

 前進を阻もうとする、いかなる迫害も、謀略も、いっさい打ち破って、堂々と、勝ち進む以外にないのだ。

 昭和五十四年、あの卑劣な宗門問題の渦中に、私は会長を辞任した。しかし、役職を辞めても、広宣流布の使命が終わるはずはない。

 私は、わが師の遺言を思い起こしながら、「断じて勝ってみせる!」と、ただ一人、堅固に、胸深く誓っていた。

 いよいよ好機到来し、私が“反転攻勢”への跳躍台としたのは、やはり東京の天地であった。そして、その決起の月は、意義も深き「創立の月」であったのだ。

 昭和五十六年の十一月二日、創価大学の中央体育館には、わが立川と西多摩の同志が集っておられた。

 その二日前、創大生に対して、「歴史と人物を考察――迫害と人生」と題して講演した私の胸には、正義の闘魂が燃え盛っていた。

 嫉妬や讒言による迫害がなんだ! 卑劣な権力の迫害がなんだ!

 中国の大歴史家・司馬遷を見よ! インド独立の父ガンジーを見よ! フランスの文豪ユゴーを見よ! みな迫害、迫害、迫害だ。

 いわんや、仏法流布の正義ゆえの迫害である。これ以上の誉れがあろうか。

 私は決断した。

 この十一月、新しい太陽を断じて昇らせてみせると、わが心は炎の如く燃え上がるのであった。

 立川と西多摩の総会に駆けつけた私は、「仏法は勝負である」と指導したあと、扇を手に立ち上がった。

 同志の要望に応え、新出発の歌の指揮をとった。「鳴呼黎明は近づけり」(大阪高等学校全寮歌)である。

 ♪鳴呼 黎明は近づけり

  鳴呼 黎明は近づけり

  起てよ我が友

       自由の子……

        (作詞・沼間昌教)

 声高らかな歌が始まると、皆の胸の思いが一つにとけ合って、大会場に巨大な感情がうねり始めた。皆の顔(かんばせ)に決意がみなぎっていた。断固として戦う決意であった。

 私は嬉しかった。本当に嬉しかった。私が再び広宣流布の雄渾の指揮をとる日を待っていてくれたのだ。

 「尊敬によってつくられた友情が真実で完全で永続的である」とは、迫害の人生を生きた、イタリアの詩聖ダンテの確信であった。

 さあ、新しい黎明の時だ。ここ数年の暗闇を打ち破り、新しい学会を、今再び創立する時が来たのだ!

 私は、東京の大地を勢いよく蹴って、関西、そして四国へと飛んだ。

 さらに、再び関西へ、中部へと「創立の月」を走り、翌十二月には、猛然と九州へ転戦していったのである。

 日蓮大聖人が広宣流布の主戦場とされたのは、当時の日本の中心地・鎌倉であった。

 幕府の膝元である。今なら首都・東京に相当する。

 政権の中枢である鎌倉は、当時、決して安全地帯ではなかった。むしろ危険に満ちた場所でさえあった。讒言が飛び交い、陰謀が練られ、敵の監視の目も光っていた。

 しかし、それでも、いな、だからこそ、大聖人は、鎌倉を舞台として、宗教の正邪を決する言論戦を展開されたのである。

 ここにこそ、広宣流布の勝負の厳しき急所がある。

 わが学会も、最も激戦地に乗り込み、そこで勝ち抜くことだ。

 その時代の中心的天地で、厳然たる正義の陣営を構築し、勝負を決することだ。

 この事実の法則を、東京は決して忘れてはならない。

 東京が勝てば、それは皆の勝利だ! 私の勝利だ!

 ゆえに東京は断じて勝たねばならない。勝つことが東京の使命であり、宿命であり、責任なのだ。

 さあ、我らの本陣・大東京の友よ! 断固として戦い、勝ち抜け! 自身の偉大なる歴史を綴れ!


2003年(平成15年)11月4日(火)掲載