364 詩聖・杜甫の像に寄す

―― 我は歌う 我は叫ぶ 我は戦う! ――

―― 青年よ 正義の言論の剣をふるえ ――




 さっと真っ赤な布が下ろされると、会場からどよめきが起こった。
 姿を現したのは、「詩聖」と仰がれた、中国の大詩人・杜甫の像であった。
 十一月二十九日、八王子の創価大学本部棟で行われた、中国作家協会・中華文学基金会から私への、「理解・友誼国際文学賞」の授与式でのことである。
 私は驚いた。美事な「戦う詩人」の造形であった。
 彫りの深い顔。光を放つがごとき眼差し。結んだ口元にとがった顎ひげ。五体に渾身の力がみなぎっている。
 ブロンズ像の杜甫は、筆を握る右手を、あたかも宝剣で風を切り裂くような、すさまじい気迫でふるっていた。
 その筆先から飛び散る墨滴から、悠遠なる詩の宇宙が、不滅なる言論の闘争が広がっていく――まさに詩人の沸騰する詩魂が、鮮やかに刻印された傑作であった。
 制作者の王克慶氏は、長崎・平和公園の「乙女の像」の制作にも尽力された高名な彫塑家(ちょうそか)であられる。私は心から感謝を捧げたい。
 この「杜甫の像」は、神戸の関西国際文化センターで開催中の「池田大作詩歌書画撮影展」で、展示させていただいている。
 この展示会と、私への文学賞のことが、中国の国営ラジオ放送局のホームページで紹介されたと伺った。
 「このたびの展示会は、中日文化交流の一大盛事として永遠に歴史に残りゆくであろう」などの評価をいただき、恐縮している。
 授与式の謝辞でも言及したが、杜甫の像には、彼の有名な詩句が刻まれていた。
 「筆落つれば風雨驚き詩成れば鬼神泣く」
 これは、流罪の境遇にあった友人の詩仙・李白を讃え、励ました言葉であるが、杜甫の偉大な詩業も、また同様であったといってよい。

 青春時代、敗戦後の焦土を生きた私には、杜甫は親しい心の友であった。
 「国破れて山河在り
 城春にして草木深し……」
 有名な「春望」は遠い昔の情景ではなく、国破れた日本の現実として、熱く胸に染み通ったものである。
 師から私への個人授業であった「戸田大学」でも、よく漢詩を学んだ。
 「大作、何か暗唱してみなさい。杜甫がいいな」
 突然のお話に窮したこともあった。私は、かろうじて、若き杜甫が名高い「泰山」を仰いで作った詩の一節を朗詠した。
 「胸を盪(うご)かして曾雲(そううん)生ず……会(かなら)ず当に絶頂を凌(しの)ぎて一たび衆山の小なるを覧るべし」(泰山に雲が湧けば我が胸は動かされる……いつか必ずあの山頂を制覇し、周りの山々を足下に見渡そう)
 おのが天職たる「文章」を磨き、使命の高嶺を極めてみせるとの大望である。
 「青年らしい詩だな。青年はかくあれだ。夢は、うんと大きく持つことだ!」
 そう言われた先生の笑顔が忘れられない。

 杜甫は、唐代の玄宗皇帝の治世が始まった七一二年に生まれ、数えで五十九歳の波瀾の人生を送った。
 かの李白より十一歳年少である。直接、顔を合わせての交友は短かったが、生涯にわたる友情を結んでいる。
 さらに、王維、高適、岑参(しんじん)……いずれも『唐詩選』に多くの詩を残す詩人とも麗しい友情を重ねている。
 いかなる「友情」の歴史を残すか。そこに人間性の偉大さが光るのだ。
 彼の前半生に、唐の繁栄は頂点に達し、都の長安も国際都市としてにぎわった。
 杜甫自身、この地で十年余を暮らしている。
 私は初訪中の折、長安の歴史を伝える、陝西省省都西安を訪問した。貴重な遺跡を歩きつつ、絢爛たる文化の都を偲んだのであった。
 また、先年、西安の西北大学から名誉教授の称号を、西安市からは栄誉市民の称号を頂戴した。文化・教育交流で万代の日中友好の金の橋を架けゆく決心は、いよいよ深い。

 唐王朝は、爛熟(らんじゅく)の陰で、腐敗や矛盾が広がっていった。賢臣は消え、讒言で人を陥れる奸臣が台頭した。領土の拡張と維持のために、遠征軍が何度も派遣され、駆り出される民衆の悲嘆と怨嗟(えんさ)の声も高まっていた。
 杜甫が四十四歳の年(七五五年)には、安禄山の乱が起こる。皇帝は都落ちし、楊貴妃は殺され、王朝は激震に見舞われた。杜甫も、反乱軍に約八カ月も軟禁されている。
 以後、一時的な小康を除いて、社会は戦火と混乱が続くことになる。
 杜甫は凝視した。いな、激怒し、慟哭した。
 役人の横暴を、権力の中枢の腐敗を。あるいは出征兵士と家族の別離の涙を、働き手を失った村の困窮を……。
 おかしいではないか!
 為政者よ! この民衆の嘆きが聞こえないのか!
 おのれの気質を「悪を疾(にく)みては剛(つよ)き腸(はらわた)を懐きぬ」と歌った彼である。自ら幾度となく挫折や貧窮を味わいながら、民衆の目線から、正義の筆剣をふるっていった。
 杜甫は、ある詩で、一人の老兵士に、「何れの郷か楽土為る」(いずこに行けば、人間の楽土はあるのか)と言わせている。まさに、平和をこいねがう、民衆の叫びといってよい。
 「同苦」から発する魂の詩――ここに、彼の詩が時を超えて万人の胸を打つ、重大な理由があるといえよう。
 かつて、私は、北京大学で行った二度目の講演「平和への王道――私の一考察」で、杜甫の有名な詩「兵車行(へいしゃこう)」などを引いた。そして、中国の歴史に一貫して流れ通う「尚文」(文化を尚(たっと)ぶ意)の伝統を讃えたことが懐かしい。

 「文章は経国(けいこく)の大業にして不朽(ふきゅう)の盛事(せいじ)なり」とは、三国時代の魏の文帝(曹丕=そうひ)の言葉である。
 杜甫も「文章は千古の事」(文章は永遠不朽の事業)と言い切り、四季を詠み、山河を愛で、友情を讃え、生老病死を避け得ぬ、人生の実相を歌い続けた。
 ことに杜甫は、中国古来の「楽府」という詩歌に流れる、民の心を歌い、為政者に諫言する精神を、自己の変わらぬ信条としたといってよい。
 こうした正義の心を継承した詩人が、杜甫の死の二年後に生まれた白楽天白居易=はくきょい)であった。彼が「新楽府」という詩集を通して、腐敗した政治や社会を糾弾したことは、あまりにも有名である。
 この正義の炎の筆鋒(ひっぽう)を踏まえて、日蓮大聖人は御自身の「立正安国論」を、こう厳然と位置づけられた。
 「白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず」(御書九〇九ページ)と。
 ただ民衆の苦悩を見つめるだけではない。不幸の根源の悪を断ち切り、平和と幸福を築いていく大道を、明らかにされたのである。
 そして、二十一世紀の今、わが創価学会は、蓮祖大聖人の「立正安国」の精神を受け継ぎ、世のため、人のため、世界のために、正義の言論で戦っているのだ。

 ともあれ、詩は「志(し)」である。胸中に湧き上がる烈々たる志(こころざし)をもって、人間の心を動かし、社会を動かすのだ。
 それは、第一次の宗門事件の烈風が吹き荒れ、学会の悪戦苦闘が続いていた昭和五十四年十一月のことであった。
 その日、私は、神奈川で、深く信頼する若き闘魂の弟子たちと懇談した。
 席上、一人の青年が“師弟共戦”の誓いを述べ、皆で歌を歌いたいと言った。
 そして、二十人ほどの凛々しき青年たちが、音吐朗々と歌い上げてくれたのだ。
 「一献歌(いっこんか)」――西南戦争に参加した中津隊の若者たちを歌ったものである。

♪男の子じゃないか
      胸を張れ
 萬策つきて敗るとも
 天あり地あり師匠あり
 君 盃をあげ給え
 いざ我が伴(とも)よ 先ず一献

 青年たちは、長大な原詩から数聯(すうれん)を選び、一部、歌詞を変えて歌ったようだ。若き歌声は、厳粛に響いていった。
 その歌を聴くと、微笑む恩師の顔が、私の胸に迫った。
 「いい歌だ。もう一回」――結局、何度もアンコールした。
 正義の師弟ある限り、天地が無窮であるように、断じて行き詰まりはない。反転攻勢して、必ず勝ってみせる!
 私の心は、厳然と晴れやかであった。

 先月、百歳になられた中国作家協会主席の巴金先生は、かつてこう言われた。
 「私は一刻も自分のペンを休めない。ペンは私に火を点じて燃やし続けるだろう」
 私も生涯、戦い続ける。
 書いて、書いて、書きまくる! 詠んで、詠んで、詠み続ける!
 何があろうが、わが正義の戦場を離れない!
 この戦い続ける生命こそ、永遠の勝利者であるからだ。


2003年(平成15年)12月19日(金)掲載