第14回 正義の神奈川
――「私の舞台は、海の向こうだ」
「正義」と大書した思いを胸に、世界へ。会員の中へ。会長勇退後、横浜は、再び船が出航していく母港となった。
▼四半世紀を経て公にされた「正義」の書。
◇時が来たら出す
「用意できているね。じゃあ、見せて」
スピーチの途中で、池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長が、ぱっと流れを変えた。
創価文化会館(東京・信濃町)の前方で、数人の青年が立ち上がる。慎重な手つきで、一本の巻軸を広げはじめた。
学会の各部代表者会議。参加者が何事かと凝視する。するすると軸がほどかれていく。大きさは畳一畳ほどもあろうか。
「私が神奈川で書きました。きょう、はじめて皆さんにお見せします」
ひときわ高く掲げられた。
「正義」
静まっていた場内に、感嘆の声が上がる。
これか! これが、あの揮毫か!
第三代の会長を勇退した直後の一九七九年(昭和五十四年)五月五日、神奈川文化会館で筆を執ったと聞く……。
「正義」と大書したのち、そばにいた者に厳命している。
「書いたことは、まだ言ってはならない。時が来たら出す」
珍しいケースである。池田会長の書は、趣味や鑑賞のためなどではない。会員を励まし、希望を贈るために書く。その場で、どんどん披露もしていく。
しかし「正義」の書は例外だった。
通常の揮毫とは明らかに異なる意図が込められていた。
――創価文化会館で、池田会長が自ら「正義」の書を公にしたのは、それから四半世紀が過ぎた二〇〇四年十月二十八日だった。
◇汗まみれのシャツ
階段ホールに張り詰めた声が響いた。
「次は何階!」
「五階です」
モーニング姿の池田会長が、階段を駆け上がっていく。
一九八二年(昭和五十七年)元旦。新年を、神奈川からスタートした。
「勝負の年だ。発展するか、停滞するか。その境目だ。勝負を新年勤行会にかける」
会長出席の新年勤行会。会員が押し寄せてきた。神奈川文化会館の向かいにある山下公園まで列がとぎれない。
「全員、入れてあげられないか」
勤行会を五会場で開いた。八階。七階。五階。三階。地下二階。会館中の仏間、広間を開放し、それぞれ四回の入れ替え制。行事運営の常識を超えた規模だった。
どこも満員に膨れあがっている。会長は全会場に出席した。
「はい、次!」。額に汗が光る。エレベーターが来ない。 待ちきれず階段を駆け上がる。この文化会館の階段は、一階分が長い。
モーニングを脱ぐとワイシャツが、ぐっしょり濡れていた。着替えても、すぐ汗が噴き出す。予備のシャツも切れた。しかたない。ドライヤーで乾かしながら、次の会場へ走った。
一万七千五百人が訪れた。会長勇退後の会員の思いが、堰を切ったような光景だった。
ある会場の隅に一組の父子がいた。父親は「二度とないチャンスだから」と妻に背中を押されてきた。人込みにはぐれぬよう、幼い息子の手を握りしめた。
ウワーッ。大歓声が沸いた。
父親は息子を肩車して背伸びした。「どうだ、見えるか」。
遠くにモーニング姿。「いいか、あれが池田先生だ。よく見ておくんだよ」
◇神奈川での陣頭指揮
一九七九年、八○年、八一年。勇退後の三年間で、池田会長は神奈川文化会館を四十五回、訪問した。滞在日数は百九日間に及んだ。
*
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……。張りのある題目が聞こえる。七階「同志の間」からもれてくる。こんな遅い時間に誰が……。幹部が後方の戸を開けた。
明かりを落とした広い仏間。たった一人で端座している。
池田先生!
驚いた。いつもと様子が違う。よほど体調が思わしくないのだろう。顔は熱で火照っている。
学会を取り巻く状況は四面楚歌だった。唱題の声は深夜まで消えなかった。
*
神奈川文化会館の管理者は松澤猛だった。会長は到着すると、真っ先に管理者室まで来てくれた。
「懐かしいね。また、お世話になります」
深々と頭を下げられ、恐縮した。
「管理人をしていると、誰が本当に物を大切にしているか、誰が会館と会員を守っているのかが分かります」
これほど目の行き届く人はいなかった。ボイラー設備、電気系統、資材倉庫にまで気を配る。
別の会館で、こんな一幕があった。春の午後、会長が来客を迎えるため、玄関ロビーに立った。誰も気づかなかったが、軒先に小さな電灯が点いていた。
「この明かりは、いらないな。もったいないよ」と一言。同様のエピソードは数限りない。
松澤は、管理人ひと筋の人生である。最初の職場は鶴見会館。当時の池田総務が面接で教えてくれた。
「管理人は大変だよ。御本尊を守り、学会の出城を守る。同志からは時にうらやましがられるだろう。でも甘くはないよ。夜、蛍は美しい輝きで人を惹きつける。でも身体の中は必死なんだ。管理人も同じだ。しっかり頼むよ」
*
執務室に閉じこもらない。時間が空くとサッと部屋を出る。館内を上から下まで隈なく歩く。
ロビー、応接室、事務室、会議室、礼拝室--。
足早である。
スタスタ、ピタッ。
スタスタ、ピタッ。
こんなリズムで部屋から部屋へ移る。
打ち合わせも臨機応変。執務スペースも日によって変える。
突然、管理者室のドアを叩く。出てきた松澤に「悪いね」。居合わせた幹部と、そこで即席の会議を始める。
一九五六年(昭和三十一年)の「大阪の戦い」に似ている。
「関西本部の隅々まで池田先生の目が行き届き、どこにでも先生が指揮を執っておられるようだった」(当時の幹部)。
*
地下の厨房。自ら料理の腕をふるうこともあった。シェフさながらの足取りで、調理器具や設備を点検していく。
「これは火事になるから危ない」「ここが滑りやすい」。 細心の指示が飛ぶ。
事務室。デスクに古い書類の山を見つけると、たちどころにバサバサッと机の上を片付けた。「火事の元だよ」。
たまった灰皿。避難ルートの障害物。階段に積みつぱなしの段ボール。不要な書類の束。会館の安全を妨げたり、仕事の停滞を意味するものには容赦ない。
*
壁に飾ってある額。傾いている。
「そこにいる人の心が曲がっている証拠だ」
掛け時計。遅れていた。
「時計が狂っていると、リーダーは本当の指揮が執れない」
「大事は必ず小事の乱れから始まる」が信条。正確、誠実な仕事の奨励が、結果的に会員を守る。
ロビーに飾ってある絵画。いつもと代わり映えしない。
「創価は価値創造だ」。いつまでも同じものが飾ってあるのは、後退である。
かといって、すぐに絵を買い換えるのは贅沢である。後日、会長が撮影した写真を大きく伸ばした額が届けられた。
それにしても、と思う。なぜ新しい出発の地が「神奈川」だったのか。
▼青春時代から、神奈川で人を育てた。
◇海の向こうを見ている
「聖火鶴見に炎上」――。
聖教新聞の創刊号(一九五一年四月二十日付)を飾った名文句である。
鶴見は、京浜工業地帯で、戦後の日本経済をリードした。若き池田会長も頻繁に通った。
戦後、最初に神奈川を訪れたのも鶴見の座談会だった。
一九四九年(昭和二十四年)十月。人が集まると、床が抜けるような家だった。
「家の中より外のほうがきれいだったなあ。でも五人折伏したんだ」
神奈川文化会館初来館(一九七九年)の折に振り返った。
「御書講義、折伏、座談会。ずいぶん神奈川の広布のために、見えないところで尽くしてきた」
横浜、川崎、相模原、横須賀、茅ケ崎、逗子、箱根……。青春時代から、神奈川の随所を回った。人も育てた。気心が知れている。
会長勇退後の拠点となった神奈川は、若き日から手塩にかけた地だった。
海を望む地形でもある。静岡から移動の途中、車が海沿いの県道に入った。景勝の地・真鶴。
「ちょっと降りようか」
随行記者に声を掛け、潮の匂いに惹かれるように歩き出した。
歩を止め、しばらく海を見つめた。
「私は、海の向こうを見ている。広宣流布の舞台は世界だ。神奈川に来ると、いつも思う」
岬。半島。港町。太平洋に面した神奈川には個生的な地域や街が多い。
その随所に、池田会長との知られざるドラマが刻まれてきた。
◇“カバゴン”の驚き
「最近、川崎では変わったことが起きているらしいよ」
「なんだって?」
「なんでも、親の意識を変えてしまうそうだ」
「ふうん」
川崎市の小学校教諭・阿部進は、知人の何気ない一言に興味を覚えた。
一九五二年(昭和二十七年)のことである。
後に教育評論家になり「カバゴン」の愛称で親しまれる阿部も、まだキャリアは浅い。教育における親の役割の大切さを重々、感じていた。
聞けば、ある宗教団体が話題になっているらしい。
「創価学会か……」
*
五二年十二月。川崎市木月での座談会。
師走の寒空と対照的に、伊牟田ツヤの家の仏間には熱気が立ち込めていた。
隣の四畳半の小部屋。暗闇の中で阿部は息をひそめていた。
伊牟田の末娘は阿部の教え子。学級委員長をしている。学校の帰路、家庭訪問がてら立ち寄ることもあった。
学会員の一家であることも知る。確かに、しっかりした親だ。決して家は豊かではないが、世話好きで活気がある。
この日、伊牟田の家に地域の会員が集まってくるという。親の意識を変える学会――。ちょっとのぞいてみたい気がした。
「隣で聞かせてもらえますか」。
邪魔してはいけないので、電気も消した。襖(ふすま)越しに大きな拍手が鳴り響く。薄い戸にへばりつくようにして、耳をそばだてた。
質問会だった。次々と声が上がる。
「仏と神は違うんでしょうか?」
「念仏と題目の違いは?」
やけに高尚な質問である。立派な学者でも集まっているのか。そんなはずはない。ちらりとのぞいた玄関は、ちびた下駄、はきつぶした古靴で埋まっていた。
襖の細いすき間から目を凝らす。
やはり、そうだ。貧しい身なりの婦人や青年ばかりだが、目に食い入るような光がある。
それだけではない。疑問の一つ一つに、見事に回答していく人がいる。しかも青年である。
襖から目を離し、まぶたを閉じて、その凛々とした声に集中した。宗教の話だが神秘的ではない。むしろ現実的な生活感にあふれている。
物静かな口調である。うん、うんと、よく相手の話を聞いている。平易な言葉で、ズバッと真理を突いている。
「話し手」と「聞き手」が一体となって、場の空気が高揚していくのが分かる。話すということが、これほど教育の武器になるのか。
すごい青年だなあ。これなら一人一人の意識が変わっていくのも間違いない。
阿部は、今にも襖をあけて飛び出したい衝動に駆られた。
その青年。若き池田会長であったことを、後に知る。
*
当時、池田会長は蒲田支部幹事。前年(五一年)、待望の戸田城聖第二代会長が誕生している。
だが、いまだ戸田会長の事業は負債を抱えていた。
意気揚々と学会員は折伏に励んでいるが、水面下でたった一人、踏ん張っていたのは池田支部幹事だった。仕事と活動の両面で、幾度となく川崎を訪れている。
伊牟田宅には、東横線の元住吉駅で降りて通った。電車賃を切り詰め、大田・小林町の自宅から多摩川下流のガス橋を歩いて川崎へ渡ったことも多い。
冬の深夜の帰路。ガス橋の上を吹く冷たい風が身体を切った。薄手のコートの襟を立てて駆け出した。
大田の対岸にある川崎。ともに川があり、海があり、工場街がある。
潮の香がまじる風。幹線道路を走るトラック。引き込み線と操車場。川崎は故郷の大田とよく似ていた。多摩川の河口に堆積した地であり、双子のような町に思えた。
後に川崎は、首都圏の学会にあって「心臓部」と位置づけられる。
その淵源は、青春時代、会長自ら多摩川の橋を渡り、川崎に新鮮な“信仰の血潮”を送り続けたことにあった。
◇会員を雨に濡らすな
横須賀基地に近い市民会館に、逗子の松本康男とフキがやって来たのは、一九五五年(昭和三十年)四月七日である。
横須賀地域での会合。東京から来た幹部を見て大きく目を見開いた。池田青年室長だ。
三浦半島の一粒種である松本の家に、以前から、よく来てくれた。帰り際のあいさつは決まっていた。
「それじゃ、戸田先生が待っておられるので」
師への畏敬の念が感じられた。
会合は盛況に終わった。
松本が外に出ると、小雨がぱらついている。「春雨じゃ、駅まで濡れて帰ろう」。すっかり上気した顔には、小雨すら心地よい。
歩き出して数分後、幹部の宮崎正義と初恵が小走りに追いかけてきた。血相を変え、手に傘を持っている。
「松本さん、待ってください。今、池田室長に叱られちゃって」
「えっ?」
「わざわざ逗子から来てくれた方を、雨のなか歩いて帰らせるなんてとんでもない。すぐに行ってきなさい、と」
後日。当夜の室長の具合を知り、あっと叫ぶ。
「国際色豊かな、横須賀の街を、初めて見る」「一日中、身体の具合悪し、注射を打って貰う」(日記から)病身の我が身をさしおいて、雨に濡れた自分を気遣うとは……。
徹底して一人に尽くす。身をもって教えた。
戦前からの軍港・横須賀は、ひと筋縄ではいかない土地柄である。人気が荒い。地元の人。他地域からの転入者。基地関係者。一人一人を大切にしなければ、空中分解してしまう。
「横須賀ができあがれば、神奈川広布は完成する」。地元の幹部に語っている。
*
「横須賀は呉(広島)に似ている。呉は好きなんだよ」
戦艦「三笠」が保存されている三笠公園にも青年と足を運んだ。日露戦争で、東郷平八郎が率いた連合艦隊の旗艦である。
「十歳のころから三笠を見たかった。元帥(東郷)に会ってきたよ」
昭和三年生まれ。親の世代から聞かされた日本海海戦。恩師の戸田会長も、将軍学の一端として語ってくれた。
「ロシアのパルチック艦隊は迂回したから到着が遅れた。その遅れを取り戻すため、一列で日本に向かってきて負けた」
「動きが鈍く、スキを突かれた。戦いはスピードだ。先手必勝。先に手を打った方が勝つ」
いつでも、どこでも、恩師を思う。
◇基地の街・ヨコスカ
極彩色のネオンに灯がともり、路地を照らす。バーのマスターがグラスを磨く。「今日は船の入港日。米兵が押し寄せてくるぞ」。
くわえタバコにサングラスの水兵が、ベース(基地)の営門から足早に出てくる。
昭和二十年代、横須賀随一の繁華街・ドブ板通り。マスターが声を嗄らして客を引く。
「ヘイ! ワンショット、ワンダラー!(一杯一ドルでどうだい)」
基地の街である。
戦前は日本海軍、戦後はアメリカ海軍の一大拠点。一時は横浜をしのぐ活気を呈した。
繁栄の光の陰に闇もある。景気のいい港には、手っ取り早く金になる仕事も転がっていた。流れ者も多い。
家族。郷里。同窓生。生まれ育った共同体から、ぷつんと糸の切れた人に、学会は手を差し伸べた。人生の底辺から立ち上がった体験は数知れない。
▼“戦争花嫁”の一番の味方だった池田会長。
巨大な鉄のかたまりが、轟音をたてて海を割った。
航空母艦キティホーク。全長三百二十三メートル、八万六千トン。横須賀基地を事実上の母港とする米第七艦隊の巨大空母である。揚陸指揮艦ブルーリッジを従え、太平洋へ出港した。
五千人の米兵を乗せる艦内。映画館、郵便局、病院なども完備され、まるで一つの街である。
船室の一隅からリズミカルな唱題が聞こえてくる。軍当局が認めた宗派だけが利用できる礼拝室。
ドアには「18:00 SGI」の札。横須賀のポート(港)支部のメンバーが御本尊を安置し、唱題する声だった。
*
「いやいや、平坦な道じゃなかったよ」
ポート支部の初代支部長・ハロルド・グラントは、巨体をゆすりながら、流暢な日本語で笑った。
基地で働く軍人、退役軍人、その家族などで構成される同支部。
空母キティホークで、自由に唱題できるほど信頼を得るまでは、長い道のりがあった。
グラントは一九五六年(昭和三十一年)、横須賀基地に赴任中、自ら入会。その後、シカゴ、サンディエゴと基地を転々とした。
一九六〇年十月、妻がエキサイトしている。「日本から池田会長が来るのよ!」。
いったい、どんな人物か。会長がいるロサンゼルスまで駆けつけて衝撃を受けた。
若い。神秘的な宗教者ではない。縦型の組織に君臨する軍人タイプでもない。しいて言えば“横型”で、だれをも平等に重んじる民主的なリーダーに思えた。
参加者には、いわゆる“戦争花嫁”が多い。自由の国、豊かな国アメリカに夢を求めたはずの彼女たちが、会長の前で鳴咽をこらえている。
異郷で暮らすものだけが知る心の傷。会長は、彼女たちの一番の味方だった。
初めての海外訪問にアメリカを選んだ理由も「戦争花嫁でアメリカに渡って、苦労している会員が多かったから」と語ったほどである。
「どうか良きアメリカ市民として、社会で信頼される人生を送っていただきたい」
六三年、日本の横須賀基地に戻ったグラントは、一から組織を作りあげた。
◇お前は共産主義者か?
座談会の後で、グラントは軍の当局者から詰問された。
「アー、ユー、コミュニスト?」
一九六〇年代、アメリカは反戦運動に揺れていた。内容、目的のいかんを問わず、基地内で集会を開けば共産主義者と疑われた。当局の警戒リストに載ってしまった。
何を言うか。良きアメリカ市民として生きようとしている。選挙など政治がらみの話題は一切しない。信仰の自由こそ民主主義の根本ではないか。
当局を納得させるには時間がかかった。
聖教新聞も疑われた。政治的な新聞ではない。希望を持って生きるためのニュースペーパーであることを力説した。
基地コミュニティーの慣習にも気を遣った。家族サービスを重んじる週末は会合を避けた。上官は直属の部下を折伏しない。半強制的に入会させたと疑われる可能性があるからだ。
グラントたちの目に見えぬ努力が徐々に実る。
軍は警戒リストからポート支部を外した。一時的に、聖教新聞の販売店主も基地内に入れるようになった。
今や近隣の家族が気さくに座談会に参加する。人間関係に悩んで入会する軍人もいる。聖教新聞の代配に走る海兵もいる。
海軍勤務に定住はない。数カ月単位でアメリカ本土へ異動するケースが大半である。
現支部長のマーリン・ヒラタは胸を張る。
「ここで信心の骨格を強くする。ポートには、アメリカSGIの人材育成機関の使命もあります」
メンバーは軍人である。ベトナム、アフガニスタン、イラク。戦場が仕事場になる。仏法者として戦争に加担していいのか。これほどの煩悶もない。
武力は万能でない。そんなことは軍人が嫌というほど知っている。戦争が好きな人など、いるわけもない。
戦争と平和。国家と個人。矛盾に悩んだ。だから信仰を深めてきた。仏法が必要だった。
池田会長は「軍人は職業です」と言い切ってくれた。
信仰は信仰、理念は理念として、現実を割り切ることが必要だ――何気ない一言だが、どこか負い目のあった彼らに、これほど救いになった言葉はなかった。
◇三崎のマグロ漁船
インド洋の沖を航海する遠洋漁船「永祥丸」のブリッジに、一人の男が上がった。
真夜中である。星空を仰ぎ、慣れた目で北極星と南十字星を見つけ、方角を割り出した。
こっちが東だな。きちっと端座し、漆黒の海の彼方に手を合わせる。題目を唱えばじめた。
マグロ漁師の谷岡圭造である。二カ月前、三浦半島の三崎を出港した。
「ウッ!」突如、目のくらむ光が顔を直撃した。漁業用の強烈なライト。思わず顔をそむけ、身体もよろける。
ヘッヘッヘッ。甲板のどこからか、忍び笑いが聞こえた。また、嫌がらせか……。谷岡は体勢を立て直し、唱題を続けた。
*
戦後、三崎は日本有数のマグロ漁港として栄えた。
日本中から猛者が集まった。腕自慢の漁師が一〇〇〇トン級の巨大マグロ船に乗り込む。三カ月から一年近くの航海を続ける。
海の男は気が荒い。小さな感情のすれ違いが、次の瞬間、出刃包丁片手の斬り合いになることもある。
特殊な環境下で谷岡は信心を貫いた。土佐生まれ。室戸、下田、三崎。名だたる漁港を渡り歩いた。
一九五六年、転がり込んだアパートの大家が後の三崎支部長・中村昇だった。
入会後、漁に出ると、三カ月分の聖教新聞を積み込んだ。長丁場に欠かせない信仰の栄養源である。船室に御本尊を安置。同室の船員もいるので、夜中に無人のブリッジに上がることも多い。
*
戸田・池田両会長との出会いが、過酷な漁師人生を支えた。
静岡での戸田会長の指導会。小児マヒの子を抱える母親に「治るよ! 絶対に治る」。烈々たる確信に惚れ込んだ。
横須賀での会合。音楽隊のドラムを叩いて会員を鼓舞する池田会長がいた。胸がしびれた。
どうせ海に捨てたこの命。学会と師匠のために捨てて、何が惜しいものか。
荒波に揺れながら、船上折伏を敢行した。決めゼリフは二つ。
「この御本尊は凄い!」
「絶対、幸せになれる!」
海の男は理屈では動かない。
男気。勇気。大確信。
はじめは奇異に見られた谷岡だが、次第に船で信頼を集めた
。
◇陸と海の連係プレー
巨大な夕日をバックに、はためく大漁旗がシルエットになって迫っている。
三崎港は出迎えの人であふれていた。マグロ漁師・谷岡の船も見える。
昭和三十年代。マグロ漁は全盛期である。
上陸した漁師を折伏するため、学会の婦人部が待ちかまえている。
勝負は一瞬。波止場で決まる。
陸に上がった漁師が向かうところは一つ。歓楽街の北条湾。札束で腹巻きをパンパンにしている者もいた。北条湾に行かせたら負けである。
下船口に顔を出した谷岡が、塩辛声で叫んだ。
「この三人、頼む!」
「あいよ!」
間髪を入れず婦人部が「お疲れさま。少し休んで行きなさい」。ぴったり横から離れない。
そのころ――。
「さあ、くるぞ!」
三崎の中心者・中村昇が腕まくりした。一部屋四畳半の簡易アパート。妻のアキが腕をふるったマグロの粗汁が、お勝手で湯気を立てている。
てっきり飲み屋にでも案内してくれると思いこんでいた漁師は、入り口で怪訪な顔になった。
「なんだ、ここは」
「まあまあ、なかにお入りよ」
部屋の真ん中に中村が座っている。折伏が始まった。
「創価学会? あっ、あの話か!」
すでに船で谷岡に仏法の話は聞かされている。
陸と海の軽妙な連係プレーで、続々と入会が決まった。
*
北条湾に繰り出す前に、学会の折伏隊はフル稼働した。
料亭の仕事を片付けて駆けつけた宮内静子も、その一人。若いころは売れっ子の芸者だったが、横浜大空襲で人生が暗転。絶望の淵で文京支部の折伏を受けた。
原点は横須賀の座談会場。きりっとした青年が目に付いた。支部長代理の池田青年室長。
「一流の人。本物の人。所作振る舞いが、まったく違う。こういう方がいるなら、広宣流布をやろう」
宮内は一人の若い漁師に目をつけると、素早く横に並び、腕を取った。
「ちょっと、お兄さんッ。いいところがあるんだ。寄ってきなよ」
連れ出し成功。なるほど、折伏の拠点ほど「いいところ」はない。
*
入会後のアフターケアも、しっかりしていた。池田会長は厳しく指導していた。
「三崎の船員は、貯金をするように」
漁師は実入りがいい。陸に上がれば、湯水のように散財する。引退後、蓄えがなく惨めな余生になる。
三崎では「信心即生活」を説き、必ず貯金通帳を作らせた。
漁を辞めた学会員が、次々と家を建てていく。「池田先生の指導のお陰で、まっとうな人生を送れた」。
◇三崎をモデルケースに
一九七〇年(昭和四十五年)の言論問題以降、会長のビジョンは明快だった。
「地域を味方にしていこう」
三崎カーニバル(七一年、七三年)は、その先鞭となった。会長自らが出席することで、学会全体の意識改革をうながした。
七三年、三崎の中心者の一人を訪ねる予定だったが、直前で行けなくなった。
いつか必ず――。その約束が果たされたのは、十一年後だった。
*
穏和な西野巌の顔が引き締まった。
八四年七月。「この前は行けなかったから、今度こそ」と三崎訪問中の池田会長が言ってくれた。
マグロ漁船の元冷凍長。下船すると畑違いの雑貨商を営んでいた。
三崎によくいる“陸に上がったカッパ”である。お世辞にも商売上手とは言えない。
三崎の地域長をしている。学会の看板を背負った店である。
散らかったままの雑貨屋。掃除しておけばよかった、と悔やんだが、会長は気にしない。パッパッと店内を回り、商品の陳列棚に目をとめた。
「これと、それ。これも買おうか」
ティッシュペーパー、タオル、洗剤。ポケットマネーで生活雑貨を次々と買ってくれる。
「皆が会館で使えるからね」
品ぞろえを見ながら「うーん、これからはコンニャクや豆腐も置いた方がいいかな」と、さりげなくアドバイス。
西野には、地域の主婦にも可愛がられる店にしなさい、と聞こえた。
香峯子夫人は
「会館に蚊が出るから、牙城会の方に蚊取り線香も必要ですね」。
買い物が終了。会長はレジをのぞいた。
「しっかり計算して。損してない? 儲かってるね!」
三崎よ、頑張れ!
三崎よ、負けるな!
武骨な手でレジのボタンを押す西野は、温かいエールを感じてならなかった。
◇神奈川で学会を支える
池田会長を乗せた車が、国道一六号線を八王子から南に下っていた。
一九七九年(昭和五十四年)五月三日。本部総会を終え、会場の創価大学を後にした。
宗門は辞任した会長の一挙手一投足に神経をとがらせていた。いつ、どこで、誰と会い、何をしているのか。
向かったのは学会本部でも、自宅でもない。
横浜。昭和二十年代から手塩にかけた神奈川だった。
持論もある。
「第二の都市を固めれば、本丸が強くなる」
東京に対する神奈川。大阪に対する兵庫。節目、節目に第二の都市に楔(くさび)を打ってきた。
「神奈川で、学会を支えよう」。やがて車は横浜の市街地に入った。
神奈川文化会館の完成という要素も大きい。
来館の報に接した神奈川文化会館の事務長・大場好孝は、三週間前の場面を思い出した。
四月十三日の初来館。池田会長は、三十メートルの赤レンガの威容を頼もしげに見上げた。
「名実ともに日本一の建物だ。神奈川だけで使い切れるかな。一生、お世話になるから、よろしく」
しばらくして、また念を押した。
「これから嫌っていうほど来るから」
四月二十四日、勇退の記者会見。大場は、その真意を知った。
複雑な心境だった。勇退の悲しみ。神奈川に来てもらえる嬉しさ。
この会館が完成するまでの紆余曲折が脳裏によぎった。
◇横浜・英国七番館
横浜の山下公園前に、ぽつねんと立ちつくす男がいた。神奈川県の中心者だった横松昭である。
神奈川文化会館の建設が決定したのは一九七五年(昭和五十年)。問題は建設地である。
横松は人を介して持ちかけられた物件が気になっていた。
英国七番館。
中区の山下公園通りには、外国の領事館や商館が建ち並んでいた。
赤レンガの古い建物である英国七番館は、イギリスの船会社が売却先を募っていた。
「ここに会館が建てられれば……」
ボーッ。港の貨客船が汽笛を鳴らした。
*
学会本部の幹部は顔をしかめた。「ちょっと高いんじゃないか」
坪単価の値が張るというのである。頑固一徹の横松は引かない。
「神奈川の同志の真心で建てます」
購買が決定した。池田会長も太鼓判を押してくれた。
後日、小雨の冷たい日。横浜での会合の合間を縫って、会長は現地を視察した。
ひと目見て、うなずいた。
「会員が喜んでくれるなら、いいじやないか。こういう一等地に建てば、皆が誇りに思う。学会が市民権を得られる」
▼「最後は、神奈川で指揮を執りたい」
◇天の時 地の利 人の和
会館建設と平行して、池田会長は新しい神奈川の建設に着手している。
鶴見支部時代から、その歴史は古い。組織も大きくなった。
いかなる組織も、古くなり、肥大化すると、動脈硬化が起きやすい。
薫陶した人間を、次々と送りこんだ。大所帯の神奈川にあって、一つの賭けだった。
ある幹部にも直接、伝えている。
「今度、神奈川に行ってもらいたい」
唐突な話に驚く相手に、さらに踏み込んだ。
「私は最後は、神奈川で指揮を執りたいんだ」
会長辞任という局面も、神奈川で存分に仕事ができる「天の時」と見た。
新しい会館も生まれ「地の利」は整った。
気鋭の人材も登用してきた。後は自ら地域に分け入ることで「人の和」を盤石にすることである。
池田会長は、神奈川で最前線の会員と可能な限り接した。余計な夾雑物(きょうざつぶつ)が、どれだけ「人の和」を乱してきたことか。
勇退直後で、大きな会合もない。聖教新聞でも指導を伝えられない。
そのぶん、一人一人と直接、会った。
「皆が幸せにならなければ、私の責任は、まっとうしない」
神奈川文化会館には、各階の仏間、事務室にペンを置いた。
場所も時間も選ばず、激励の筆を走らせる。さっきまで机に向かっていたかと思うと、パッと横浜市内へ対話に飛び出す。
徒歩あり。自転車あり。道ばたでも話が弾む。どこも即席の相談室になった。
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ある冬の日曜日。
数人の職員と中華街の喫茶店「ミカド」へ。コーヒーを待っていると、一人の女性が来店した。
どこか曇った表情。地元の女子部員であることを職員が伝えた。
軽く手を上げ「こっち、こっち」。女性は、おずおずと隣に座った。
「そうか、二十歳か。偉いね。何でも話してごらん」
聖教新聞で見なくなった池田会長がいる。戸惑いながら、彼女は身の上話をはじめた。
母親の再婚相手が韓国人だった。民族的な感情から日本人を憎み、信心に猛反対している。自分の少ない収入で一家をまかなってきた。
会長は一つ一つ、相づちを打っている。話が終わると語り出した。
「今日を境にして、人生が開けないわけがない。まず題目を三十万遍あげていこうよ」
小さくうなずいた。
「お父さん、お母さんを救っていくのは、あなただ。十メートルの風でぐらつく木もある。五十メートルの風でも倒れない木だってある。要は自分が強くなればいい」
思わず本音が出た。
「先生、実は……。きょうまで、幸せだと思った日は、一度もありませんでした」
「そうか。今日は甘えていい。お父さんに甘えたことなんて、ないでしょ」
もう返事が、声にならない。
「女子部の良い先輩について、しっかりやってごらん。そうすれば、イギリスのほら、何だっけ……」。周りに聞くが、すぐ出てこない。
「そうだ、マイ・フェア・レディ! あれになれるんだ。希望を失わないで」
ロンドンの下町で花を売る貧しい少女が、王女と見まがうほど気品あふれる淑女に成長する物語。
「私が神奈川文化に来たときは、いつでもいらっしゃい」カウンターで遠目に見ていたマスターが、新しいコーヒーを注ぎ、テーブルに湯気が立ち込めた。
◇「正義」の大書
神奈川文化会館の執務室に、和紙、大小の筆、墨汁、文鎮が用意されたのは、一九七九年五月五日の午後である。
何か大切な書き物があるのではないか。指示通り、一式そろえた職員には、予感めいたものがあった。
和紙の大きさは畳半畳もある。職員がすった墨汁も大量である。
最高幹部に対して、ことのほか厳しい時期だった。
「私の言っていることは、すべて戸田先生が言われていたことだ!」
師弟を分断する。会員をいじめる。正義をゆがめる。詳しくは、また語るべき時があろう。会長勇退後の学会は、絶体絶命の淵にあったと言ってよい。
池田会長は和紙を前にした。
この日、複数の揮毫を残している。「共戦」とも大書している。
新たに、真っ白な紙が置かれた。
たっぷりと墨汁を染みこませ、筆先を丹念に整えた。ひと呼吸置いてから、一気に筆を走らせた。
「正義」とあった。
(文中敬称略)