第7回 ハワイ大学

走れ! 最も苦しむ人のもとへ
戦争から平和へ 要衝の地で講演 安全保障は人間のために!


 「アローハ!」
 それは、ハワイの民の胸に鼓動する「平和の心」である。
 そこには――
 「人類への愛」がある。
 「地球への愛」がある。
 「生命への愛」がある。 
  
 一九九五年の一月二十六日、私はハワイ大学(マノア校)を訪問した。
 同大学の「スパーク・マツナガ平和研究所」と、アジア・太平洋の研究・教育で名高い「東西センター」から強い招請をいただき、国連創設五十周年を記念する学術講演を行うためである。
 風光るハワイ大学は、ハワイ諸島に散在する十の広大なキャンパスからなる。五万人の向学の英才が学ぶ、全米有数の州立大学である。
 百年の伝統を刻む大学の「創立者の門」には、誇らかにモットーが掲げられている。
 「人間は国家を超える」と。
     ◇
 いかなる運命か、このあまりにも美しき島・ハワイが、凄惨な日米開戦の発火点となった。
 当時、私は十三歳。真珠湾攻撃を告げる、その日の新聞を配達した記憶も消えない。
 戦争は残酷だ。悲惨だ。
 わが家の四人の兄も軍隊にとられ、長兄は戦死した。父は拳を握って黙し、母は身を震わせて慟哭した。
 その姿が、私の平和行動の原点にある。
 ゆえに私は、一九六〇年の十月二日、ここハワイから、世界平和の大民衆運動へ第一歩を踏み出したのである。恩師・戸田城聖先生の写真を胸のポケットにしのばせて!
 “開かれた島には、世界を照らす光輝あり”とは、独創の地理学者であった創立の父・牧口常三郎先生の着眼でもあった。
     ◇
 ハワイ大学へは、一九八一年、八四年に続き、九五年で、三度目の訪問となった。
 講演に先立ち、総長室を表敬すると、モーティモア総長、ツノダ副総長、イーストマン副総長ら大学首脳が揃って迎えてくださった。
 そして、この九日前に起きた阪神・淡路大震災へ、真心あふれるお見舞いの言葉をいただいた。
 なかでも、臨床心理学研究所所長のマーセラ博士は、「仏教で説かれる『毒を薬に変える』力を今こそ、と念願しております」と真情を寄せてくださった。
 「アロハの心」は、「同苦の心」なのである。
 大震災で、ひとたびは訪問中止も考えた。だが、ハワイで準備に当たっていた担当者が電話口で悲鳴を上げた。
 「大学を挙げてお待ちしています。全米はもとより、欧州からもアジアからも、学者が続々と駆けつけてきます」
 私も妻も苦悩した。ぎりぎりまで出発を延期して、一週間、関西の救援にできるだけの手を打ち、深夜に成田を発った。
 ホノルルに着いたのは、講演の前日(一月二十五日)の朝であった。

1月17日早朝
 それは、一月十七日の午前五時四十六分。震度七の激震が、兵庫県南部一帯を襲った。
 その朝、厳寒のなか、聖教新聞の配達をしてくれていた無冠の友は見た。目の前の道路が激しく波打ち、迫ってくるのを。次の瞬間、地面に放り出されたという。
 この日の夕刊に、一枚の写真が載った。震災直後の午前七時過ぎ、兵庫の西宮。倒壊家屋に閉じ込められた人びとを、住民が力を合わせて救助している姿であった。
 一階も二階もないほど、潰れてしまった家々。
 「この下に生き埋めになった人がいるんや!」
 飛んで来て、必死に瓦礫を持ち上げている人のなかに、地元の学会員がいた。地区部長も地区担当員(現・地区婦人部長)もいた。支部長も支部婦人部長も、そして本部幹部のご夫妻も写っていた。
 余震は続いた。至るところで、炎が上がる。その街々に、傷つき疲れ果てた体で、苦しむ人を救うため、命を賭して走り続ける菩薩たちがいた。いな尊極の仏そのものであった。
 私は合掌して、ひたぶるに祈った。祈らせていただいた。この方々のご無事を。そして、亡くなられた方々のご冥福を――。
     ◇
 六千四百三十四人もの方々の尊き命を奪った大震災。
 高速道路が倒壊し、二十五万戸もの家々が全半壊。道路や鉄道も寸断され、電気・ガス・水道などのライフラインが完全に切断された。
 政府の対応も遅れ、多くのシステムが機能しなかった時、命を守る確かな力を発揮したものは、何であったか。
 それは、現場の人間同士の「助け合う心」であった。人間が本来持つ、「他者に同苦する心」であった。
 のちに、ある識者は、驚くべき力で救援活動を展開した創価学会の連帯を、「ヒューマン・システム」と讃えた。
 ハワイでの私の講演も、国家単位では対処しきれない、環境汚染、自然災害、紛争など、国境を超えて迫る脅威から、いかにして、一人の人間を守るかが焦点であった。
 この「人間の安全保障」という考え方を、「国家の安全保障」を補完するものとして、国連開発計画(UNDP)が発表したのは、前年の一九九四年のことである。
 関西の偉大な民衆の姿に触れ、私は確信した。――何よりも「一人の命」を最優先して行動する人びとこそ「人間の安全保障」を実現する主体者となるはずだ、と。
 講演に臨む私の胸中には、避難所のテントで、自分の食事は後回しにして、笑顔で炊き出しをする婦人の皆さんがいた。悲嘆に暮れる友の手を握って、共に生きようと語りかける壮年の皆さんがいた。そして寒風のなか、一刻も早くと救援物資を運ぶ、凛々しき青年たちが光っていた。
 
人間革命こそ!
 講演会場は、幾人もの米国大統領や英国首相らも講演した、東西センターのジェファーソン・ホールであった。
 全米の主要大学の学者をはじめ、二百五十人の聴衆の熱気で埋まっていた。色鮮やかなアロハシャツの方も多い。
 非暴力の政治学を提唱されたペイジ博士、平和学の父・ガルトゥング博士、ハーバード大学モンゴメリー博士、インド・ガンジー記念館のラダクリシュナン博士ら、長年、友情を重ねてきた方々の姿もあった。
 ハワイは、青き太平洋上にあって、人と人、文明と文明を結んできた。私も、このハワイ大学を縁として、何と多くの知己を得てきたことか。
 初めに東西センターのオクセンバーグ理事長が、私を紹介してくださった。理事長は、中国研究の第一人者で、七〇年代後半、カーター政権下、米中の国交正常化に尽力された英邁なブレーンである。
 私が掲げた講演のテーマは、「平和と人間のための安全保障」。
 これまでの“国家のため”の安全保障を超えて、“人間のため”の安全保障を構築するために、三点の「発想の転換」を提示した。
 (1)知識から智慧
 (2)一様性から多様性へ
 (3)国家主権から人間主権へ
 そして、軍事力や「国益」にとらわれた弊害を克服するために、一人ひとりが「人類益」の視座に立つ、平和創造の世界市民に育っていかねばならない。
 根本は、民衆自身が強く、賢明になり、正義のために連帯する力を持つことだ。
 そのための「人間革命」こそ、平和と人間のための安全保障を可能にする王道である――と訴えたのである。
 幸い講演は共鳴の大拍手で迎えられた。さらにその場で、スパーク・マツナガ平和研究所からの、第一号となるアロハ国際平和賞を、グアンソン所長が授与してくださった。
 「今日、人間の尊厳性への宣言がなされました。
 それは二十一世紀へ向けた『地球文明』構築への方途を示しています」と。
 私は、震災の筆舌に尽くせぬ苦難のなかで、まさしく「人間の尊厳性」の大光を放ちゆく、わが関西の同志に捧げゆく思いで謹んで拝受した。
     ◇
 SGIの発足二十周年を記念して、講演の翌々日、二十九カ国の代表が集い、「世界青年平和文化祭」が開催された。
 タヒチサモアニュージーランド、そしてハワイ……太平洋の島や国に伝わる多彩な舞や音楽が、美事な調和の絵巻を織りなした。
 圧巻は関西吹奏楽団。関西の歌「常勝の空」が始まると、参加していた関西の交流団が立ち上がり、手を振りながら大合唱となった。私も妻も、声を限りに歌った。
 「希望の歌声よ、愛する関西に届け!響き渡れ!」と。
 そしてSGI総会等を終えると、私は逸る心で関西国際空港へ直行したのである。
 翌九六年、私は「戸田記念国際平和研究所」を創立した。所長にはハワイ大学のテヘラニアン教授をお迎えし、ホノルルに研究拠点を置いた。
 恒久平和という恩師の悲願を託した研究所は、「人間の安全保障」「グローバル・ガバナンス(地球社会の運営)」を柱に、知性の連帯を世界に広げている。
     ◇
 大震災から十二年――。
 関西の友からも、ハワイの友からも、尊き勝利の近況を頂戴する。
 ハワイ大学の紋章には、州のモットーが刻印されている。「正義が栄えるところ、国土の生命は永遠に輝く」
 ゆえに正義は断じて勝たねばならぬ。「アロハの魂」は「常勝不敗の魂」なのである。