第6回 グラスゴー大学


見よ 戦う知性の王者の風格
「現場の人」を尊ぶ伝統 大事なのは「何をなしたか」だ


 
 滝の如く 激しく
 滝の如く 撓まず
 滝の如く 恐れず
 滝の如く 朗らかに
 滝の如く 堂々と
 男は 王者の風格を持て
  
 ――グラスゴー大学のビュート・ホールの壮麗な天井に、マンロー博士の声が凛乎と響き渡った。名誉博士への推挙の辞を、私の詩で結んでくださったのだ。
 ガウンをまとった教授陣。来賓の紳士淑女方。さらに、ステンドグラスに描かれた国民詩人バーンズや、プラトンニュートンなど、知の巨人たちも盛儀を見守っている。
 グラスゴー大学は一四五一年開学。「産業革命の電源」の誇りも高き、スコットランドの名門中の名門である。
 授与式は一九九四年の六月十五日。十三年前の情景は、一幅の名画のように蘇る。
 荘厳であった。
 尊貴であった。
 厳粛であった。
 「ジョウセイ・トダ」
 大学評議会の議長であるマンロー博士は、推挙の辞で、わが恩師の名を、幾度も幾度も呼んでくださった。
 「池田氏の人生の方向を決定づけたのは、一九四七年、戸田城聖氏と出会い、氏の弟子になられたことであります」
 戸田大学の卒業生として、これほどの喜びはなかった。
 ――この師弟の出会いから今年で六十年になる。
 激しく、撓まず、恐れず、戦い続けた六十年だった。
 師から教えられた通り、「悪口罵詈」「猶多怨嫉」の難の連続であった。
 しかし、真実の同志と共に、朗らかに堂々と、私は前に進み続けた。
 戸田先生という大師匠に巡りあえた一点で、わが人生は勝利と決していたからだ。
 
 近代を開いた学府
 授与式の際、私が案内いただいた席は、黒大理石の「ブラックストーン・チェア」。名誉博士の受章者は、それぞれの推挙の辞の間、この椅子で待つのである。
 十九世紀まで、学生はこの大理石に座り、学位の口頭試問を受けた。あの“経済学の父”アダム・スミスも、その一人であったにちがいない。
 私たち十人の受章者を先導した人は、金と銀でできた杖(職杖)を持っている。十五世紀から伝わるものという。式典を彩る一つ一つに、創立五百五十年という歳月の重みがあった。
 この伝統が「人」を育てた。
 マンロー博士は、「大学の価値は建物や施設で決まるのではありません」「誇るべき歴史とは、結局、大学の教員や学生が『どういうことをしたか』という実績です」と、私に断言された。
 そう、グラスゴー大学の誇りは、何よりも綺羅星の如き人材群である。卒業生たちが世界を動かし、歴史を変えてきた事実にあった。
 『国富論』のスミス。
 “近代化学の父”ブラック。
 “熱力学研究の開拓者”ケルビン卿。
 “近代土木工学の父”ランキン。
 ノーベル賞受賞者も、一九○四年の化学賞のラムゼイなど、二十人を超えるという。
 ――それは、十八世紀の半ば。ロンドンで腕を磨いた、器具づくりの若き職人がグラスゴーの街にやって来た。
 だが、当時はギルド(同業者組合)が商売の権利を独占し、青年は店を開けなかった。その時、「大学構内にギルドの支配は及ばぬ」と仕事を与え、苦境の青年を護ったのが、グラスゴー大学であった。
 青年は、教授陣との交流のなかで熱力学の知識を深め、ある日、キャンパスの芝生を散策しながら、新しい着想を得る。それが、やがて「蒸気機関」の開発に結実するのだ。
 この青年こそ、人類史に輝く発明家ジェームズ・ワットである。
 こうしたグラスゴーの進取の精神を源泉として、産業革命の波が澎湃と起こり、「近代」の夜明けが始まったのだ。
 グラスゴー大学は、「成人教育」や「女性教育」の先駆けとしても名高い。
 ともあれ、いかなる権威や風評にも、決して左右されず、自分の目で見て、判断する。「よいものはよい」とチャンスを与える。正しい人が不当に圧迫されているならば、断固と擁護し、宣揚せずにはおかない。これが、グラスゴーの「戦う知性」の気風であり、気概である。
 マンロー博士は、創価学会への嫉妬の中傷の本質も鋭く喝破されていた。そして「名誉学位は、その人が『何をなしたか』によって贈るものです」と微笑まれるのであった。
     ◇
 推挙の辞は、さらに続いた。
 「毎年、私どもは創価大学から若々しく、友情にあふれた学生たちを迎えています。
 池田大作氏は、これらの交流活動を全面的に激励・支援され、グラスゴーからの来学者たちを個人的に温かく迎えておられます。その端的な産物は、創大のH・サザーランド実験室と、W・フレイザー図書館であります」
 創大では、工学部の開設に際し、フレイザー学長とサザーランド工学部長のお名前を施設に冠した。「世界で初の工学部を開いたグラスゴー大学」への敬意からであった。グラスゴー大学の学恩を、日本は断じて忘れてはならないとの感謝からであった。
 日本の文明開化を導いた外国人技術者のなかには、多くのグラスゴー出身者がいた。
 明治から大正の初め、六十人もの日本人学生を受け入れてもくれた。現在、創大生を温かく迎えてくださるのと同じように――。
 明治初期、東京大学工学部の前身に当たる工部大学校の初代校長に就いたのも、グラスゴー出身のダイアー先生であった。幾多の技術とともに、不滅の宝を日本にもたらしてくれた。それこそ、「エンジニアの思想」である。
 彼は、理論の研鑚と並行して、各地の工場や土木現場で働くことを学生に課した。
 彼自身、工場で働きながら夜間学校に通い、学位をとった努力の人であった。
 「エンジニアの思想」――それは、「現場の人」を尊ぶ思想であり、「戦った人」を讃える精神といってよい。
 身分がなんだ! 地位がなんだ! 手を真っ黒にして働く人が一番偉いのだ! この精神の炎を、日本の青年の心に点したのである。
 国であれ、団体であれ、この心が生きているところは、明るく、風通しがよく、洋々たる未来が開けている。
 
 勝利の春よ来い
 「スコットランドの特色は教育重視なのです」
 創大にお迎えした時、フレイザー学長は言われていた。確かにスコットランドの教育の伝統は際立っている。
 他の大学が、国教徒、貴族や富裕層の子弟に限られていた時代に、スコットランドの大学は、貧富・宗教を問わず、学びの門を開放。現実生活に役立つ実用的な学問を、どんどん取り入れた。
 学ぶ意欲があれば、誰でも高い教育が受けられる。実力次第で、誰でも勝ち上がっていける。これが、北国の人びとの誇りだった。
 厳しい自然。苦難の歴史。そのなかで、スコットランドは「教育」で立ち、「教育」で勝ったのである。
 思えば、私がグラスゴーに着いた日は、この季節には珍しい大晴天の青空であった。光り輝くローモンド湖の畔で出迎えてくださったスコットランドの友の笑顔が、晴れやかに語っていた。
 「試練の冬を越えてこそ、勝利の春が来るのだ」と。
 マンロー博士が朗読してくださった「滝」の詩も、一九七一年、私が北国・青森県奥入瀬渓流に寄せて詠んだものである。
 グラスゴー大学の式典の二カ月後、私は久方ぶりに青森を訪れ、わが不屈の東北の友たちに感謝を込めて、授与式の模様をお伝えした。
     ◇
 「総長。ここにおいて私は、池田大作氏に、名誉博士号を授与されるよう要請いたします!」――マンロー博士の推挙の辞が終わった。
 私は、戸田城聖先生の直弟子の誉れを胸に、ケアンクロス総長の前へ進み出た。
 おごそかなラテン語で、「本学の名誉博士号を授与する」と総長。儀官に「名誉博士」を表すフードをかけていただく。
 そして万雷の拍手――。
 パイプオルガンが響くなかをゆっくりと退場する。
 記念撮影の後、バグパイプ奏者の先導で、緑の芝生の中庭を一周した。受章者を広く公にする儀式であった。
 「四日間の滞在で四季が味わえました」と妻が語っていたように、変化に富む天候で、この日、戸外は冬のように肌寒かった。
 吹く風に、私は不撓不屈のスコッチ精神を想起した。
 と、その時であった。
 同行していたイギリスのコーストン理事長が、自らのコートを、そっと私の肩にかけてくださった。
 コーストン理事長の母君は、ここグラスゴーの出身である。理事長は会心の笑顔で、この式典を「人生最良の喜びの日」と語られていた。
 偉大な師匠と、そして偉大な同志に、栄光の宝冠を捧げることができる――。
 滝の如く、命を滾らせて戦い続けてきた、わが六十年の精神闘争の誇りが、ここにある。