第5回 メキシコ国立自治大学 グアダラハラ大学
詩心は太陽!民衆の勝利の力
芸術と教育で精神の革命を 青年の未来を創るのが大学
十五世紀メキシコの大詩人ネサワルコヨトルは謳った。
「私は四〇〇の声を持つ鳥、センソントゥレの歌を愛す。
私はひすいの色も、花々の芳香も愛す。
しかし、私が一番愛するのは、私の兄弟、それは人間なのだ」
鳥には「歌声」がある。
宝玉には「色彩」がある。
花には「香り」がある。
そして、人には「詩心」がある。
それは、一九八一年の三月五日、午後五時半であった。
巨匠オロスコの大壁画が見つめる、グアダラハラ大学の講堂で、私は、「メキシコの詩心に思うこと」と題し、記念の講演を始めた。
ところが、極度の緊張のためか、通訳の声がかすれて出ない。
私が、とっさに自分の前に用意されていた水を差し出すと、彼はゴクリと一口。
壇上で見守るサンブラーノ総長の顔にも笑みが浮かび、三百人の聴衆で埋まった会場の雰囲気はぐっと和んだ。
講演のなかで、私は一つのエピソードに触れた。
――二十世紀初期のメキシコ革命の渦中、戦火を逃れ、国境を越えてくるメキシコ人を、武器等を隠し持っていないか、米国の監視人が厳重にチェックしていた。
そこに、大きなショールをまとった一人のメキシコ女性が渡ってきた。おなかのあたりが丸くふくらんでいる。
「こら、待て!」。税関吏がどなった。「ショールの下に何かくしてるんだ」
女性は、落ち着きはらって言った。「セニョール、私にも分かりませんわ。女の子かもしれないし、男の子かもしれませんわ」――
通訳が訳し終わると、会場は大爆笑。「よくぞ言った!」とばかりに手を打って喜ぶ学生や教員たちもいた。
危機一髪の状況さえ、笑い飛ばして進んでいく勇気。忍従の植民地時代も、血みどろの内乱や革命のなかでも、決して失われなかったメキシコの民の陽気さ――それを私は「詩心」と呼んだ。
詩心は芸術家だけのものではない。いかなる歴史や人生の変転があろうが、懸命に生き抜く、雑草の強さをもった民衆のなかに、太陽の詩心が輝いている。
詩心とは、絶望をはね返す希望の力である。人間を強くし、民衆と民衆を結びつける力である。そしてまた、平和創造の源泉でもある。
◇
一九八〇年代の世界は波乱の幕開けであった。
西アジアや南米などで紛争が起こり、暗い不安が渦巻いていた。
私がメキシコの空港に到着した時も、「世界各地で続く戦争状態をどう思うか」と、マイクを向けられた。
「私は仏法者です。仏法は平和主義です。戦争に対しては絶対反対である」
私はこう即答し、今回の訪問でも、「平和・文化・教育の交流」のために、断固と行動する決意を語った。
ぜひ来て下さい
実は、メキシコ中西部の大都市グアダラハラへの訪問は急遽、決まった。
一カ月ほど前、ロサンゼルスで私は、はるばる訪ねてこられたグアダラハラの草創の一婦人の真剣な声を聞いた。
「先生、ぜひグアダラハラに来てください!」
折しも、メキシコ大統領の側近から丁重な招聘状を頂戴しており、グアダラハラ大学など複数の大学から講演の要請も頂いていたが、日程は最終の調整の段階だった。
「よし、行こう、グアダラハラへ! 講演もさせていただこう。歴史を創ろうよ」
心に心が応え、心が心を動かす。そこに、新しい行動が生まれ、新しい歴史が創られる。そして、新しい人生の叙事詩が綴られる。
給油に降り立った空港で、わが尊き同志と、熱き心と心の劇的な出会いを果たしたこともある。メキシコには、そうした思い出が尽きない。
この時のグアダラハラ訪問からも、心の花咲く、新しき友情の詩が広がった。
講演を聴かれたメキシコ中部の名門グアナファト大学人文学研究センターのリオンダ所長は、創価の教育哲学に共感され、創大との教育交流の扉を開いてくださった。両大学を往来した学生は、現在まで、実に百八十人を超えている。
グアナファト大学の名誉博士に推挙してくださったのもこのリオンダ所長である。
当時のエルナンデス総長は、私の経歴を精査され、「名誉博士号ではなくして、最高名誉博士号を」と提起してくださった。
光栄にも、同大学の二百七十年の歴史で二人目となる最高名誉博士号を拝受したのは、一九九〇年である。
敬愛してやまぬメキシコの同志と、この栄誉を謹んで分かち合わせていただいた。
◇
グアダラハラ大学の講演に先立って、私は、首都メキシコ市にある創立四百三十年のメキシコ国立自治大学を訪れ、セラーノ総長と会見した(三月二日)。
緑のキャンパスでの学生たちとの懇談も、懐かしい。「何か困っていることは?」「今は勉学に全力を!」
一期一会の思いで励ました。懇談の輪の中に、わが創価大学の二人の女子留学生もいた。私は嬉しかった。
草創期の創大には、まだ今のような留学制度はなく、皆、血の滲むような猛勉強で国費留学などを勝ち取り、後輩の道を開いてくれたのだ。現在、創大の海外交流校は、百一大学へと広がった。尊き開拓の卒業生の奮闘を私は忘れたことはない。
◇
「苦難に立ち向かう、メキシコの民衆の心に、私はメキシコの希望を見出します」
かつて、こう叫んだのは、国立自治大学の総長で、近代教育の父と仰がれるバスコンセロスである。
彼は一九二一年に二度目の文部大臣に就任すると、全国に学校を建設した。農村の識字率の向上に努め、都市部では知識の普及のために出版活動を促進する。
さらに、伝統の壁画が持つ教育的意義に着目し、高校や大学、劇場など公共施設を壁画運動のために開放。先進的なメキシコ革命の理念を、広く社会に宣揚していったのである。
苦しんだ人こそ
壁画作家の中には、最も虐げられてきた先住民の文明に光を当て、その栄光と苦難の歴史を、詩心豊かに描く者が現れた。
それは、長く抑圧されてきたメキシコ独自の文化の開花であり、メキシコ人にとって、自らの誇りを取り戻す「心の革命」に連動していった。
最も苦しんだ人たちが最も幸福になる社会を!――すべての生命の尊厳と平等の思想を根底とした「創価教育の使命」とも相通ずる。
大学のキャンパスで、画家も学生も市民も、喜び勇んで壁画の共同作業に参加した。
私は、国立自治大学でも、グアダラハラ大学でも、その結晶である大壁画を拝見した。
「革命の教育」と「革命の芸術」を担った大学は、閉ざされた権威の塔ではなく、民衆の誇りを目覚めさせる鏡となった。
バスコンセロスは、メキシコ人こそ諸民族の優れた資質を備えた「地球民族(ラサ・コスミカ)」だと宣言した。次元は異なるが、恩師・戸田先生が提唱された「地球民族主義」の指標が思い出される。
◇
国立自治大学を訪れた日の夕暮れ時、私は妻とともに首都の街を歩いた。
つばの広いソンブレロをかぶった楽団が「シェリト・リンド」の曲を奏でていた。
広々とした目抜き通りに出た時、左手に天使像を抱いた独立記念塔が見えた。
「ここだったね」と私。
「そうでしたね」と妻。
戸田先生は、ご逝去直前のある朝、私に言われた。
「大作、メキシコに行った夢を見たよ。みな待っていてくれた」――その時、先生が詳しく語っておられたメキシコ市の光景が、まさに眼前に広がっていたのだ。
先生が、ここに連れてきてくださったと思った。
◇
奇しくも、この一九八一年、世界芸術文化アカデミーは、私に「桂冠詩人」の称号を贈ってくださった。
戦う詩人の宝冠を戴いて、九州の天地で「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」を詠み、若人に捧げたのは、その師走のことであった。
以来、二十五年になる。
メキシコの前途に大きな大きな期待を寄せていた、あのビクトル・ユゴーは叫んだ。
「侮辱されようと、あるいは賞讃を受けようとも、/彼の振る松明のように/未来を輝やかすべき人、それが詩人だ」
詩人は、いまだ見ぬ未来を青年の中に見る。青年の成長の先に、必ず民衆の勝利の朝が来ることを信ずる。
大学もまた、青年たちに、新世紀を羽ばたく希望の翼を見つめつつ、人類の輝く未来を創り出していくのだ。
二〇〇四年。遠路、パディージャ総長一行が来日され、懐かしきグアダラハラ大学の名誉博士号を拝受した。
「高等教育は、新しい価値観を育み、全体人間を、そして、地域社会に貢献する人を育成するためにある」
「威張る人間をつくるのは大学の敗北である。大学は大学に行けなかった人に尽くす指導者を育てるためにある」
――総長と私が、深く熱く共鳴し合った一点である。