東京・関東・東海道合同研修会〔4〕*完


◆◆◆ 青年よ 悠然と戦い 勝て!!
◆◆≪戸田先生≫
      外交戦が重要 堂々と正義を語り抜け
◆◆ 皆の力を引き出したところが発展
    ── 適材適所で! どんな人にも必ず長所が


【名誉会長のスピーチ】
 一、きょうも、戸田先生の指導を通して、少々、お話をしたい。
 皆さんのおかげで、創価学会は、未曾有の大発展を遂げている。
 だからこそ、油断できない。油断すると、悪い人間が必ず出てくる。これだけは絶対
に許してはならない。
 民衆の尊き労苦で築かれた、偉大なる希望と幸福の城を、断じて荒らさせてなるも
のか。
 人の善意につけこむ悪党 ── そこにひそむのは「権力の魔性」である。

◆戸田先生「極悪(ごくあく)を責めて責め抜け」
 一、戸田先生は、権力をもつ者には、それはそれは厳しかった。
 「極悪を世に知らしめて、責めて責めて責め抜け! 最後まで!
 これが、正法を行ずる者の使命であり役目である」
 忘れ得ぬ指導である。
 急所は全部、先生から教わった。
 「大作が聞いていれば、全部、実現されるだろう」。そう先生はわかっておられた。絶
対の弟子として信頼してくださった。
 これまでも、同志の真心を踏みにじる、卑劣な反逆の人間が出た。
 とんでもないことだ。
 民衆が主人なのだ。権力者は“僕(しもべ)”だ。なのに威張って、ふんぞり返ってい
る。今、民衆が覚醒しなかったら大変だ。
 極悪に対して、黙っていたら、こちらまで悪になってしまう。手厳しく、声をあげるの
だ。
 意気地なしであってはならない。
 ずるい人間であってはならない。
 今こそ、新しい学会をつくる時である(大拍手)。

◆きびきびと明朗闊達(めいとうかったつ)に
 一、新しい発想、新しい協議が大事である。
 戸田先生は「事態の推移とともに、新しい部門が生まれる。これは、きびきびして明
朗闊達、学会が生きている証拠だ」と言われていた。
 きびきびと手を打ち、悠然と戦い、勝つ。
 それが学会の伝統である。
 だらだらと、手をこまねいていて、勝てるわけがない。
 また、大事な会議で、準備がいいかげんだと、戸田先生から容赦なく叱られたもの
だ。
 すべて戦いである。勝つための会議である。
 一事が万事で、リーダーが後手になれば、結局、魔に食い破られる。戦わない人間
が上に立てば、皆が迷惑する。
 学会のため、広布のために、なすべきことは、断じてなすのだ。

◆隅々まで堅塁(けんるい)に
 一、戸田先生は、仕事や生活上のことも、よく指導された。
 「職業をよくよく大事にして、あらゆる思索を重ねて、成功するよう努力すべきであ
る」
 「自分の勤めに、楽しみと研究とを持ち、自分の持ち場をがっちりと守る覚悟の生活
が大事である」
 多くの人生経験をもった先生の言葉は、深い説得力があった。信心の大確信が輝
いていた。
 戸田先生は断言された。
 「仏法に一番忠実であることが、世法の上でも最も強い」
 広宣流布に忠実に生き抜く人が、人生でも、社会でも、間違いなく勝っていく。
 私が言うのではない。恩師の指導である。それにのっとるのが、一番正しい。
 一、創価学会の組織を隅々にいたるまで堅塁に ── これが戸田先生の決心であ
られた。
 「隅々まで」である。どこか一部ではない。
 さらに、戸田先生は、こう綴っておられる。
 「人の休んだり、遊んだりする時間を、自分は仏様の為に使ったら、これこそ末法
時(まっぽうちゃくじ)の修行じゃないか。ここに功徳あり」と。
 広宣流布のため、皆の幸せのために尽くして、功徳が出ないわけがない。

◆その人にあった活躍の舞台を
 一、一人一人を見て、どこで戦うべきか、どうしたら力を発揮できるかを考える。
 これもまた、戸田先生から学んだ将軍学である。
 先生は言われた。
 「どんな立派な人間でも、短所がある。
 また、どんな癖のある人間でも、長所がある。
 そこを活かしてあげれば、みな、人材として活躍できるのだ。
 人を見て、その人にあった働き場所を考えることがホシだ」
 一流の事業家でもあった先生は、「人材は金には替えられない」と、よく言われた。
 用事を託す場合でも、だれを行かせるかまで深く考慮し、細かく指示されていた。
 たとえば銀行ならば、男性に行かせるよりも、感じの良い女性に行かせたほうが、
銀行側の対応も早い場合がある ── こう教えておられた。実際、その通りであっ
た。
 また、折伏も、こわい顔をした男性が行けば、「けんかしにきたのか」(笑い)となるか
もしれない。
 しかし、品のいいお嬢さんが語れば、「学会は嫌いだが、あなたは素晴らしい」(笑
い)と一変する。そういう例が、いくつもある。
 これだけをとっても、女子部がどれだけ偉大かがわかる。
 何より日蓮大聖人が、女性の門下に数多くの御書を贈られている。女性を大事にさ
れた一つの証左とも拝せよう。
 一、私は19歳から、全てが戸田先生からの訓練の日々であった。10年間、朝から
晩までお仕えした。先生は、哲学をはじめ、あらゆる学問を打ち込んでくださった。こ
れが師弟である。
 先生が、「俺が死んでも、大作がいるから心配ない。学会は必ず大きくなる」と言わ
れたこともあった。
 先生の人を見る目は、鋭かった。
 「人を使うということは、非常に重大なことである。人というものは、使う場所を間違う
と、一軍の大敗をまねく」と言われた。
 「いかなる場合にも、人物を適材適所におくということが、非常に大切である。
 頭のズサンな者を要職にしたら、とんでもないことになる」
 そう警鐘を鳴らされた。
 多様な「人材」と「人材」を、どう的確に結びつけ、最大限の力を出させていくか。
 それは指導者の一念と、適材適所の配置いかんである ── 戸田先生が指導者
論として、常に厳しく教えられたことである。


◆◆≪戸田先生が青年に≫
    ── どんどん人と会うことだ
      ── 心をつかめ 味方を増やせ
   ── すべてが自分の財産に!

◆相手をよく知れ
 一、戸田先生は、「外交」を重視された。
 「学会の正義を、世間にどう認識させるかが勝負である。外交戦がますます重要に
なるぞ」
 そう言われ、自ら先頭を切って実践された。
 戸田先生が語り合った識者に、徳川夢声氏がいる。〈1894?1971年。放送芸能家。
映画やテレビでも活躍した〉
 話芸の達人と言われた夢声氏だが、対談に臨む姿勢は真摯(しんし)であった。
 戸田先生は言われた。
 「徳川夢声は、対談する場合、やはり相手の著作を読んで、相手を知ってから対談
するという」「人と会う場合、その事前に、相手の著書を読んで、その相手のもつ考え、
思想を知ってから会うようにすることが必要である」
 当然のことであるが、大事な基本である。
 先生は、こうも教えられた。
 「相手の地位よりも低い紹介者の名刺をもっていくのは、愚かだ」
 「人を訪問するときには、良い服を着て行け」
 緻密な先生であった。人の心をつかむ、名指導者であられた。

◆誰とでも、渡りあえる人になれ
 一、戸田先生は、だれと会っても、王者のごとく厳然としておられた。
 こう言われていた。
 「どんな人とも、真っ向から、わたりあえる人間になれ!」
 「どんな立場の人に会っても、学会の正義を堂々と語れ!」
 これをだれより実行しているのは、婦人部であろう(大拍手)。
 高い学歴のない一婦人が、大学の教員を見事に折伏した。戸田先生は「偉い、偉
い! 」と最大に讃えておられた。
 私は青年時代から、どんどん外に打って出て、対話を重ねてきた。日本や世界の指
導者とも、戸田先生の弟子として、誇りも高く語り合った。
 閉ざされた青年であってはならない。内外を問わずどんどん人と会い、人と対話せ
よ! 人の心をつかみ、味方をつくれ! すべてが自分自身の訓練となり、財産とな
る ── これが先生の青年への励ましであった。

◆皆が喜び勇んで「必ず勝ちます」
 一、戸田先生は訴えておられた。
 「創価学会は、どこまでも『師弟の心』を合致させて、永遠に『広宣流布の勝利』を成
し遂げていくのだ!」
 これまでも語ってきたが、昭和31年(1956年)の「大阪の戦い」で、私は師匠であ
る戸田先生の心をわが心として指揮を執り、「絶対に勝てない」といわれた戦いに勝
った。
 新聞が「“まさか”が実現」と報ずるほど、大阪中が驚くような勝利を収めた。〈7月に
行われた参議院・大阪地方区の選挙で、圧倒的に不利だった学会推薦の候補者が
当選を果たした〉
 また、大阪支部として1カ月に1万1111世帯の弘教という金字塔も打ち立てた。
 当時、私は28歳。社会的な地位などない青年である。お金もない。自分の車もなか
った。
 当時の関西本部もまた、古くて粗末な建物だった。人が建物の中を動くたびに、「ミ
シッ」「ミシッ」と音がして揺れ動く。活気にあふれた本部は、まるで軍艦のようであっ
た。
 この関西本部を拠点として、私は大阪の地を駆けめぐった。大変なところに飛び込
み、友を励まし続けた。皆、喜び勇んで、「私もやります! 」「必ず勝ちますよ! 」と
戦列に加わった。
 そして、不可能を可能とする大勝利の結果をもぎとったのである。
 皆が負けると思っていた大阪が勝った。しかし、勝てると考えていた東京が敗北を
喫した。そこには幹部の傲(おご)りがあり、油断があった。
 東京に戻った私に対して、戸田先生が「よくやったな。大阪が勝って助かったよ」と、
うれしそうな顔で言われたことが忘れられない。

◆不敗の原点
 一、その翌年の4月、大阪で参議院補欠選挙が行われることになり、私は急きょ、
再び大阪で指揮を執ることになった。
 十分な準備時間のない短期決戦であった。また、1議席を争う選挙であり、前年にも
増して厳しい戦いであった。
 私は、闘争に次ぐ闘争で疲れ切っていた。
 東京などから多くの幹部が応援に来たが、遊んでばかりで、真剣に戦おうとしない
人間もいた。
 また、あろうことか一部の人間が悪質な買収事件を起こしてしまった。結局、戦いは
敗北で終わった。痛恨の極みであった。
 そして、この事件をきっかけに、7月、私は公職選挙法違反の容疑で不当逮捕され
たのである。
 お前が容疑を認めなければ学会本部を手入れする。戸田を逮捕する ── そう言
って私は恫喝(どうかつ)された。
 体の衰弱しつつある戸田先生が入獄するようなことになれば、命にもかかわる。そ
れだけは絶対に避けねばならない。
 私は先生をお守りするために、いったんは検事の言葉に従い、あとは法廷闘争で無
実の罪を晴らそうと決めた。苦渋の決断であった。
 後に、裁判で私の無罪判決が下り、身の潔白は証明された。裁判長は公正であっ
た。厳然と真実を見抜いたのである。
 常勝不敗 ── これがリーダーの使命だ。戦いは、断じて負けてはならない。

◆弟子の闘争が師弟を永遠に
 一、「大阪の戦い」の前年、昭和30年(1955年)4月の統一地方選挙は、学会の支
援活動の初陣であった。
 この時、私は東京の大田区(都議選)と、横浜市鶴見区(市議選)の両方で、支援
の責任者として指揮を執った。
 結果は、どちらも最高点で当選した。
 戸田先生も、「大作はすごいな」と感嘆しておられた。
 「大作は、宝の中の宝だ。最高の誇りだ」 ── そう言って私を信頼し、大切にしてく
ださった。
 師匠のために戦う。それが弟子である。
 私は戸田先生が亡くなられた後も、先生の偉大さを世界に宣揚してきた。先生の名
を、全世界に知らしめてきた。
 弟子の闘争によってこそ、師匠の偉大さは後世に残されていくのだ。

◆信心の団結を!
 一、戸田先生は厳しく言われた。
 「信心の団結で三代の会長を守りながら、前進勝利していけ!」
 大切なのは信心の団結だ。「師弟の精神」を守り抜くことだ。
 忘れてはならない、永遠の指針である。
 また、ルネサンスの巨人レオナルド・ダ・ヴィンチは述べている。
 「城主は、彼の重臣や従者たちに用心するために、最大の注意と最高の配慮をしな
ければならぬ。なぜならば、彼らこそ彼を裏切るのにきわめて好都合なのだから」(久
保尋二著『宮廷人レオナルド・ダ・ヴィンチ平凡社
 「内部の者の方が、外にいる敵よりも危害を加えるのに有利な立場にいる」(同)
 これまでも、学会の幹部の中から、大恩ある同志を裏切り、反逆していった不知恩
の輩がいた。
 ロシアの文豪ドストエフスキーも「多くの場合味方こそ第一の敵になるものです」(小
沼文彦訳『ドストエフスキー全集 第17巻』筑摩書房)と綴っている。
 さらに、古代ローマの哲学者ボエティウスは、「どんな悪疫(あくえき=悪性の流行
病)が友人面をした敵より有害でしょうか」とまで述べているのである(渡辺義雄訳書
学の慰め」、『世界古典文学全集26』所収、筑摩書房)。
 広宣流布の和合僧団である学会を、絶対に破壊されてはならない。敵の本質を鋭く
見破っていくことだ。

◆将(しょう)の将たれ!
 一、戸田先生は、青年に限りない期待を寄せていた。
 心の老人になってはならない。みずみずしく、生き生きと語るのだ。
 実績もないのに、偉ぶってはだめだ。一兵卒として、一番大変なところで勝利をつか
むのだ。
 戸田先生は叫ばれた。
 「学会の青年のたくましさ、これを吹き込まなければ、今の青年層を本当に救うこと
はできない」
 隆々たる学会青年部の前進が、どれほど社会全体の希望となるか。
 どうか、正義の青年部は、がっちりと団結して進んでいただきたい。
 全員が、「広宣流布の将の将」である。舞台は世界だ。力ある真の弟子が、続々と
出てこなければならない。
 青年ならば、最激戦地へ飛び込み、あえて苦労を求めて、富士のごとき自分を、
堂々と鍛え上げていただきたい(大拍手)。

              (2006・8・18)